第9話 虐殺と、水の魔女
単純な筋力だけならば、にゃん太郎に分があるのだろう。
カゼルはにゃん太郎の攻撃を決して剣で受けようとはせず、神経を研ぎ澄まして回避し、にゃん太郎の攻撃の隙を突くことに徹する。
血の滲む鍛練の日々と、実戦の只中で死線を掻い潜り練り上げられたカゼルの戦闘技術はその蝶のように舞い、蜂のように刺す立ち回りを可能とした。
カゼルは、痛みと出血に鈍りつつあるにゃん太郎に重ねて幾太刀をも浴びせ、その戦いは次第に一方的な展開を見せる。
猫人達の集落。
その広間は族長の鮮血に染まる。
致命傷こそ受けていなかったが、全身を膾切りにされるにゃん太郎。
しかしその執念の凄まじさたるや、にゃん太郎はしぶとくカゼルの前に立ち塞がる。
「にゃ……?」
がくり、と膝を落とすにゃん太郎。
出血の為だろうか、脚に力が入らない。
ならば腕で這ってでも食らい付いて、何としてもこの男を止める。
だが、にゃん太郎のそんな不屈の闘志を体の方が見放したかのように、にゃん太郎の肉体は次第に痺れ、言うことを聞かなくなった。
「やっと毒が回ったか」
カゼルはにゃん太郎の様子を見て、勝ち誇るような哄笑を上げる。
「ぎぎ…動け…にゃ…い…」
にゃん太郎は辛うじて膝をついてはいるが、地面に伏すのを堪えるのに必死という有り様だ。カゼルは剣の構えを解いて、マスティフを血振りしてから背中の鞘に納めた。
「矢に麻痺毒を塗ってる、半日もあれば自由になる程度のもんだ」
カゼルは体の自由の効かないにゃん太郎にゆっくりと歩み寄りながら、プラプラと左手に持ったマスティマを振り回す。
それは、これからお前を斬るという嚇しに他ならない。
「芋虫程度に、だがな」
カゼルが柔らかに握ったマスティマは閃いた。青白い光だけを残して、空を裂く斜め十字の軌跡。麻痺毒に侵されたにゃん太郎の右腕と右脚は、物理的にも切り離された。
「ぎ に゛ゃ゛あ゛あ!!」
血を撒き散らしながら、今度こそ地面に倒れるにゃん太郎。
「族長を助けるにゃ!」
最早見てはおれぬとばかりに、猫人達は一斉にカゼルへ襲い掛かる。
「精々泣き喚いて己の無力を呪うが良い、獣人」
カゼルは、血と泥にまみれ、毒に侵されたにゃん太郎に止めを刺すことはせず、その頭を足甲で蹴り飛ばす。それを皮切りに、隊長の一騎討ちを見守っていた特務騎士達は、襲い来る猫人達より尚も獰猛な勢いで、剣を槍を振り上げ彼等へ襲い掛かった。
血飛沫と悲鳴が上がる。
その中にはリサール人から発せられたものは無かった。
猫人の戦士達と、勇気を抱いた住民達の族長を助けるという意識に、恐怖と苦痛が伝染していく。やがて及び腰になり、逃げ惑う彼等を、カゼル達は一切の容赦無く惨殺し始める。
「……やめ…て…くれにゃ……」
それは殺戮だった。
村の者達がにゃん太郎の目の前で物言わぬ肉塊へと変えられていく。ほんの今朝まで穏やかだった猫人達の村は、鮮血で彩られ、彼等の屍が積み上がる。彼等の日常は無慈悲な虐殺によってドス黒く塗り潰された。
「毛皮は焼けてない死体から剥げばいい、火を放て、こいつらは皆殺しだ!」
カゼルの配下の特務騎士達は手慣れたように油や火薬を撒いて集落に火を付け始める。
「帝国に刃向かうとどうなるか、思い知ったかゴミども!ハァハハハ!!」
カゼルが虐殺の狂宴に哄笑する、その時だ。
全身火傷まみれの猫人の子供が、燃え落ちる村落の瓦礫の隙間から飛び出し、カゼルに襲い掛かった。
「お父さんを、皆を虐めるにゃー!」
その子供は、敢えて火炎の中に身を投じてまで、カゼルを葬る機会を伺っていたのだろう。その俊敏さ、その執念は凄まじかった。猫人の子供は、見事にカゼルに一撃を見舞い、その兜の角をへし折って装甲に傷を付ける。
だが、鋼鉄製の兜に守られたカゼルの頭部に傷を付ける事は敵わなかった。カゼルは鬱陶しそうに小気味良い音を立てて首を回す。
「死にてェらしいな、ガキ」
カゼルの血走った瞳に、子猫人の顔が映る。
「…にゃん次郎…止めろにゃ…!逃げろ……逃げてくれにゃあぁッ!!」
麻痺毒に抗いながらもがいて、悲痛に訴えるにゃん太郎。カゼルは彼がにゃん次郎と呼んだ子猫人の首根っこをいとも容易く掴まえた。その首筋にマスティマの剣先があてがわれる。
「うぎぎ…離せにゃ!お前なんか…ボクがやっつけてやるにゃ!」
にゃん次郎と呼ばれた子猫人は、子供ながらに爪を出し、牙を剥いてカゼルに食って掛からんとする。だが、如何に鋭い爪や牙であっても首根っこを掴まれてしまっては届く筈も無かった。
「成る程お前のガキか、中々良い面構えじゃねェか」
カゼルは、笑顔を浮かべる。
その瞳には狂気が澱を成している。
狂気が孕ませた底無しの悪意を感じ取って、にゃん次郎は絶望と恐怖に眩暈さえ覚えた。
「息子が毛皮を剥がされるザマをよく見てろ、獣人!」
「…ゲホッ…お願いだにゃ…息子には…!手を出さないでくれにゃ…!」
カゼルがにゃん次郎の首を切り裂こうとしたその時、またしても彼の剥ぎ取りは妨害される。
「何をしてる」
凄惨な虐殺に割って入ったのは怒りに震えた声。マルヴォロフ達よりも速く駆け付けたアーシュライアは、横合いからすり抜け様に、カゼルの腕からにゃん太郎の息子を奪い取った。
アーシュライアが随伴させているウォータースピリットは水を沸き立たせる。
そうしてカゼル達が村に放った炎を、猫人達を焼き払っていた火を消し止め始めた。
「オイオイ…何で此処に来た?てめェの持ち場は姫様の警護だろうが」
カゼルは、まるで部下の失態を咎めるような口振りだ。
「何で彼等を殺す必要があるんだ!」
アーシュライアは斧槍を振りかざし思い切りカゼルに斬り掛かる。この一撃で、最低でもカゼルを沈黙させるべく渾身の力で振り抜いた。
カゼルは危うく、先程にゃん次郎に突き付けていたマスティマで受け止める。受け損なう事は無かったが、凄まじい火花が彼の目の前を走った。
基本的に剣で相手の攻撃を受けるのは、彼の望むところではない。
百歩譲って、肉厚の大剣であるマスティフならともかく、切れ味に優れ鋭い刃を拵えたマスティマでは特にそうだ。
アーシュライアの一撃は鋼鉄の甲冑を着込んだカゼルの命にも届きうる威力だったが、カゼルはそんな事よりも愛剣の刃こぼれが気掛かりで苛立つ。
「何の真似かな?アーシュ、ライア」
たどたどしいながらも彼女の名、エルマ語の発音を徐々にマスターしつつあるカゼル。
苛立ちにざらつかせた声で彼女の名を呼ばわると、彼の背後の残火は僅かながら勢いを増した。
アーシュライアはその増した火の勢いにも、凶悪な殺気を放つカゼルにも怯まず、彼を睨み付けた。
「お前はこんな子供まで殺すのか?それでも騎士か!?」
アーシュライアは斧槍を構え直し、叫ぶ。
ウォータースピリットは、沸き立った水を残火に浴びせる。火傷を負いながらも生き残っていた猫人達にも水を掛けた。
仕事を邪魔された特務騎士達は、不満げな顔を浮かべつつ彼女達が操る水に触れぬよう退いた。
「何を眠てェ事言ってる?塵一つ残さねえのが、掃除ってもんだろうが」
カゼルの口から出た掃除という言葉。
彼が亜人種をごみ同然に思っているのは本心なのだ。
「貴様、ふざけるなよ!こんな虐殺になんの大義がある!」
アーシュライアが握る斧槍は、怒りに震えた。怒りに任せた一撃など、この男には通じない。分かっていながら彼女はあまりの憤激に打ち震え、それを抑えるのに苦労した。
「大義?なんだそりゃあ?ハハハ!」
カゼルは、にゃん太郎の言動を真似てか首を傾げてみせた。職務に文字通り水を差され、殺気立っていく部下達の精神を慮ってのものだ。特務騎士達も、そのやたら上手な物真似を余興とし、笑い声を上げる。
無論、彼はその大義という言葉の意味が分からない訳ではない。いきり立つアーシュライアを煽り立てての事だ。
一頻り嘲笑った後は、ぴたりと哄笑を止めるカゼル。その落差も含めアーシュライアの神経は益々逆撫でされる。
「ガタガタうるせェぞ、さっさとそのガキ猫を渡せ。この化け猫の目の前で八つ裂きにして仕上げだ」
カゼルはさも鬱陶しそうな口ぶりで、アーシュライアに右手を差し出す。まだ彼女の正義感も、その激昂も出来の悪い冗談で済ませるつもりなのだろう。
「断る!これ以上やるなら私が相手だ!」
アーシュライアは毅然として覚悟を決めた。
にゃん太郎親子を庇ってカゼルの前に立ちはだかった。
「はァ?何をトチ狂った事を、変な薬草でも摘まんだのか?ハハハハ!!」
カゼルは虐殺の熱狂、その余韻を懐きながら再び哄笑する。特務騎士達も、各々にアーシュライアを嘲るような表情を浮かべる。
「抵抗出来ない者をいたぶることは出来ても、私と戦うことは出来ないのか?卑怯者が!」
それはアーシュライアの本音であると同時に、カゼルとの一騎討ちに持ち込むための挑発であった。アーシュライアは非道を見兼ねてカゼルの斧槍を構える。
随伴するハイ・ウォータースピリットもまた、カゼルの、彼等の行いが許せないのか、その身体を構成する水は波打ち、マナを滾らせている。
水の元素精霊の主はいつぞやのように消耗しきった状態ではなく、今回は万全の体調だ。
アーシュライアとて無謀な正義感を振りかざす蛮勇ではなく、勝算あっての行動だ。
カゼルはカゼルでアーシュライアの言葉が余程勘に障ったのか、またピタリと哄笑を止めた。
いつになく彼はそのフルフェイスの兜の中で真顔になっていた。何故こうもアーシュライアの言葉に、激情を駆り立てられるのか。
それは彼自身理解が及ぶところでは無い。
その顔は、憤怒と憎悪に心を埋め尽くされた者の顔だ。人間の人間らしい感情を根刮ぎ焼き払ったが故の無表情だった。
「……弱者をいたぶるだ?弱者はいたぶられて然るべきなんだよ。アーシュ、ライア……!」
カゼルは、差し出した右腕を引き戻すと緩やかな動きで背負うマスティフの柄を握り、刃音も立てず鞘から引き摺り出した。
上官の不気味な無音の抜刀に慄き、特務騎士達の顔からも嘲笑は消えた。
そしてカゼルは先程同様、引きずり出したマスティフを右肩へ構えた二刀流の構えを取る。構えこそ同じでも、にゃん太郎をいたぶり、切り刻んだ時と何か決定的に違った。
彼が燃やす闘志も、二刀が纏う凍て付く光も、どこまでも静謐を湛え、その殺意の深淵を表した。
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