第三章 生きている限り

     1

 ぽっかりぽっかりと浮いてゆらゆら漂っているような精神状態、といえばいいだろうか。

 童話のようなのんびりしたものではなく、なんとも自分自身にぎすぎすと突き刺さるような類の。


 はる先輩の事情は理解出来た。

 でもだからといって、はいそうですかと簡単に代表を受けるわけにもいかなかった。


 間抜けな悩みであることは重々に承知している。

 知り合いの誰かがこんなことで悩んでいるようなら、わたしは間違いなくそいつのお尻を蹴飛ばすだろう。男のいるようなところで、平気でそいつのスカートをめくってパンツ下ろしたりして気合い入れてやるだろう。


 そんな状態に、まさかわたしがなっているとは。あ、いや、パンツ下ろされたのではなく、そんな浮ついた精神状態になるとはという意味だ。


 仕事に手がつかず、毎日ため息ばかりだ。

 たけ課長に怒鳴られたり、うちわの柄でおでこ突かれたり刻んだ消しゴム投げ付けられようとも、気付けばまたため息をついている。


 なんだろ、わたし。

 なんだろ、この気持ちは。


     2

「ふーん」


 はまむしひさは、小学生男子のような小柄な身体をどっかと背もたれに預けると、大袈裟に腕を組んだ。


 ここは東京都北区にある喫茶店。

 わたしの勤務する会社から徒歩で二、三分のところだ。


 久樹は現役のなでしこリーガーである。

 熱海あたみエスターテレディースというチームを社会人リーグから二部に上げ一部に上げた立役者で、現在もそこで活躍している。


 熱海というからには当然本拠地は静岡であり、そこで暮らしている。本日はここ東京都北区にある競技場でサッカーの試合が開催されたため、その後にこうして顔を合わせているというわけだ。


 先日のおりのお葬式の際にも会っているが、そのような場で楽しい会話なんぞ出来るはずもない。だからといって、今日はあの日の分まで盛り上がって取り戻すぞーっという雰囲気にもならなかった。

 ならなかったどころではない。お葬式で会った時以上に、暗かった。


 原因はわたしにある。

 久樹は別に普段通りだ。


 愚痴というか、悩みというかを、わたしはずっと久樹に話していた。誰かに聞いて貰いたくて、共感して貰いたくて。体内にどす黒いもやもやが大量に溜まっていたから、それを吐き出したかったのだ。


 要するに、はる先輩とのことだ。

 まさか肉親があそこまでの状態であることなどは話すわけにはいかなかったけど、交通事故で介護が必要なために代表を辞退したという要点はしっかりと聞いてもらった。


 ふーんなどと興味なさそうな態度を示しながらも、久樹はいつもしっかりと聞いて、親身になって答えてくれる。

 だからこういう悩みを相談するのに久樹を選んだのだ。同じアスリート同士、分かってもらえるとも思ったし。


 でも、今回の久樹の反応は、わたしの希望するものではなかった。正直、もしかしたらと予想はしていたけれど。


「代表、行けば」


 久樹は、さらりとそういったのである。


「だからさあ、そんな単純な心理状態じゃないから困ってんだよ」

「なんで難しく考える必要があんのさ」

「知らないよ」

「でもせっかく薦めてくれたんだろ。あのはるに信頼されてるなんて、凄いよ」

「そこだよ、そこ! そりゃあ春江先輩の辞退は仕方ないってのは分かったけど、いま引っ掛かってんのはいま久樹がいったとこなんだよ。なんか春江先輩ね、前々からよく代表監督にわたしの話をしてたらしいんだよ」

「羨ましい。あたしも誰かなでしこに推薦してくれないかなあ。あたしがどうかはともかく、能力あるのに機会がなくてって人はたくさんいるんだよ。だから、そういう機会を掴む星周りの良さも才能なんだよ。つまり梨乃は才能があんの」

「でもそれ、なんか複雑じゃんか。分かる? もうさあ、介護が大変だろうにとか、そんな話はしてないよ。あたしの話。あたしの気分の話だけしてる」

「また梨乃が面倒くさいモードに入ったよー。だから、行けってば。凄いじゃんかよ、二児の母で日本代表だなんて。テレビかなんかに取材されて、それがきっかけでママさんアスリートブームが来るかもよ」

「だから分かってないな久樹は! そんなことどうだっていいんだよ! だいたい春江先輩が悪いよ。親があんなことになったんだもの、辞退は仕方ないよ。そこはもう同情するしかない。でもそれとあたしへの態度は別のことだろ。犬に骨やるような真似して優越感に浸ってないで、少しはこっちの気持ちも考えろってんだよ」


 なおもぶつぶつとわたしが呟き続けていると、久樹が突然目の前のコップを手に取って立ち上がった。


 テーブルに手をついて少し身を乗り出した次の瞬間、わたしの頭に冷たい液体が降り注がれていた。

 なみなみと入ったコップの水を、頭からかけられたのだ。


 他の客がびっくりしてこっちを見ている。

 わたしは呆然とした表情のまま、久樹の顔を見上げていた。


「ああっ、ごめん梨乃!」


 久樹ははっと目を見開き、慌てたようにそういうと、わたしのコップにも手を伸ばし、罪滅ぼしということなのか今度は自分自身の頭にばしゃりと降りかけた。


「久樹……」

「ほんとごめん。自分の話じゃあないのに、なんだかどうしようもなく悔しい気持ちになっちゃってさ。……大好きなフットサルで代表召集を辞退することになった野木春江の気持ち、分からないかな?」


     3

 どうせ、わたしが悪いのだろう。

 ことごとく、すべてのことが。


 分かってる。

 でも、わたしにだってわたしの感情ってものがあるんだし、共感してくれたっていいじゃないか。


 あそこでひさはる先輩の肩を持って、それでなにがどうなるわけじゃないだろう。

 話さなければよかったよ。

 バカバカしい。


 ここは千葉駅へと向かう特急の中。

 わたしは缶ビールを飲みながら、携帯メールを打っている。


 久樹と別れた後も、わたしの気分はいっこうに晴れることなく、むしろどんどん落ち込んでいくばかりであった。


 だいたい久樹って、ちょっと正直過ぎるんだよな。

 なんでもずけずけといえばいいってもんじゃないだろ。


 でもさあ、本当にわたしが悪いことか?

 ああまでいわれ、コップの水をぶっかけられなけらばならないくらい、わたしだけが悪いことか?


 それぞれに考えというものがあり、別にどっちが正しいどっちが悪いというわけじゃないだろ。

 じゃあわたしも久樹も、お互いにコップの水のかぶり損じゃないか。


 くっだらない。

 などと、わたしの不満の対象は、代表を恵んでくれた春江先輩から、不満に対して共感してくれない久樹へと変わっていた。


 少しでも「うん、そうだね」といって貰えればわだかまりが解けて代表召集を受けてみようかという気になっていたかも知れないのに、などとそんな気持ちが心の片隅にあって、それが久樹へのイライラに繋がってしまったのかも知れない。


 要するに、一言でいってわたしは子供なのだ。

 でもまあ、久樹と戦っても仕方がないし、ここはわたしが折れておけばいいのだろう。


「はいはい、わたしが悪うござんした、と」


 携帯の、送信ボタンを押した。

 久樹への謝罪メールだ。


 メールで文章を送るというのは実に便利だよな。どんなに感情が最悪であろうとも、そういうのを表に出さずに上っ面のみを相手に伝えることが出来るのだから。


 何度も何度も添削を重ね、髪の毛を掻きむしりながら不満に満ち満ちた言葉をそぎ落としそぎ落とし書き上げたメール、この内容をさも平然としているかのような態度で相手に伝えることが出来るんだから。


 ブーーー、っと膝に置いたバッグの中に振動を感じた。

 返信が来たようだ。


 きっと怒っているに違いない久樹。謝罪メールなど無視されることも覚悟していたというのに、思いのほか早い返信だ。

 いや、怒っているからこそ返信が早いのかも。怒りの絵文字が一つだけだったり。


 わたしはがさごそ携帯を取り出し、自分の気持ちをごまかすように缶ビールを一口に含むと、返信内容を見た。


 ビール噴いた。



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 にゃんすか先ピー ゴメソてえ


 嗚呼あれえ? いつ田ったけ先輩があたしのタコ焼きで勝手におてまら始めてぜんぶ由加にブチ落としたくせに、もったいないから食えとかいってとかいってあたしに食べソせ増田よねえ


 酒けけで世っててリノチン覚えてなあいなんてナメたことゆってましたが、そうですかあサン年ぶりにして酔いがさめて過去のザンギャクを重い出汁増田か、射精する機になり増田か。いっぱいおっぱいおごってくれたらゆるしてア ゲ リ。いい飲み屋死ってん酢よ。あ、さっきのまちがった射精じゃなくて謝罪だ。どうでもいいけど。じゃあぬー といえば立花りさあ


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 げほげほとむせかえりながら、思わず腹を抱えて笑ってしまっていた。

 ほんとお腹が痛すぎるぞ、なんなんだこのアホ文。


「まるで王子の文章じゃんか。なんだよ許してアゲリって、バカじゃないの久樹。つうか立花りさって誰だよ。おてまら、ってわざとか。お手玉だろ。射精じゃなくて謝罪だ、って分かってんなら送る前に書き直せよ」


 身体をよじれさせながら携帯の画面を改めて見てみたところ、送信者にえんどうゆうの文字が。


「やば、間違って王子に送っちゃった! 参ったなもう」


 わたしは頭をガリガリ掻いた。

 久樹への謝罪文を、王子が自分への謝罪と勘違いしてこんな返信をしてきたんだ。


 でもいつわたしが、あいつに謝らなきゃいけないことしたよ。床に落ちたタコ焼き食べさせたとか、わたしって酔うとそんなことするの? 覚えてない。きっと王子のでっちあげだ。


 しかしインパクトあるアホ文な、これ。すげーよ、王子のセンス。


 っと、いまはそんなことどうでもいいや。

 とりあえず王子に訂正メールだ。

 あまりの強烈なバカバカしさに、わたしはすっかりにまにま顔になってしまったまま、王子への返信を書いて送信した。



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 ごめん王子。

 さっきのメール間違い。

 久樹に送るつもりだった。

 削除しといて。削除って言葉、知ってる? メールを消すことだよ。

 よろしく。

 余談だけど王子ってさあ、羞恥心もへったくれもなくさりげなく下ネタ折り込んでくるけどさあ、わざと書いてるなら別にいいんだけどね、あたしも嫌いじゃないし、でも単なる変換ミスなんだったら戻して修正すればいいでしょ。喋りを聞かせるわけじゃないんだから文面整えてから送りなよ。

 じゃあね。

 別に久樹と喧嘩なんかしてないからね。

 他言無用のこと。

 ああごめん、誰にも言うなってこと。


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 送信し終えた後も、まだわたしは声を殺して笑い続けていた。

 遠藤裕子、ほんと面白いな、あいつは。


 二十歳過ぎて素であんな文章が書けるなんて。あれは狙ってやっていない。断言する。素だ。


 会えばもっとブッ飛んでるけどね。奇声上げて裸で走り回るし、まあ羞恥心のないこと常識のないこと。わたしも人のこといえないけどねえ。

 ふふ。


「って、違うだろ! あたしはいま不機嫌の境地! 気分最悪、断じて微笑ましい気分になどなっていない。いまのわたしはデビル梨乃! そう悪魔の化身!」


 ぐいい、と人差し指で両の目を吊り上げた。


「あ、いや、なんでもないです、すみません」


 車掌だかなんだか知らないがまたあの坊主頭の乗務員さんが、怪訝そうな顔でこちらを見ながら通り過ぎて行ったのだ。


 よく会うな、あの人。まあ同じ時間の電車に乗るからなんだけど。


 なんか、どうでもよくなっちゃったな。色々と。

 イライラしていることが、バカみたいに思えてきたよ。


 だからって代表召集受けますというわけじゃないけど、とにかく久樹に改めてメール送っておくか。


 先ほど裕子に誤って送ってしまったメールを宛先訂正して直せば良いだけなのだが、裕子とあんなやりとりをしたことによってなんだかもう薄汚れてしまった気がして、新規に文章を書き直した。


 自分でも不思議なのであるが、先ほど書いた文章とは驚くほどに別物になった。


 わたしは、遠藤裕子に感謝していた。



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 ごめんね、久樹。

 春江先輩の立場になって怒った振りをしただけで、あれ、あたしのことを考えてくれての行動だったんだよね。

 分かっているのに、すぐ表面のとこだけ取って勝手にぶすくれてしまう。これ、あたしの悪いとこだ。

 気分悪くしたでしょ。ほんとごめんね、久樹。

 まだ、なんというのかな、自分の気持ちをうまく言葉に出来ないんだけど、要は納得を探したいなと思ってんのかなと思うんだよね。妥協点、などというと冷たい感じがするけど、でもそういうことなんだ。

 喫茶店では色々と愚痴っちゃったけど、でも、もう誰への不満もないよ。

 さっき王子から、オバカなメール貰っちゃってさ、大笑いしてさ、すーっとイライラが引っ込んじゃった。そうなると、怒っていたのが恥ずかしいよね。穴があったら入りたい気分だ。

 代表のこと、受ける受けないは別として、やっぱりもう少し考えたい。

 自分の、大切なことだからこそ。

 納得のいく答えを、必ず探してみせるから。


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     4

 などとかっこつけてはみたものの、どうすればいいのだろうか。

 さっぱり分からない。

 自分の心のことだというのに、むしろそうだからこそ、どうすればいいのか、どう思えばいいのか、まったく分からなかった。

 納得を得るために、なにをどうすればいいのか。


 わたしは右手をすっと伸ばすと、手のひらを返して、持っていたボールを落とした。地面につく直前に右足を軽く振って、ボールの芯を叩く。


 ボールは壁に当たり、大きく跳ね返って戻ってきた。

 フットサルのボールは普通こんなに弾まない。なら何故弾むのかというと、これはサッカー用のボールだからである。


 おでこで受けて、するりと落とすと、右足でまた大きく蹴った。

 跳ね返りを今度は左足で蹴った。

 いや、失敗した。真っ直ぐ蹴ることが出来ず斜めに飛んで、壁に跳ねてさらに遠くへと転がって行ってしまった。


 これは壁打ちといって、一人でやる練習方法の一つである。

 高校生の頃から、なにかに悩むとよくやっている。

 壁打ちは得意なんだけど、こんなミスをしてしまうとはまだまだだな。


 悩んだ時にやる壁打ちなんだったら、ヘマするのは当然な気もするが。


 わたしがいるのは会社の敷地内にあるフットサルコートの、隅にある事務局建物の裏側だ。


 ここ以外だとみんな網のフェンスであるため、壁打ちに適さないのだ。

 建物裏側には窓ガラスがないため、壁部分が広くて最適だ。

 表からだと窓があるし、人に目撃されやすく、社の建物にボールぶつけて遊んでいるところをお偉いさんに見られた日には大変なことになってしまうからな。


 失敗して遠くへ転がってしまったボールを拾ってくると、再びボールを蹴った。


 今度は一回たりとももたすことが出来ず落としてしまった。しかも利き足である右で蹴ったというのに。

 やっぱり調子が悪いようだ。


 壁打ちなどフットサルにあまり必要ない技術であり、最近この練習をあまりやってなかったので、少なからず技術が衰えてしまったところもあるんだろうけど。


「バツンバツン聞こえると思ったら、またここか」


 建物の陰からうきすみれが姿を表し、わたしに向けてボールを蹴った。

 山なりの弾道で、丁度わたしの足元にぽとりと落ちた。


「おお、上手に蹴れるようになったじゃんか、すみれちゃん」

「なにいってんだよ、六歳も年下のくせしやがって」

「じゃあ勝負しよっ、落としたら負けね、ほらっ」


 わたしはいうが早いかボールを壁へと蹴っていた。

 すみれは跳ね返ったボールを蹴ろうとして、ちょっとあたふた、足先を出したはいいが当て損なって明後日の方向に飛ばしてしまった。


「はいすみれちゃんの負け~。止まったボールを蹴るのだけは少し上達してきたすみれちゃんの負け~」

「ずるいだろ! 急に蹴ってこられて反応出来るかよ」

「じゃ、もう一回」

「よしきた」

「いくよお。さ~ん、に~い、い~ち、それっ」


 わたしは丁寧にボールを蹴って、壁に当てた。

 軽い山を描いて、すみれへと落ちた。

 これなら初心者の小学生だってボレーシュートを百発百中で決められるだろう。というくらい優しいボールの軌道であったはずだが、すみれはまたもや思い切り蹴り上げてしまった。


「はい、すみれちゃんの負け~」

「だってあたしゴレイロだもん!」


 必死に弁明する三十ン歳。


「分かった分かった。すみれちゃんがゴレイロじゃなかったら、あたしの方が負けてたよ。プロゴルファーとか水泳選手とかだったらさ」

「くっそおおお、むっかつくなああ。飛び降り自殺でもして、お前の家を末代祟ったろか。って、そんなことより、なにしてたんだよ。ひょっとして、またうじうじ悩んでんの?」

「うん」

「あの代表に呼ばれたとかって話?」

「うん」

「行ってくりゃあいいじゃん。会社休めて給料も出て、ずっとフットサルやってられて上達出来るんだから、それだけでも儲けもんだろ。代表定着出来りゃあ、それこそそれで食べていけるかも知れないし、面白キャラを押し出せばタレントへの道も開けるかも知れないよ」

「そういうの、ぜんっぜん興味ないから。まあ代表そのものは、やっぱり憧れだけどね。タレントなんかはどうでもいいけど。でもさあ、色々と心にもやもやがあってね、それが晴れなきゃ行きたくないというか、行くに行けないというか」

「バカじゃないの? 勿体ない。召集されて参加したってことは永遠に残るんだよ、日本のフットサル史に。断る理由が分からん」

「いや、断らないための理由を探しているんだよ」


 以前のわたしと違い、現在は召集を受けることに乗り気にはなっていた。ただ、なにも考えずに召集をただ受けたくはないのだ。久樹にメールで伝えたことだけど、納得をわたしは探しているのである。


「同じじゃんかよ。それが見つからなければ召集を受けないなんてさあ」

「わっからねえかなあ、この乙女心」

「二人もぽこんと股から出しといてなにが乙女だよ。ほんとバカ。バカリーノだ。バーカバーカ、バカリーノ」

「すみれちゃんってしゆうめいいん大学出身の知り合いいたっけ?」

「いや。あたし高卒だし、そんな大学聞いたことない」


 じゃあ、なんでその呼び名を知ってんだよ。


「まあいいや。とりあえず、もう一度壁打ち勝負だ。バカバカいわれて頭に来た」

「やだよもう。ゴレイロ勝負ならやってもいい」

「いいよそれでも」

「うおっ、なんだその自信。そういやリノエモン、ゴレイロ経験もあるんだっけ。じゃ、やっぱりやーめた。今日は調子悪い。もう帰らなきゃ。じゃあね」


 浮田すみれは都合が悪くなったものだから、ごまかしながらそそくさ退散してしまった。

 調子悪いって、わたしだって相当に調子悪いんだけど。

 それよりなんだったんだ、あいつは。


 というか、わたしこそなにやってるんだかな。

 なにかを悟ろうと思ってボールを蹴ってみたものの、絶不調ということをただ実感しただけだもんな。

 まあ、すみれちゃんの明るさに、ちょっと元気づけられただけいいか。


     5

「えええ、ちょっとまたあ?」


 身体正面が泥まみれとなったわたしの姿に、継母のきぬさんが素っ頓狂な声を上げた。

 絹江さんのいう通り「また」わたしが、背後からの足音をお父さんのだと勘違いして、慌てて隠れようとぬかるんだ縁の下に潜り込んでしまったのだ。


「はい、またですよ。でも汚れてもいい服なんだから、別にいいじゃん。よそ行くわけじゃないんだから」


 わたしが着ているのは、よれよれのTシャツにところどころ擦り切れたジーンズ。子供の相手をすることでこのように泥まみれになったりもするから、わざとこういうのを選んで着ているのだ。

 といっても、いまは別に子供の相手をして泥まみれになったわけではないのだけれど。


「そうじゃなくて、まあよそ行きの高い服を汚しちゃうよりはいいけど、とにかくそうじゃなくて、まだ親子喧嘩ごっこしてることいってんの!」

「ごっこは余計だよ」


 本当に喧嘩してんだからな。

 もう二ヶ月くらい冷戦状態だ。冷や奴よりも冷たいぞ。


「余計じゃないよ。だって考えてみなよ、片方は喧嘩じゃないと思っているどころか、そもそもまるで気付いてもいないんでしょ? 梨乃ちゃんのその雰囲気にさあ」

「まあ、そこだけ取り上げればまさにおっしゃる通り、ごっこですけど。でもそんなら、いつもあたしがあんなに愚痴を並べているんだから、お母さんだって状況改善のために少しくらいは協力してくれればいいのに」


 お父さんをそれとなく上手に誘導してくれるとか。

 でも絹江さん、それじゃ本当の仲直りにならないでしょ、とかいって、わたしたちの喧嘩に一切ノータッチなんだよな。家族のためを思っての、自分なりの確固たる思いあってのことなんだろうけど。


 ここは、わたしの実家の狭い裏庭だ。

 いまここにいるのはわたしと絹江さんと、わたしの子であるしんすけふた、わたしの弟であり絹江さんと父の子であるじゆんの五人。


 子供たち三人は、仲良くサッカーボールを蹴って遊んでいる。

 どうもこの子らの間では、現在サッカーブームのようだ。顔を合わせればボールばかり蹴っている。


 最初にやり始めたのは、一番年下でなおかつ女の子である双葉だ。

 最初はわたしとパス練習などをしていたのだけど、それが二人にも伝わって、最近では子供だけでボールを追いかけている。

 どうせすぐに熱が冷めてしまうのだろうけどね。


 でも、もしも今後も続けたいのであれば、いずれはスクールにでも入れて本格的にやらせてあげてもいいかな。

 もちろん順也のことはお父さんと絹江さんが考えることだけど、伸介と双葉に関しては。


 わたしはフットサルを始めるのが遅かったため、あと一歩あと半歩実力が届かずという歯痒い思いを色々と経験している。

 子供たちが大きくなった時に、そんな思いをして欲しくないし、それに小さな頃からスクールでスポーツを学ぶなんて心身共に健康的だしね。なにも悪いことはないだろう。

 幸いうちは共働きだし旦那の実家だし、不景気とはいえそれくらいの金銭余裕はあるからな。


「姉ちゃん、サッカー勝負しようぜ」


 順也が泥だらけのサッカーボールを小脇に立ち、わたしへと不敵な顔を向けている。


「いいよ」


 縁側に座っていたわたしは、サンダルを履いて庭に立った。

 すぐさま順也が、わたしへとボールを転がしてきた。

 わたしは止めずに蹴り返した。


 勝負開始だ。

 年齢差も経験差もあることだし、だから本気は出さずに軽く相手をしてやるつもりだ。


 でも、こっちが勝つけどね。

 だって相手はもう五歳、こっちが負けでもした日にはわざとであることくらい見抜いてしまうだろうし、やる気をなくしてしまうだろうから。


 かといって、圧勝ではダメだ。

 勝敗はともかくとして、惜しかったなと期待させる瞬間をたくさん作ってあげることで、子供心を楽しませ、達成感を与え、向上心を感じさせてあげることが重要だ。


 友人のもとこのみがやっている小学生向けのフットサルスクールで、たまに助っ人講師として参加して教えているのだけど、そこで学んだことだ。


 だけど……

 順也がボールへと足を伸ばそうとした瞬間、わたしはすっと出した足先でそのボールを逃がすように横へ蹴り、逆の足でそれを受けていた。


 なおも奪おうとする順也の足からボールを守りつつ、くるり背中でフタをした。


 すっかり手を抜くのを忘れていたことにはっと気づくと、コントロールミスをした振りをして順也にボールを返してやった。


 順也は、これまで感じたことのない圧倒的な力の差に一瞬きょとんとしたようであったが、すぐに気をとりなおし、わたしを抜き去ろうと身体を突っ込ませてきた。

 わたしは、擦れ違いざまにボールを奪い取っていた。


 わたしの手のひらから、額から、どっと汗が吹き出していた。


 やば、

 忘れた……


 わたしは動揺のあまり、頭が半ば真っ白になっていた。

 どう手を抜けばいいのか、分からなくなってしまっていたのだ。


 悪循環。

 手を抜けずに焦って頭が真っ白になればなるほど、反射的に身体が動いて幼児相手にえげつないプレーを見せてしまっていた。

 無理に身体を押さえ込もうとすると、それはそれでただ立ち尽くしてボールを渡してしまうだけで子供とはいえ相手を侮辱するにもほどがあるだろうというプレーになってしまうし。


 子供相手に、どうやってプレーすればいいんだ。

 どうやってバランスよく手を抜いて出来るんだ。

 これまでだって、ここでこの子たちを相手にしたこと何度もあるのに。

 このみのフットサルスクールでも、子供たちに教えているというのに。

 なんで……


 ああ、分かった。

 きっとそうだ。


 代表のことで、まだ悩んでいるからだ。

 それが、知らず知らず自分をおかしくしてしまっていたんだ。


 会社での壁打ちだって、絶不調だったしな。

 って理由が分かったところで、どうすればいいんだ。

 なんかイライラする。このままならない身体というか心というか。だって代表への悩みと小さな子供に教えることと、なんの関係もないだろ。なのに何故、こんなになってしまう?

 だけどこの瞬間においてもっとイライラしているのは、順也の方であった。


「子供相手に本気出すなよバーカ!」

「あいたっ!」


 わたしは悲鳴をあげた。すねを容赦ない力で蹴飛ばさたのだ。

 くそ、ほんと痛い。フットサル選手の生命である足を、なにしやがんだこいつ。


 でも、確かにわたしが悪いよな。

 子供相手に手を抜くどころか百二十パーセントの力で戦ってるんだもの。好きでやってるわけではないとはいえ。


「お、サッカー教えてもらってんのか、よかったな」


 え。

 この声……

 しまった。


 わたしは、ゆっくりと振り向いた。

 振り向くまでもなかったけど、とにかく振り向いた。


 縁側に立っていたのは、わたしのお父さんだった。

 もう縁の下に潜り込もうにも間に合わない。

 どうしよう。


 しかしわたし、なにやってんだろな。

 足音にいち早く気付いて縁の下に隠れたと思ったらお母さんで、子供にサッカー上手に教えられなくてあたふたしてたら本物のお父さんが立ってんだものな。


「たくさん教えてもらうといいぞ、お前の姉ちゃんはな、お前が生まれる前だけど大学のサッカーで優勝したりしてんだぞ。な、梨乃」


 そういうとこの男はまだ四十代のくせにジジくさい笑みをわたしへと向けた。まあ、本当に爺さんだけど、伸介と双葉にとっては。


「あ、そ、そうだね。ま、サッカーじゃなくて、フットサルだけどね」


 わたしは久し振りにお父さんと言葉をかわすことで、すっかりカチコチになっていた。


「最近順也がサッカーボールよく蹴るでしょ。だからなのか、ああやって最近よく梨乃ちゃんのこと凄いって褒めてんのよ。なにかにつけて」


 絹江さんが、こそりと耳打ちしてきた。


「そう、なんだ」

「だからあたし、思い切って話し掛けてみればすっきりするよっていってたんだよ」


 そうなのだ。

 いくらわたしがこの冷戦状態を打破するべく協力を要請しても、話をしてみれば変わるかもよの一点張りでお母さんはろくろくこっちのいうことを聞いてくれなかったのだ。

 それはつまり、そういうことだったんだな。


 しかしお父さんのこの態度、やっぱりこの二ヶ月間のわたしの様子にまったく気付いていなかったようだな。


 でも、このばつの悪さのせいかそんなことあまり気にならなかった。いままでならば、その鈍感さにブチ切れて絹江さんに愚痴の銃弾を乱れ撃ちしていたところだけど。

 なんともいえない気恥ずかしさが、わたしの全身を包んでいた。


「おれもボール蹴りに入れてくれよ。おれだって大学の頃は陸上で、やり投げやってたんだぞ」


 全然、関係ないんですけど。

 とにかくお父さんがそんなわけの分からないことをいいながら、縁側から外へ下りようと一歩踏み出した、その瞬間であった、


 お父さんの身体が左右に揺れたかと思うと、前のめりに倒れそうになった。

 わたしは驚く隙もなく咄嗟に近付いて両手を伸ばし、受け止めていた。


 ずしっ、と重さと勢いに潰されそうになったが、絹江さんも手を差し出してくれ、一緒にお父さんの身体を後ろへ、部屋の側へと倒し、寝かせてあげた。


「ちょっと目眩しちまった」


 そういうと、お父さんは笑った。


「仕事が忙しいんだから、ちょっと暇になったからってボールなんか蹴ろうとしないで、休んでいればいいんだよ。あ、お母さん、濡れタオルかなんか持ってきてもらえる? ああっ、お父さん、立ち上がろうとすんな!」

「大丈夫だって、人を爺みたいにいうなよ」

「実際に立派なおじいちゃんでしょうが」

「お前がそんな年齢で生んだだけだろ」

「あたしが生まれた時のお父さんの年齢もおんなじでしょ。なら四十代でジジイババアになるでしょうが」


 まったく、なにをいってんだか。

 とにかくこうして、二ヶ月間という長きに渡って続いた冷戦状態は、予期もしなかったきっかけ事項が投入されたことによって実にあっけなく終息したのであった。


 和平が訪れたことは歓迎に値するものの、それによって生じた新たな懸念事項もあった。それは、

 早い子作りが血統によるものだとしたら、わたしもひょっとするとあと十数年でおばあちゃんかよ、ということであった。


     6

「はあ、仲がいいねえ」


 お父さんにぴったり寄り添って瓶ビールをジョッキに注いでいるわたしの姿に、おつまみを運んできたきぬさんがあきれたような視線を向けた。


「だって仲いいもんねえ」


 わたしはお父さんに、押し倒しそうなくらいぐいぐいと腰くねらせて擦り寄った。


 特にお父さん子というわけではなかったけど、お母さんがいなかったこともあって幼少時代はべったりだったからな。

 幼少どころか高校生まで、お父さんが嫌がるのも無視して平気でお風呂に入り込んだりしてたしな。

 なにをいいたいのかというと、聞かれるまでもなく仲は良いよということ。


 わたしも少し頂こうと自分のコップに残ったビールを注いでいると、どおんと衝撃を受けてこぼしそうになった。しんすけふたが、おじいちゃーんなどといいながら、わたしの真似をしてお父さんにくっついたのだ。


「こら、いまはじいちゃんはお母さんのものだぞ。去れっ、散れっ」


 我が子を無情にもしっしっと追い払おうとするわたしであったが、しかしこいつら聞く耳持たず、


「おじいちゃあん」


 と、余計激しく抱き着きやがった。


「あたしも、おじいちゃあん、じゃなくてお父ちゃあん」


 負けてなるかと、わたしもよりぴったりくっついた。


「あつくるしいなあ、お前ら三人」


 振りほどこうとする親父であったが、追撃を受けて身動き取れなくなったようである。絹江さんまでが、笑いながらべったりくっついたのだ。


「蒸し殺される! 日本ミツバチとスズメバチの戦いじゃねえぞ」


 お父さんのなんともいえない間抜けな表情に、わたしはなんだかおかしくて吹き出していた。

 なにがおかしいというわけでもないのに、何故だかなかなか笑いが止まらなかった。


 アルコールが回ってきたのかも知れない。

 先日の王子からのメールを気にして、それほどは飲まないようにしていたつもりだったけど。


 いや、そうじゃないな。

 わたしいま、嬉しいんだ。

 こうやって、みんなでくっつき合っているという、どうでもいいことが、なんだか楽しくて、嬉しいんだ。


 わたしって、これまでずっと自分の都合ばかり考えていた。

 だから、子育て感の違いから父親と喧嘩になったりした。

 わたしを見てくれていない、という思い込みから怒りを増長させてていた。

 はる先輩が代表辞退の理由を教えてくれないと腹を立てていた。

 恵んでもらった代表だと腹を立てていた。

 共感してくれないひさに腹を立てていた。


 他人への親切だってそうだ。きっと、本当に相手の身になった親切なんてしたことない。だからこっちの勝手にやった親切に対して、相手から感謝されないともうやってやるもんかと腹が立つ。


 最低だった。でもお父さんと久々に和解(?)して、家族みんなでこうして楽しくいられることの喜びを感じたことで、なんだかこれまで体内にこってり溜まっていたもやもやがどんどん体外へ吹き出して空気の中に溶けていく。

 やっぱり、酔ったかな。

 たかだか家族団らんに、そんな大袈裟なこと考えてしまうなんて。


 心地好い気分ではあるけれど、酔いが暴走してみんなに迷惑かけたくないし、ちょっと二階で休むか。

 あ、そうだ、ならついでにあれを見よう。この前見つけたあれを。


「ちょっとトイレ」


 と、一人抜け出しトイレを済ませると、二階に上がった。


 かび臭い和室に入った。

 昔、お父さんと産みのお母さんとが寝室として使っていた部屋で、現在は半ば物置になっている。


 押し入れのふすまを開けた。

 ここに確か古い古い化石ものの八ミリの映写装置があるはずなのだ。再婚したことで処分したりしていなければ。


「見つけた」


 旅行用バッグをどかした、奥にあった。


 引っ張り出して、ホコリを払った。

 八ミリビデオでなく、フィルムの方だ。って若い人じゃあどっちも分からないかな。


 この家は、何年か前まではアナログ用のブラウン管テレビやVHSのビデオデッキを使っていたし、電話は現在でも黒電話、と、とにかくある機械ある機械おそろしいまでに古くさいのだ。


 まさか八ミリなんぞがあるなどとはわたしも最近まで知らなかったけど、お父さんもすっかり忘れていたようだから仕方がない。


 先日、掃除を手伝っていた時にこの映写装置やフィルムを発見した。いつか暇を見つけて見てみようと思っていたのだけど、それからお父さんと喧嘩になってしまい機会を失ってしまったままだったのだ。


 オープンリールのフィルムには、1996梨乃三歳、1997梨乃四歳、などとマジックで記載がある。


 お父さんの、社会人やり投げ大会とか、お祖父ちゃんの将棋勝負などと記載されているものもあるが、ほとんどがわたしの名前が書いてあるものばかりだ。

 わたしは引っ張り出した機材をセッティングした。


 絶望的な機械オンチのわたしであるが、何故かこのような古い機械とは相性が良く、初めての機械であっても意外に迷わず操作が出来ることが多い。

 だから、先日人生で初めて八ミリフィルム映写機などという機械を見て、今日初めて触るわけだが、特になんということなく操作することが出来た。

 被写体がわたしであることを考えると、ただ記憶にないというだけで、わたしも小さい頃にこれらの装置を見ているということなんだろうけど。


 しかし、1996年って、その時点で既にこんなの化石だろ。よく残ってたな、こんな機械。フィルムも。


 たるまないよう注意しながらがリール部分をがちりがちりとはめ込むと、部屋を暗くして、スイッチを入れた。


 ジーーーーー、という音と、

 カタカタカタカタ、という音が同時に始まり、

 眩しいライトの明かりが、押し入れのふすまを照らした。


 フィルムの傷なのか髪の毛のようなノイズがちらちら見えている、といきなり映像が映し出された。


 小さい女の子が走っている。

 常にスカートからパンツが見えているような、幼い女の子。

 転んでしまった。

 映像がぐらぐらと揺れた。女の子を心配しているのがよく伝わってきた。

 この女の子が、どうやら幼い頃のわたしのようだ。

 おそらく若い頃のお父さんや、死んだお母さんが撮影したものだろう。


 他人からしたら取り立ててなんともない映像がしばらく流れ、そしてテープが終了した。


 次のフィルム。1997梨乃四歳。


 山道を軽快に歩くわたしが映っている。

 ピクニックだろうか。


 また、わたしが転んだ。転ぶシーンばかり撮るよな。

 またカメラがぐらぐら揺れた。撮影するぞという覚悟の足りないカメラマンだ。

 さっとお母さんが飛び出して、泣きじゃくるわたしを慰めている。

 元気になって、また軽快に歩き出すわたし。


 また、転んでしまった。

 なんでそうすぐ転ぶんだよ、お前は。


 いつカメラマン交代したのか、お父さんが飛び出してわたしに近付いて、泣き止まそうと変顔を始めた。

 泣き止まず、お父さんはいつまでも変顔と困った顔を交互に続けている。

 というところで、フィルムが終了した。


「残すほどのものかよ」


 わたしは、鼻の頭を掻きながら、ぼそりと呟いていた。


 ぽと、となにかが膝に落ちた。

 わたしの涙であった。

 知らず知らずのうちに涙が溢れ、こぼれていた。


 こんなに、愛されていたんだ。

 わたし、お父さんお母さんに、こんなに思われていたんだ。

 こんなくだらないフィルムが宝になるくらいに、愛されていたんだ。


 ぼろぼろと、涙をこぼしながら、次のフィルムに交換した。

 涙が、止まらない。

 ぼろぼろと、いつまでも溢れ、こぼれ落ちる。

 でもどうせ誰も見てないんだ。わたしは構わずに、まぶたを拭うことも面倒だとばかりに押入れの白いふすまに投影された八ミリ映像を見続けた。


 両親に愛されている、わたしの姿を見続けた。

 お父さんやお母さんを、心から信頼し愛しているであろう幼いわたしの姿を見続けた。


 人間はいつか死ぬ。

 誰だって、だ。

 死んでしまったら、死なれてしまったら、もう愛することが出来ない。それはそうだ、愛するということは脳の働き、つまりは生命活動なのだから。


 だというのに、いま生きている人をいま必死で愛そうとしていた春江先輩に対して、わたしはなんて態度をとってしまったんだろう。


 わたしには愛せる人がいっぱいいるというのに、どうして気持ちを分かってあげられなかったんだろう。


 脳障害で寝たきりのお母さんを看病し続けるという道を選んだ春江先輩、彼女に対してたっぷりと同情はしたつもりであったが、同情なんか甚だ失礼なことだったのだ。


 春江先輩の選択を尊重して、わたしもわたしで、ただ愛せる人をただ愛せばよかったのだ。


 生きている人だけじゃないぞ。わたしが生きてさえいれば、死んだお母さんのことだって、いつまでも愛し続けることが出来るんだ。


 わたしの身体の中に、なんだか熱いものが込み上げていた。


「納得、出来た」


 と声に出したつもりであったが、嗚咽の声にほとんど消されてしまっていた。

 どうでもいい。どうせこの部屋にいるのは、わたしだけだ。


 代表を受けるにあたって納得を探している、浜虫久樹に先日そのようなメールをしたけど、その納得をわたしはようやく見つけることが出来たのである。


 代表召集の話、受けてみよう。

 そこで思い切り自分をぶつけてみよう。


 どこまでやれるのか分からないけど。

 家族、友達、わたしを思ってくれる人、いっぱいいるんだから、その人たちに応えるために、全力で。


 わたしが愛する人、いっぱいいるんだから、わたしが生きている限り全力で。

 やるぞ!

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