第四章 愛せる者のために、行ってきます!

     1

「おれはなあ、そういう聞かれるまでもないこと聞かれんのが大嫌いなんだよ。分かったか、たかてめえこら。ちょっとそこの手袋を持ってこい」

「え、あれもうゴミですよ」

「いいから!」


 わたしはたけ課長にいわれた通り、部屋隅に置かれたファクス機の上に誰かが投げ捨てたままの(たぶん課長)真っ白な実験用手袋を四枚ほど取って渡した。

 課長は椅子から重そうな身体を立ち上がらせると、


「天井を見上げてろや」


 と、わたしに上を向かせると、おでこの上に手袋を一枚、また一枚と乗せていった。四枚重ねた手袋の上に、課長は自分の左手をそっと乗せると、右腕を高く振り上げ、


「オッケーに……決まってんだろバカ!」


 置いた自分の左手の上に、叩きつけるように右手を思い切り振り下ろした。

 ビシャン、と凄い音が響いた。

 わたしは悲鳴を上げていた。


「いたあああっ!」


 衝撃が皮膚より骨にきたっ!

 なにすんだこいつ! こんな横暴な性格してっから奥さんに逃げられて娘も持ってかれちゃうんだよ、このデブ! 中年メガネデブ! メガネ豚! メガネハゲ!


「コンタクトに変える予定だ、よ!」


 ビシャン!


「うわいってえええっ! なんか目に入ったっ! 指の先かなんか入ったっ!」


 くっそ、いてええ。

 叩かれた痛みだけでも相当なものだというのに、なにに使った手袋なのかなんか皮膚がピリピリしてきたあ。大丈夫なんだろうな、わたし。


 しかしわたし、また頭に浮かんだことつい口に出してしまったようだな。それで毎度こんな目にあっているというのに、ほんとに成長しないな。我ながら嫌んなる。子供に遺伝してなきゃいいけど。


「大袈裟に痛がってんじゃないよお前は。おいえのき、この手袋を化学ゴミで捨てといて。こいつのばっちい菌がべったべたついてるから」


 はあ? わたしを直接殴りたくなくて、なんでもいいから敷いただけかよ。

 まあいいや、もう。


「でもオッケーってことは、行ってきていいんですね…じゃなくてっ、行ってきます! 頑張ってきます!」


 課長の眼鏡の奥がキラリと光ったのを見て、「オッケーってさっきいったろ、二度いわせんな、よ!」などとまたビシャンとやられそうな気がして、わたしは自ら回避行動に出た。

 代表召集を受けるということを、まずは直属の上司である課長に伝えたというだけなのに、このクソオヤジ、難癖つけていちいち殴ってくるんだもんな。


 以前に仕事でなにがあったのか知らないけど、このデブ、実業団選手を毛嫌いしているんだよな。

 わたしはここにフットサル部があるのも知らずに入社した一般社員で、ここに配属されたばかりの頃は課長もまだ普通に接してくれていたのだけど、わたしが特別待遇でフットサル部に入ることになった途端に露骨なまでに邪険に扱うようになったもんな。

 意味もなく殴るし、背中にドロップキックをしてきたこともあったな。確かあの時は、課長が受身に失敗して腕の骨を折ったんだけど。


「あ、高木さん召集受けたんだ」

「頑張ってきてね」


 班のみんなは課長と違って感覚は正常なようで、わたしがフットサル代表召集を受けるということにみんなで拍手をしてくれた。五人きりの小さなチームなので、まばらな拍手であったが。


「我が社の名前を背負って行ってくるんだからな、中途半端なことすんじゃねえぞ!」


 眼鏡デブは新しい手袋を右手にはめると、わたしの背中をバンバンと叩いてきた。もうその手袋で触ってくるネタ、しつこいんですけど。


「分かってますよ。しっかり頑張ってきますよ」

「ついでに協会の人たちに商品を売り込んでこい。エンジェルちゃんラムネとか、うんまいタレとか」

「はあ、機会があれば」

「機会なんかあるわけねえだろバカ!」

「分かってんなら振らないで下さいよ!」


 分析班の人間が、なんでそんな営業をしなきゃならないんだ。社名を背負うだけで充分だろ。


「とかいってお前、勝手に枕営業とかやってくるつもりだろ。趣味で」

「あのー、この班あたしの他にも女子はいるので、そういう話は謹んでもらえます?」


 わたしの性格上、確かに機会さえあれば平気でやってしまいそうな気はするが、いまはフットサル代表ということで心を燃やしているのだ。いちいち下品でつまらないギャグで水を差すの本当にやめて欲しいよな。

 我が社の看板を背負う、ってところだけ受け取っておくことにする。


 別に代表のユニフォームにミタヤ食品の名が刺繍されたりプリントされたりするわけではないが、公式HPの代表候補の一覧表などに所属は出るだろうからな。

 会社名、大学名、FWリーグのクラブ名など。


 我が社は消費者への宣伝活動としてフットサルチームを所有しているわけで、もしもわたしが代表で活躍することがあれば通常の何倍もの恩恵を社は受けることになるのではないだろうか。

 二流三流の食品メーカーが、わたしの活躍によって認知度が上がり、あっという間に一流企業の仲間入りを果たしたりとか。


 もしそうなったとしても、恩に着せるつもりはない。

 自分と、家族、仲間、信頼し応援してくれる人たちのために、わたしはやる気になったのだから。

 それが会社のためにもなり、それにより社内でのわたしの地位や給料が上がるのならばそりゃあ嬉しいけれど、でもそれはついでというものだ。


 とにかく日本の代表としてフットサルを頑張る、ただそれだけだ。

 愛する者ではなく、愛せる者のためにも。


     2

 というわけでそれから数日の後、わたしは東京を発ち新幹線で岡山へと向かうことになったのである。


 これから五日間の合宿だ。


 親友の景子や春奈と久し振りに遊んだし、

 子供たちとも、たっぷりと時間を取って、戦隊ショーなんかにも連れて行ってやったし、

 前々から行ってみたかったレストランにも行ったし、

 お互い欲求がたまらぬよう旦那とラブホで思う存分セックスもしたし、

 春江先輩には改めて謝って、頑張ってくることを報告したし、

 心残りなく合宿へ出発出来る。


 さあ、行くぞ岡山へ!

 自分がどこまで通用するか、チャレンジするぞ。


     3

「ひょっとしてこれドッキリ?」


 確かに合宿に指定されている会場である岡山県岡山市の運動施設へ訪れたはずなのに、そこは完全に封鎖されており、周囲にも往来する人の気配などほとんどないという状況であった。わずかに、ここの従業員と思われる人が通る程度だ。


 在来線遅延のため予定の新幹線に間に合わず後発列車の自由席で来たので、思い切り遅刻してしまったかと思ったのに。初日からたるんでる、と怒鳴られることを覚悟していたというのに。

 もしかして、場所を間違ったとか……

 どうしよう。


 ちょっと受付の人に会場の利用状況について確認してこようかな。今日はどこにも貸す予定はないですよ、などといわれた日にゃあシャレにならんし。


 と、座っていたフェンスから立ち上がったその時である。

 一台の中型バスが大通りから折れて、この敷地内へと入ってきた。

 ゆっくりと、わたしの前を通り過ぎた。

 バスの中に、ジャージ姿の女性たちが乗っているのが見えた。

 もしかしたら、これが……


 バスが停まり扉が開くと、中からぞろぞろと降りてきた。紺色のジャージを着た、いかにもアスリートといった雰囲気の女性たちが。

 どういうこと?


先輩!」


 聞き覚えのある声。

 バスから降りた女性たちの中に、見間違えるはずもないゆうの姿があった。


 女子フットサルリーグの数少ないプロ契約選手の一人であり、現役日本代表。高校時代の、わたしの後輩だ。


「どうしてここに」


 佐治ケ江は、不思議そうな表情を浮かべながら近寄ってきた。

 別に不思議がることないのに。どうしてもなにも、わたしだって呼ばれたんだから当然だろ。


「あ、そっか、召集を承諾したのが期限ギリギリだったからな」

「召集って……選ばれたんですか?」

「選ばれたら、おかしい?」


 わたしは、からかうような笑みを見せた。


「いえ、そんなことないです。とっても心強いです」

「こっちも、知った顔がいて助かった。これから、よろしく」


 わたしは手を差し出した。

 佐治ケ江優も手を伸ばし、わたしたちはがっちりと握手をかわした。


「誰、ゆうさんの知り合い?」


 と、もう一人わたしの知った顔があらわれた。

 十年近くに一回対戦しただけだから、あちらは覚えていないだろうけど。と思ったら、


「あーーーっ! わらみなみのっ!」


 ともえかずは、わたしを指差し裏返って素っ頓狂な声を上げた。


「覚えてた?」

「忘れるわけないですよ。関サルではなに一つまともにプレーさせてもらえなくて、帰りのバスでずっと嗚咽してましたもの」


 関サルとは、関東高校生フットサル大会の略。

 わたしが率いていた佐原南高校と、彼女のいるばらふじ高校は、その関サルの地区予選で戦ったことがあるのだ。


 情報通のはる先輩から、「秘密兵器の転校生」と実に高い評価を受けている巴和希という一年生がいることは知っていた。

 当たってみて、確かに技術も判断力も高一とは思えない、まさにセンスの塊のような凄い選手であったが、でも佐治ケ江の前には完全に子供扱いだった。

 それですっかり動揺していたせいかも知れないけど、わたしも巴和希の個人技をしっかり受け止めてなに一つ好きにさせなかった。だから佐治ケ江の次に嫌な選手ということで、わたしのことも彼女の記憶に鮮明に残っていたのかも知れない。


「おい、優! 和希! 油売ってんなよバカ!」


 監督と思われる、最後にバスを降りた中年男性が、二人を一喝した。

 さらに、誰と話してんだコノヤロウと遠目からわたしのことをじろりと睨み付ける。


「……お前、たかか?」


 監督の問いに、わたしは頷いた。

 事前に写真を送付しているから、それで分かったのだろう。


「はい、高木梨乃です。初めてで勝手も分かりませんが、よろしくお願いします!」


 頭を下げた。


「んなことより、なに直接来とんのお前? メール送っても返事ないし、会社に連絡しても出社してきてないから出掛けたんじゃないですかあとか冷たくあしらわれるし」

「え、メール?」


 わたしはがさごそとバッグから携帯を取り出して、画面を表示させた。


「うお、三十四件も入ってる。……でも案内には二時からここで開始するとしか書かれてなかったし」

「初日から大ボケかましやがるな、お前は。よく間抜けっていわれるだろ、このブス」

「えー、どういうこと?」

「あのですね」


 と、巴和希が教えてくれた。

 なんでもこの合宿の集合場所は岡山駅の新幹線の改札を出たところ。そこからバスで宿舎に向かって荷物整理して昼食を食べてからここへ来る予定で、道路が混んでいて少し到着が遅れたということらしい。

 それでわたし一人だけここへ早く来てしまっていたのだ。


 新幹線の運賃も強化費用から出るそうな。

 宿泊費くらいしか出ないと思ってたから、あとで会社に請求するつもりで自腹切って来ちゃったよ。参ったなもう。


「仕方ねえなあ、中に入ったらすぐ練習初めっから、着替えろ。そこで」

「ここでですか?」

「冗談だ」


 セクハラオヤジギャグかよ。

 まあ別にここで全裸になって着替えたって構わないけどね。困るのは命令した監督の方だし。


 と、突然ドンと背中を叩かれた。


「初っ端から、お前迷惑かけ過ぎだろ」


 振り向くと、がっちり体型の三十台とおぼしき女性。わたしの肩に手をおくと、ぎゅーっと爪が食い込みそうなくらいに力を入れてきた。


「初めてだから分かりませんなんて理由にならないんだよ。初めてだから、普通ちゃんとすんじゃないの? ひょっとしてえ、初選出で調子に乗ってる? 夢見ちゃってなあい?」

「あいたっ! ……でも、ちょっと気持ちいいかもお。ついでに左も。って、すみません! いまの忘れて下さい! 仕事でとにかく肩が凝ってるのでつい。決して舐めたりなんてしてません!」

「はあ、舐めてるってことね」


 マッチョ女は、にっと笑みを浮かべた。

 やばいな、新人いじめの対象に自ら立候補してしまった。


 でもこんな三十を幾つも過ぎた、社会人経験も豊富そうで、優しそうで、温厚そうで、立派そうな、きらきらオーラが眩しすぎるまさに聖人君子のような大人が、まさかそんなことするはずもないよね。

 というような期待を上目遣いの眼差しに込めて、


「……いじめませんよね」


 わたしはおずおずと尋ねた。


「いじめるよ、新人はたっぷりといじめるよ。いじめていじめていじめていじめて、ボロ雑巾になるまでいじめ抜くよ」


 これが日本女子代表の主将、はたなかこうである。

 わたしは、早速にして先輩方に目をつけられてしまったのであった。


     4

「バカこの、たか! 高木歯科! タカ! そこで簡単に抜かれちゃ、全体が押し上げられないだろ! ブス! 何度いわせんだ、頭が空っぽかお前は! お湯を張って人形で風呂遊びが出来るくらい頭が空っぽか、バカたれ! ブス!」


 またまた監督の怒声が響いた。

 わたしは避雷針か。というくらい、先ほどから一人で監督の雷を受けまくっている。

 新人だからでも、期待の裏返しでもないだろう。単に一番下手だからだ。


 練習が始まって、すぐに分かった。

 ここは、ゆうのような者ですら完全な主力となることの難しい、いわば天才的な能力を持った者が集まっているのだ。


 でもそれは当然だよな。

 日本代表だぞ。

 この国で一番凄いんだぞ。


 本格的にフットサルを始めたのが高校からなどという、わたしのような者はおそらく一人もいないのだろう。


 やはりわたしは、選手の辞退により繰り上げ召集されただけの一般人に過ぎなかったのだ。きっと他にも色々な者に声をかけていたものの折りが合わず、消去法でわたしが呼ばれたということだろう。


 しかし、本当にみんなさすがだ。

 身体ごつくてパッと見デブのはたなかこう主将だって、動けば実に俊敏だものな。動かなければ動かないで単なる邪魔な肉の壁でしかなく、この小一時間ほどの間に練習と関係のないところで何度通せん坊で嫌がらせをされたことか。くそデブめ。

 でも技術もパワーも判断力もあって、さすが主将に選ばれただけあるな。


 主将だけじゃない。みんな、本当に凄い。そりゃあ代表なのだから凄かろうとは思っていたけど、現実は想像を遥かに超えていた。


「ボーッとしてんじゃねえぞタカ! このブス!」


 また雷が落ちた。

 突破をはかろうとする相手を、なにもせず見送ってしまったわたしが悪いので仕方ないことだが。


「はい、すみません!」

「すみませんじゃすまねえから、こうしていってんだよ! ブス! だから頭が空っぽかってんだよ、ブス!」

「気を付けます!」


 プレー続行。

 もう集中を切らさないぞ。

 と思っていたら、不意に肩を叩かれた。


「気にしなくていいよ、初めてで勝手分からないし雰囲気には飲まれるだろうし、緊張して当然。あたしも初めての時は散々怒鳴られたよ」


 確か、のうまいという子だ。


「口癖でやたらブスブスいってくるけど、あれは女の子としてはちょっとへこむけどね」


 加納舞はそういうと、顔をくしゃっとさせて笑った。こんな可愛い顔の子にも、ブスブスいってたのか、あの監督。


「ありがとう。そういってもらえて、救われたよ」


 でもただ怒られてばかりで終ったとあっては、わたし自身に不満が残る。なにか一つくらい、いいところを見せないと。


 おかみずいねからのパスを受けたところへ、わたしは弧を描いてパスコースを消しつつ突っ込んで行った。


 ここをなんとしても奪い取って、怒鳴られたことのせめて一つくらいは帳消しにしてやる。


 と意気込むわたしと、澄ました顔の茂岡真理花、二人はボールを挟んで向き合った。


 茂岡は足の裏でボールをぐりぐり撫で転がしながら様子をうかがっていたが、わたしに動く気配がないのを見て取ると、ふっと右へ、わたしにとって左へと動き、抜きに出た。


 わたしも進路を塞ぐように左へ重心を寄せたが、次の瞬間、わたしは反対の右へと半歩動いてさらに足を横へ突き出していた。

 読みが当たった。茂岡はフェイントでわたしを騙したつもりだったのだろうが、残念でした。茂岡が楽々ボールを通そうとしたその空間には、既にわたしの足があった。

 奪い取ったぞ!

 と思ったのは、つかの間にも満たないほんの一瞬でしかなかった。


 ボールがまるで意思を持っているかのように、わたしの足の甲を這うように転がって反対側へと落ちていた。


 え? と思った時には既にわたしの足先にボールはなく、振り返ればドリブルする茂岡の背中が遠くに見えるばかりだった。


 完全に、やられた。

 わたしは心の中で舌打ちしていた。


 常識的に考えて、実戦の中であんな人を舐めたようなプレーは出来ないし、しようと思うはずもない。

 それだけ実力の差があるから出来ることなのだ。


 認めるしかなかった。

 茂岡真理花だけでなく、ここに集まっている者たちの能力を。

 そして、監督の罵詈雑言を。


「高木! タカ! バカ! タカバカ! 色気出して余計なことしようとしねえで、単に遅らせりゃよかったんだよ! 実力ねえんだったら、ないなりに考えろ! このブス! ほんといい加減にしろよ、ブス! ドブス! A級ブス!」


 ちょっと腹立つけどね。

 つうかさ、ドブスなんて言葉を聞いたの小学生の時以来だよ。


 まあ、わたしに実力が足らないのがすべての原因だ。新人でもあることだし、潔くすべてを受け入れるしかないか。

 でもわたしにだってきっと優れたところはあるはずだ。どうせなら代表に残り続けたいし、夜にでも自分のアピールポイントを改めて考えてみよう。佐治ケ江にでも相談してみようかな。


「ブス!」


 え?

 ちょっと……なんだよあの時間差でのブスは。

 がーっとまくし立てている流れでの連呼は分かるけど、最後の、あれいう必要ある? 十秒くらい間隔空けてからいったぞ。


 あったまくんな、もう!

 決めた。夜に全裸で誘惑に行ってやるからな。それでもそういえるのなら、いってみろ。


     5

 十分間の休憩というか監督のお小言時間を挟んで、これから練習試合の第二セット目に入る。


 ピッチ上には、すでに選手たちが散らばっている。

 ともえかず曰く、第一セットは主力組と非主力組とをシャッフルしたいわば実力差のあまりないチーム同士で行われたものであったが、この第二セットのチーム分けは完全なる主力組と非主力組ということらしい。


 自分も当事者のくせになどと他人事だけど、選手の誰が誰なのかわたしにはまだよく分からないのだ。

 何度も召集されている者や、FWリーグに所属している者同士ならば、顔も名前も特徴も立場も分かっていて当然なんだろうけど。


 さて唐突ですがクイズです、わたしはどちらのチームに入ったでしょうか?

 答えは非主力組。まあ当たり前か。


 スタメンということで、わたしはいまピッチに立っている。

 わたしの他には、

 づくえわか

 ともえかず

 のうまい

 ゴレイロのやなぎ


 そして憧れの主力組は、

 主将のはたなかこう

 おか

 じまうめ

 ゆう

 ゴレイロのむろてる


 この十人が、第二セットのスターティングメンバーだ。

 わたしがスタメンなのは合宿参加選手の中で十本の指に入る実力ということではなく、ただ単に新参者のプレーをしっかり目に入れておきたいという監督の判断だろう。

 第一セットは、最後の数分しか出られなかったからな。だというのにその数分で、他の人の三十倍は監督からの雷を浴びまくったけど。


 あとちょっとで試合開始。

 現在、監督が主力組へと第二セットのテーマについて説明しているところだ。

 時折わたしたち非主力組へ「…ということをさせないようにするんだぞ、お前らは」などといってくるのであるが、正直わたしにはよく分からなかった。監督の話自体が、基本戦術をすでに理解していることを前提としているからである。

 だからあまり話を聞いていなかった。


 もしもそこを文句いうんなら、じゃあ事前に資料をくれよって話だからね。代表試合のDVDとかさ。サッカー男子と違ってテレビ放送なんかないから、こっちは代表がどんなフットサルしてるのかなんて分からないんだよ。


「じゃ、行くぞ、開始! ピーッ!」


 監督は笛を首から下げているくせに面倒なのか声で合図、唐突に第二セットが始まった。


 わたしの味方チームのピヴォ小机若菜が、ちょこんと前へボールを蹴った。フットサルのキックオフは、まずは必ず前へ蹴らなければならないのだ。


 右アラであるわたしは、開始の合図とほとんど同時にサイドへと流れて、ライン際を駆け上がった。


 小机若菜へと、主力組の佐治ケ江優がすっと寄る。小机は冷静に引き付けてからパスを出した。


 サイドを駆けるわたしにではなく反対側、左アラの巴和希へと。

 わたしを囮に使おうと思ったのか、まだわたしとの連係が築けていないからかなのかは分からない。きっと前者、と都合よく解釈し、わたしは斜めからゴール前へ切り込んだ。


 主力組、主将の畑中香子がわたしの走路を塞ぎ、肩をぶつけてきた。

 熊の体当たりにつんのめったわたしは、転び転がった。


 これはファールだろう。わたしがボールを持っていたとしてもそうであろうし、ましてやボールとまったく関係ないところなのだから悪質この上ないタックルだ。

 でも誰もなにも見ていないかのごとく試合は続行。


 わたしもセルフジャッジなどするつもりはなく、倒れた瞬間に手をついて起き上がっていた。フットサルはプレーヤー人数が少ない競技であり一人の存在の重要性が高い。いつまでも床に寝転がっていて失点でもした日には、味方に申し訳ないというものだ。


 わたしの反対サイドでは、パスを受けた巴和希がドリブルで上がろうとしていたが、佐治ケ江優のプレッシャーによって狭い方へと追い込まれていた。


 主力組フィクソの能島梅子が、相手ピヴォ小机若菜の位置を意識しながらも、佐治ケ江と共に巴和希を挟撃すべく上がって来た。


 その足音を聞いて、ちらりと一瞬だけ後方へ視線をやって状況確認する巴。彼女の決断は早かった。挟まれる前に、強引に佐治ケ江を抜きにかかったのである。フェイントもなにもなく、ただ力任せに。


 まだ佐治ケ江は無理せず様子見という考えなのか、それとも巴和希も高校時代から相当に実力を上げているということなのか分からないが、とにかく勝負は一瞬、巴がボールを失うことなく佐治ケ江を突破したのである。


 そして巴はその瞬間に、靴の外側を使って斜め前方へとパスを出していた。佐治ケ江との勝負に集中するあまり周囲が見えておらず、抜いた瞬間に少しだけ余裕が出来て、ゴール前へと走るわたしの姿が目に入り、咄嗟にパスを選択したのだろう。


 わたしはボールの軌道上に駆け込みながら、シュートモーションに入った。


 ゴール前で、ゴレイロの小室照江が重心を落とした。


 わたしは、打たなかった。

 スルーを選択した。


 遅れて駆け上がってきた小机若菜がわたしを追い抜き、するする転がるボールへと飛び込んで思い切り右足を振り抜いた。

 わたしのスルーによって、ゴレイロは完全にタイミングをずらされていた。

 だが、小机のシュートは惜しくも決まらなかった。

 ポスト直撃だ。


 でもまだボールは死んでいない。

 跳ね返ったボールに、今度はわたしが反応し、右足を叩き付けた。


 今度こそボールはゴールネットに突き刺さった。

 と思ったのは、わたしの錯覚だった。蹴った瞬間に良い音、良い感触があって、そう思い込んでしまったのだ。

 ゴレイロの小室照江にキャッチされていた。それが現実であった。

 しかも、片手で。


 至近距離からのシュートをあえて片手でキャッチしようとするバカはいない。だから決して、わたしのことをからかっているわけではないのだろう。

 危ないところ咄嗟に手が出た、というただそれだけのことだろう。

 でも、わたしが絶対的な自信を持って蹴ったシュートがあっさりと片手で止められてしまった、これも間違いのない事実だった。

 これが、日本代表なんだ。


 わたしの額から、どっと汗が吹き出していた。

 高校時代にはたけあきら、大学時代にはみき、というわたしが日本代表クラスの実力を信じて疑わなかった凄いゴレイロがいた。

 二人とも現在は会社の部活で続けているだけだからスカウトの目にとまるはずもなく、呼ばれなくて当然かも知れないけど、でも仮にスカウトの目にとまったとしても呼ばれるかどうかは厳しいところだろう。こんな優れた実力を持ったゴレイロがいるのだから。


 でも、こんな凄い日本代表の主力を相手に、わたしたちはあとほんの少しの運があれば得点というところまで迫ったのだ。

 あとほんの少しで、わたしのシュートが決まるところだったのだ。

 自信を持て、自信を。


「惜しかった惜しかった。この調子でどんどん行こう!」


 わたしは意識をコントロールすべく、新参者の分際でまるでキャプテンのように手をパンパン叩きながら大声で仲間を鼓舞していた。


「ちょっと、あんまり目立っちゃダメだって! お局ファイブに目をつけられちゃうからっ」


 先ほどわたしのシュートを止めた主力組ゴレイロの小室照江が、慌てたように小声で耳打ちしてきた。


 現在チーム分けされて敵同士であるわたしと小室であるが、その件に関しては敵も味方もないようである。当たり前か。


 後から分かったことだけど、お局ファイブというのはじまうめ桐生きりゆうたまみずいねばり、それと主将であるはたなかこうの五人をさす。

 みな三十歳を少し過ぎた、名前が昭和チックな、代表経験豊富な選手たちだ。


 昔の体育会系気質なところがあって、決して悪人ではないものの、新人はとにかくしごくべしという考えらしい。

 先ほどの初対面時、主将に正面堂々といじめるよ宣言をされているので、それはよく分かっている。


 でも例えなにがあろうとも、わたしの大学時代ほど無茶苦茶な目にあうこともないだろう。あれはほんと理不尽きわまりなかったからな。


 さて、ゴレイロの小室照江は心優しくそんなアドバイスをわたしに与えると、なんにも話なんかしてませーんとばかりに敵であるわたしを睨み付けながら助走しボールを投げた。


 華奢そうな見た目から考えられないくらいの、強い肩だ。一気に最前線で待っているピヴォのおかへとボールが渡ってしまった。


 茂岡、第一セットでわたしをおちょくるかのような凄い技術を見せた選手だ。儲かりまっかみたいな名前の響きのくせに、クールでかっこよく実力がある。


 わたしが酷かったからというだけでなく、彼女もまた凄かったのだということを、この直後のプレーで知ることになった。


 フィクソである加納舞を背負った茂岡は、ボールを跳ね上げながら反転した。しかも背後にいる相手の位置を予測して、フェイントをかけながら。

 つまり加納舞は、茂岡の動きに騙されて自ら大きくシュートコースを空けてしまったのだ。

 落下するボールに合わせて茂岡が右足を振った。


 ゴレイロの柳田志穂は、至近距離からのシュートになんとか反応し、咄嗟に左腕で弾いた。それが精一杯だった。

 落ちてころり転がるボールに佐治ケ江優が詰めており、押し込んだ。

 ネットが揺れた。


 こうしてわたしたちは、序盤早々に失点した。

 いけるかも知れない、そんな自信が生じかけた瞬間に、その直後のゴレイロの遠投からそのまま失点、先制を許してしまった。


 やはり、次元が違うということなのだろうか。

 主力組と、わたしたちは。


 たち、ではなく、わたしだけが悪いのかも知れないな。

 フットサルはプレーヤー人数が少ないので、一人ダメなのがいると戦力に大きく響く。


 押されている側というのは、選手個々の技術すらも悪く見えてしまうものだからな。わたしが原因でチームが悪く見え、チームが悪いから個々も悪く見えてしまう。加納舞も小机若菜も柳田志穂も巴和希も、主力組と遜色ないくらいの素晴らしい選手なのかも知れないのに。


 失点によって崩れたところを畳み込まれ、わたしたちは追加点を奪われ、さらに失点を重ねていった。

 茂岡、佐治ケ江、茂岡、茂岡、主力チームのシュートが面白いようにネットに突き刺さる。まだ、開始してほんの数分だというのに。


 開始から五分が経過したところで、主力組に選手交代。

 主将の畑中香子に代わって、はやしばらかなえが出て来た。

 非常に小柄な、すばしっこそうな選手だ。


 その能力、果たして見た目の想像通りであった。

 実に俊敏で、そして一瞬一瞬の判断も早い。ボールキープも巧みで、かと思えばダイレクトパスでチャンスを演出。


 左アラに入ったため、必然的にわたしとぶつかることが多くなり、わたしはひたすら翻弄され続けていた。

 それでもなんとか必死に食らいついて、ボールを戻させたりと攻撃を遅らせていたわたしであったが、


「師匠!」


 林原かなえはわたしをするりかわしながら叫び、前線へと大きく送った。

 ついに、決定的なパスを通されてしまった。


 巴和希のマークをふらりかい潜った佐治ケ江が、いつの間にやらゴール前へと上がっており、ボールを待ち受けボレーシュート。

 ゴールネットが揺れた。


「つまんない」


 わたしのそばで、林原かなえが両手を頭の後ろで組みながら、本当になんともつまらなそうな顔をしていた。


ゆう師匠の憧れの先輩だって聞いていたのにい」


 優、師匠? わたしが佐治ケ江の、憧れ?

 なにそれ?


「かなえ! すみません梨乃先輩、こがいな態度は失礼じゃって何度もいうとるのですが」


 佐治ケ江が、わたしとかなえとの間に入り込むと、わたしへ向かって大きく頭を下げた。


「いいよ、本当のことだから」


 見返してやろう、そう思えればよかったのかも知れないけど。


 合宿初日にして、もうわたしの自信はぐらつきかけていた。

 そもそも自信なんてあったの? というくらいに。


     6

 初日の練習をすべて終えたわたしたちは、宿舎に戻ってきた。

 まあ、わたしだけは思い違いで直接練習場へ行ってしまったため、戻ってきたのではなく初めてここへ来たわけであるが。


 一日目から、かなりハードだった。


 練習メニュー自体は、わたしにとって実に新鮮であり、内容も密度もかなり充実した一日だった。

 だけど、練習試合で主力組に対してなんの意地すら見せられなかったという悔しさがなによりも上回ってしまって、現在あまり楽しい気分ではなかった。

 出発前にはあんなにワクワク感があったというのに、現在は皆無といってよかった。


 ここは宿舎の食堂だ。

 とりあえず落ち込むだけ落ち込もうと、わたしはバイキング形式で適当に盛った皿を前に一人寂しく黙々と食べていた。


 新顔だからこそ、自ら周囲に溶け込む努力をするべきであり、わたしの性格からして本来ならそうしているところなのだけど、でもいまはそんな気力がこれっぽっちもわいてこなかった。


 やっぱりわたしは恵んで貰った代表なのか。

 もしもはる先輩の件がなく呼ばれていたらそんな迷いはなかったわけだけど、でもそもそも呼ばれていたかどうか。


 って、バカかわたしは!

 王子よりバカか。いないぞ普通、そこまでのバカは。王子を上回るバカなんか。

 自分のため、信頼してくれる人のため、精一杯ぶつかってやると自分自身に誓ったじゃないか。

 それなのにたったの一日でもう挫折か?

 根性見せろ根性。


 ……でもなあ。

 実力がなあ。


 ふーっ、とため息なんかついてしまう。


「あの、ここ、いいですか?」


 ともえかずだ。トレイを持って、わたしのすぐ横に立っていた。


 わたしはなんだか少し恥ずかしい気持ちになっていた。こうして声を掛けてもらって、本来ならわたしの方から飛び込まないといけないことなのに。


「ああ、どうぞどうぞ、別にここ誰もいないから。……どうも、ありがとうね」

「え、なにがですか?」


 巴和希は、わたしの隣の椅子に腰を下ろしながら不思議そうな顔で尋ねた。


「わたしが初召集なもんだから、仲間外れにならないように声を掛けてくれたんでしょ。ほんとはわたしから愛想振り撒くつもりでいたんだけど、なんか今日は落ち込んじゃって」

「気持ちは分かります。初めてで勝手分からぬだけでなく、練習試合もわたしたちのチームは散々な結果でしたからね。でもあれは、チームの問題ですから。その後の個人練習では、全然問題なかったじゃないですか」


 巴はなんだかペラペラと早口で、わたしを励まし慰めようとした。


「そうかな? 自分じゃよく分からないや。それよりさ、練習試合っていつもああなの? いつもあんな大差で終わるの?」

「あたしもそう何回も呼ばれたわけじゃないですけど、前の時は、何回かやって確か主力組の方が負けが多かったような」


 じゃあやっぱり、わたしが入ったからあんな結果になったってことかよ。

 落ち込むなあ。

 ずどーんと。


「あ、あ、そういうことじゃなくてっ、その、ええと……すみません、っとうわああああ!」


 わたしの顔色の変化を察した巴が、あたふたしながら立ち上がろうとしたところ、うっかりお茶をこぼしてテーブルや自らの足にかけてしまったのだ。

 わたしはさっと布巾を取って、テーブルを拭いてやった。


「あ、すみません、どうもありがとうございます。床は自分で拭きます。ありがとうございます」


 巴は、またぺこぺこと頭を下げた。


 なんか、凄くいい子だな。

 もう十年も前の大会だけど佐治ケ江とわたしと二人でボコボコにしてしまって、いまさらながら罪悪感に襲われるなあ。


 などと上から目線で語るのはおこがましいな。彼女の方がわたしなんかより何十倍も凄いんだから。日本の女子トップリーグであるFWリーグで活躍しているし、代表にだって何度も呼ばれているのだから。


 だというのにこの謙虚な態度、ほんと好感が持てる。見習わないといけないな。

 といっても、わたしも基本は謙虚だけどね。ただ好戦的なだけで。


 ああ、そうなんだよな。

 そこなんだよな、そこ。

 自分のことながら分かってはいるんだよ。

 短気なところ、すぐに火がついていらぬ戦いを挑んでしまうのが欠点だって。


 この合宿、あと四日間もあるけど、上手に乗り切れるだろうか。

 不安になってきたな。

 追加召集されたが故の自信のなさと、この好戦的な性格、せめてどちらかだけでもなんとかなればいいのに。


「梨乃先輩、探しました。ああ、和希もおったんだ」


 佐治ケ江優の声だ。

 向かい側から、トレイを持ってこのテーブルへと近寄ってきた。


 その後ろには、先ほど佐治ケ江を「師匠」と呼んでいたはやしばらかなえがぴたりくっついている。その呼び方の通り、本当に慕っている様子がうかがえる。


「そりゃ見つけようと思えば、くまなく探すことになるだろうなあ。もう自分の不甲斐なさに落ち込みまくって、植木で目立たないとこで一人隠れるようにしてたからね。でもね、そうしてたら巴さんが声を掛けてくれてさ、一緒に食べてたんだ」

「和希でいいですよ」


 巴和希は、はにかんだような顔でいった。


「じゃ……和希。やっぱり恥ずかしいな、初めて人を下の名前で呼ぶ時ってさ。ああ、そうだそうだ、ついでというかこれをきっかけに名前の呼び方とか話し方とか、そういうことでちょっと聞きたいんだけど、あたしはさあ、先輩後輩関係なく年齢でタメ口か否か判断しちゃうんだけど、これ問題ない? ここでのルールに合わせるつもりではいるけれど」


 と、三人の顔を見た。

 答えたのは佐治ケ江だ。


「ルールとか、そんなのは特にないですし、あんまり気にしたことはないですけど、でも他のみんなもそんな感じのようですから、じゃけえそれでええんじゃないですか」


 そういいながら佐治ケ江はテーブルにトレイを置き、わたしの正面に座った。

 わたしの隣の巴、ではなく和希の正面には林原かなえが座った。


「お局たち同士は、みんなタメ口だけどねー」


 かなえは腰を下ろすなりフォークを手に取って、サラダの中に混じっている細かく刻まれたトマトを、佐治ケ江の空皿へとせっせと移し始めた。


「そうなんだ。じゃあ、あたしのいつもの感覚通りでいいんだ。ああ、でも反対に、あたしのことは別にどんな態度で接しても話してもいいからね。なんといっても一番の新参なんだし、小中学生にテメエコラアとかいわれても文句いえない身分なんだから」

「あたしは梨乃さんには敬語で、かな。だって優ちゃんがそうしているのに、あたし一人乱暴な口きけないし。年下だし」


 と和希がなんだかコーヒーカップをくるくる回していると、


「というか和希ちゃん、誰にでも敬語じゃんかあ」


 林原かなえが、相変わらずせっせとトマトを佐治ケ江の皿に運びながら、突っ込みを入れた。


「だってさあ、誰が何歳でとか考えるのも面倒じゃない? とりあえずって敬語使っちゃってると、いまさら態度を変えられなくなっちゃうんだよね」


 うん分かる分かる、と和希の心理に納得しかけたわたしであったが、やっぱり分からん。もしも相手が年下なのが分かったってんなら、タメ口に切り替えりゃいいじゃん。

 まあ人は人だ。


「ねえ師匠お、この人って師匠の高校の時の先輩って本当?」


 林原かなえがサラダをほじくる手を休めて、佐治ケ江の顔を見ながらフォークの先でわたしを差した。


「本当。あと、フォークで人を差さない」


 佐治ケ江にマナーを注意されて、かなえはささっと、でもちょっと渋々とした表情で手にしたフォークを引っ込めた。


「じゃあ、尊敬してるってのもお?」


 なおも質問を続ける。


「本当」

「ふうううん」


 林原かなえはなんだかつまらなさそうにそういうと、またフォークで自分のサラダのトマトを佐治ケ江の皿へとせっせっと運び始めた。


 ちらり、と、かなえは一瞬わたしの顔へと視線を向けたが、わたしと目が合った瞬間に、ぷいと横へ視線を逸らした。

 なんなんだ、この子。

 なんなんだ、この子と佐治ケ江の関係って。


 などと思っていたら、かなえが急に立ち上がって、


「あああああああっ!」


 ガラス窓がすべて粉々に砕けるんじゃないかというような、殺人音波を口から発した。


 佐治ケ江が自分の皿に積もり積もったサラダのトマトを、かなえの皿に全部突っ返したのだ。そしてそれを見たかなえが、立ち上がり子供のような甲高い声で絶叫したのである。


「うるせえんだよ! バーカ! チビ!」


 どこからか、はたなかこう主将の怒鳴り声が飛んできた。

 林原かなえは、むすーっとした顔のまま、小さく縮こまってしまった。


「嫌いなものを他人に押し付けようとしてるからだよ」


 わたしはぼそり呟いた。


「あたしは嫌いなものを無理に好きになろうとはしない性格なの」


 かなえは、ちらりと一瞬、睨むような視線をわたしに向けた。

 なるほど、わたしのことを嫌いといっているわけか。


 でも別に嫌われるようなこと、なにもした覚えないのにな。きっと、佐治ケ江から尊敬する先輩だなんだと聞いていて、会う前から嫌っていたということだろうな。


 どんな奴かと思っていざ会ってみたらフットサルがそんなに上手じゃなくて、じゃあなんでこんなのにゆう師匠が、と余計に腹が立ったということだろう。

 ほんと、子供みたいな性格だな。


 参ったなあ……

 わたしのお茶目な悪戯心に、火が着いちゃうじゃないかよ。


「それじゃあさあ、その大っ嫌いなトマト、あたしが食べてあげるよ。佐治ケ江師匠のお皿に乗っけてあったんならきっと美味しくなってるだろうからさあ、オーラだかなんだかたっぷり浴びて」


 そんな意味不明なことをいいながら、わたしは腰を半分浮かせて腕を伸ばし、かなえの持っているサラダの皿を取ろうとする。


「やあだ!」


 と、かなえが首を振った。


「だって、捨てちゃあ勿体ない。食べてあげるから。佐治ケ江サラダを」

「やあだ! だったらあたしが食べるっ!」


 かなえは、身を被うようにして皿をわたしの手から守ると、フォークを手に取りバクバクと食べ始めた。


 作戦成功。

 でも、そんなにわたしが佐治ケ江と繋がるのが嫌か?

 佐治ケ江の後光にちょこっと触れたサラダを、わたしに食べられるのがそんなに嫌か?


「うそお、かなえちゃんがトマト食べてるう!」


 カチャン、と巴和希のフォークがテーブルに落ちて跳ねた。

 佐治ケ江もやはり、少し驚いたような表情になっていた。弟子の教育だかなんだか知らないが自分で皿を傾けて中身を全部突っ返したくせに、まさかそれをかなえが食べるなどとは思ってもいなかったようだ。

 なんなんだよ、そこまでのトマト嫌いって。


「まあ思ったより、不味くはないかも」


 かなえは、ペーパータオルで口を拭いた。

 その言葉に、今度はわたしがびっくりする番だった。


「ひょっとして、トマト食べたの生まれて初めて?」


 わたしの問いに、かなえは小さく頷いた。


「だって、血の色してるじゃない」

「はあ? それだけの理由で、一回もトマト食べたことなかったのかよ。の割には下らない作戦にまんまと引っかかって食べたな」

「ああーっ!」


 かなえは、はっと目を見開くと、ぷるぷると全身を震わせ、わたしの顔をきっと睨みつけた。


「……してやられた」


 嫌なものを食べさせられたことよりも、わたしに騙されたことがとにかく腹立たしいようであった。


「こういうところの食事はバランスを考えて作ってくれているんだからなんでも食べるようにしないと、っていつもいっているんじゃけど、いうこと全然聞いてくれなくて困ってました。……さすがは、梨乃先輩です」


 佐治ケ江がわたしに感服の意を表した。わたし別に、ちょっとした悪戯をしただけなんだけど。

 しかし相変わらず表情が硬い奴だな、佐治ケ江。相変わらず笑みをまったく見せないし。

 でもまあ、褒められて悪い気はしない。


「いやあ、あたし別になんにもしてないって。ちょっとからかっちゃっただけでさあ」

「これで貸し借りなし!」


 林原かなえは唐突に立ち上がると、右腕突き上げ腹の底からの大声で叫んだ。子供のような甲高い声で。


 あの……別になにも借りてないんだけど。

 それとも、わたしなにか借りた?


「うっせーぞ、チビ!」


 畑中主将の怒鳴り声が、食堂の空気をバリバリと震わせた。何度も怒鳴るのも大変だろうから、一度こっちに来てガツンと頭を殴っちゃえばいいのに。


「すみませえん!」


 かなえは肩を縮こませながらさっと腰を下ろすと、ダンとテーブルを叩いた。


「もう、あたしばっかり怒られてる。……つまんない!」


 だって、主将のいる奥の席にまで届くような大声出してるのお前だけだろ。


 分かった。

 断言する。

 林原かなえはアホだ。

 間違いなくアホだ。


 その分というべきか、フットサルの技術はとんでもなく凄いけど。


「面白い人たちと仲が良いね、サジは」


 さすがにアホ認定は可哀相かなと思ったので、格上げで面白い人認定に変更、だけど本人へ面と向かってフォローしてあげるのも癪だったので、佐治ケ江へ振った。


「ほうじゃろか?」

「ほうですよ。でもまあ、よかったよ。サジがいてくれたというだけじゃなくて、巴さん……和希が話し掛けてくれたり、面白い人の一人コントも見られたし。今日の練習でクヨクヨ落ち込んでいたのが、おかげで吹っ飛んだよ」


 明日またどうなってしまうのかは分からないけど、とりあえず明日も頑張ろうという元気は出た。


「あたしはただ、せっかくこうして集められた仲間なんだから、早く仲良くなろうかと思いまして」


 和希は、照れたような笑みを浮かべた。


「まあ、それだけじゃないんですけどね。もう古い話になりますけど、梨乃さんが敵だという高校時代からの記憶を頭から追い払いたかったんですよ。優さんとも代表で最初会った時は、もうドキドキドキドキ死にそうなくらい胸が痛かったんですから。話をしてみたら、惨めさとかそういう嫌な気持ちが、すーっとなくなったんです。だから梨乃さんとも、早く話したいなと思っていました」

「へえ、そういうのをいつまでも気にする性格なんだ」

「あたし、暗いんですよ。見た目の通りに」

「真面目なんですよ」


 自虐に走る和希を、佐治ケ江がフォローした。


「でもあの関サルは、ほんっと激戦というか死闘だったよなあ。フットサルで怪我人続出なんて、普通ないよね。試合が終った後、あたしもサジも病院に行ったもんね。ねえ、サジ」


 わたしの振りに、佐治ケ江は頷いた。


「はい。なんだかもう懐かしい記憶ですね。でも、あたしはあの試合で自分が変われたので、感謝しているんじゃけど」

「ああ、藤ケ谷の部員みんなが乱暴でご迷惑かけました。あたしも転校して入部して、びっくりしましたよ。ブッ殺せ! とか、そんな声が練習中からバンバン飛びかってるんですから」


 和希は、耳にかかった髪の毛を指にくるくる巻き付けた。


「試合中にもそんなこと叫んでたよな、ないとうが」


 わたしは、ないとうさちのそんな姿を思い出してちょっと吹き出しそうになった。


「ああ、内藤主将。そういや梨乃さんって、同じ大学に行ったんですよね」

「うん、たまたま一緒で。なんか色々と馬が合っちゃて、同居までしてたからね。同じ居酒屋でバイトしたりもした。あのバカ、皿を割り過ぎてあっという間にクビになってたけど。あいつ、もう彼氏出来たかなあ。大学ん時は、人生で一度もいたことないなんてぼやいていたけど。神ふざけんなとか」

「継続中らしいですよ。噂では、現在は婚活中らしいです」


 和希は、自分でいいながら口を押さえてプッと吹き出した。

 なにがツボであったのか、くくくと堪えた笑い、お腹を押さえて苦しそうだ。

 わたしは、内藤いじりの友とこんな遠い地で出会ってしまったのかも知れない。今度もっともっと内藤ネタ教えてもらおっと。


「婚活? そうなんだ、この二年間で簡単なメールのやりとりしかしてなかったからまったく知らなかったよ。サジ、覚えてる? 内藤幸子。関サルの時にいたんだけど、あと大学ん時にもあたしらと戦った時にいたでしょ。うすらデカイの」

「はい、よく覚えています」

「関サルん時にさあ、あいつブチ切れてサジのこと……」


 と、わたしと佐治ケ江が視線を合わせ話をしていると、林原かなえがテーブルに手を着いたまま身体をぐいいいいっと伸ばして、我々の間に入り込んできて視界を塞いだ。

 くそ、邪魔だなこいつ。


「いいや別に。あとでね」


 わたしがそういって口を閉ざすと、ずずずーっとかなえの身体が引っ込んで、ちょこりんとおとなしく席に着いた。

 視界が開けたので、


「でさ、サジにあいつがさあ」


 改めて口を開き佐治ケ江と視線を合わせると、またかなえの身体がぐいいーーんと伸びて、わたしと佐治ケ江が会話出来ないように邪魔をしてきた。


「子供かよ!」

「だって、つまんない! なんかあたしだけのけ者みたい! あたしだって優師匠と対戦したことあるのに、思い出あるのに、でもそれってあたしと優師匠の二人だけのことじゃない? だからそっちでばっかり話をしちゃってさあ。ずるい! 詐欺だ!」

「だから、子供かよ」


 面倒くせえな、こいつは。


「はーい、子供ですう」

「年齢いくつだよ」

「二十四ですう」

「でっけえ子供。……いや、でっかくはないか」


 わたしはかなえの小柄な身体へと、じろじろ舐め回すような視線を送りながら、わざとらしくプッと笑ってやった。


「ドッカーーーーーン!」


 かなえ大爆発。真っ赤な顔で怒鳴りながら、両腕を振り上げ立ち上がった。


「うるせえよ! 後で肩揉ませっぞ!」


 大噴火よりも主将のガラガラ声の方が遥かに大きく、かなえの顔は一瞬にして赤から青へ。


「すみませんごめんなさい、もううるさくしませえん」


 畏縮し本来以上に小さくなって、静々と腰を下ろした。


「つまんない……」


 ぼそり呟くかなえ。

 なんか、涙目になってるよ。

 性格がお子様であることが百パーセント原因ではあるものの、ちょっと可哀相になってきたな。

 と思ったら、次の瞬間ぱあっと花開いたような顔になって、


「そっちばっかりで話してたから、じゃあ今度はあたしと優師匠のラブラブお話ターーーイム! ……お話タイム」


 主将のロケットパンチが飛んで来るとでも思ったか、かなえは小声でこそりといい直した。


「そっちばっかりでもなにも、あたしはろくに喋っとらんかったけど。お喋りは苦手じゃけえね」


 確かに佐治ケ江はほとんど口を開いてなかったな。インパクトある言動といえば、かなえにトマトを全部突っ返したことくらいだ。


「でも、でも、空気がっ! すっかり三人だけの思い出話になってたじゃないですかあ! あたしが一人でどれだけ淋しかったか、分かりますかあ?」

「ごめん」


 いいよ佐治ケ江、謝らなくても。


「まあ別にいいんですけどね。これからはあたしと師匠の時間なんだから。でも優師匠、そっちの人と高校時代に一緒だったって本当に本当なんですか?」


 そっちの人、というのはわたしのことだ。そんなにわたしと佐治ケ江との接点を認めたくないのか。


「本当」


 佐治ケ江は答えた。

 まさにお前の目の前でずっと思い出話で盛り上がっておったんじゃけえ、本当に決まっとるじゃろが。優しい佐治ケ江の代わりに広島弁でいってやった。

 いったというか、胸に呟いただけだけど、わたしのことだからきっと無意識に独り言で出ちゃってることだろう。


「はい、出ちゃってますよ」


 と、かなえはわたしをじろりと睨みつけると、また佐治ケ江へと視線を戻し、


「そっちの人のことを尊敬してるとかいってたことも本当なんですか?」

「本当」


 佐治ケ江は即答した。


「照れるな、そんなこといわれると。サジの方がよっぽど尊敬出来る存在だよ。でも、二人はどういう関係なの?」


 わたしは佐治ケ江と林原かなえの関係を尋ねた。

 代表で初めて出会って、こんなべったりな仲になるものかなと思ったので。


 わたしの予想は当たっていた。


「かなえはひがしの生徒で、関サルで戦ったことがあるんです」


 佐治ケ江が答えた。

 そうか、我孫子東のフットサル部員だったのか。どうりであの天才的な動きも頷ける。


 現在の千葉県において、高校女子フットサルの勢力図は完全に二分されているといって過言でない。西のひがしに、東のわらみなみだ。西なのか南なのか東なのか、わけが分からないけど。

 でも、わたしや佐治ケ江が現役高校生だった頃は、我孫子東の一強体勢だった。


 強さが有能な者を呼び、天才的な才能を持つ者がうじゃうじゃいるような超強豪校。林原かなえも、そんな天才の一人だったということだ。あの我孫子東出身で、現在代表なのだから。


 聞けば佐治ケ江と林原かなえの二人は、わたしが引退した後の関サルにて対戦したとのことだ。


 わたしも確か受験終わって応援に行ったので、かなえのことを見ていることになるのだろうが、よく覚えていない。小さ過ぎて見えなかったのかな。

 という冗談はさておき、かなえは幼少よりこんな性格なものだから天才といわれて天狗になってしまっており、自信満々で佐原南との対戦に臨んだものの、人類を遥かに超越したような佐治ケ江優の圧倒的技術の前に、高慢ちきな鼻を散々にへし折られたということらしい。


 数年後、FWリーグでばったり再会してからというもの、所属は敵チーム同士ながらも優を師匠と仰いで尊敬しているということだ。


 要するに、脳が崩壊しないよう自己防衛に出たということだろう。相手が凄いだけだ、自分が劣っているのではない、と。


「そういえばあたしい、高校時代の優師匠の話って、ほとんど聞いたことなかったなあ。どんなだったんですか? あたしと師匠の仲だというのに、ほとんど話してくれないんだもんなあ。ああ、そうだそうだ、あのサルみたいなのとはどんな仲だったんですか? 師匠と随分と仲が良さそうに見えましたけどお」

「王子……えんどうゆうのこと? あ、その頃は結婚前で、やま裕子じゃったけど」

「そうそう、それだ! 山野裕子だ。へえ、あんな角刈り頭で結婚出来たんだ」

「ほじゃけど、いまは肩まで伸ばしとるけえね」

「で、どんな仲だったんですかあ?」


 かなえは、佐治ケ江へと擦り寄った。興味と嫉妬心の入り混じった顔で。

 いきなりそんなことを聞かれて、うーんと真面目に考え込んでしまっている佐治ケ江へ、わたしが助け舟を出して上げた。


「あたしが話してやるよ。裕子は王子ってあだ名で、サジとは高校一年……」

「あなたには聞いてませえん」

「おんなじことだろ! お前の師匠様よりあたしの方が上手に説明出来るぞ。本人じゃないから客観的にいえるとこもあるし」

「あたしは師匠の優しい声で教えてもらいたいんですう。練習で疲れているのに耳障りな変な声で人の神経逆なでするのは、やめて下さあい」


 腹立たしいな、こいつは。

 フットサルの技術が半端じゃなく優れているのは認めるけど、人格に問題ありすぎじゃないか?

 ああくそ、さっきちょっと可哀相だと思ってしまったけど前言撤回、いや前思撤回。

 潰す!


「よくメールで相談受けるんだけどお、君の大好きな優師匠はあ、師匠離れ出来ない乳臭いガキは大っ嫌いだそうですよお。ね、サジ」

「そだことにゃい!」


 かなえは立ち上がり、テーブルを激しくドンと叩いた。慌てて声を出そうとするあまり、舌っ足らずな言葉になってしまっていたが。


「うっせええええええええっていってんだろがクソチビがああああああ! にゃいじゃねえよバーーーーーカ!」


 お前が誰よりもうるさいだろって感じの畑中主将の怒鳴り声に、またまたかなえの小さな身体はぷしゅーっと音を立ててさらに小さく萎んでしまったのであった。

 ざまみろ、バカめ。


     7

「えーーーーーっ! ちょっとなにこれえ!」


 通路、宿泊部屋の扉の前で、わたしは思わず間抜けな口を開けて大きな驚きの声を発していた。


「どうかしました?」


 隣の部屋の扉の前で、ともえかずがドアノブに手を掛けたままこちらを見ている。

 和希が隣の部屋で、さらにその二つ隣がらが泊まる部屋である。


 つい先ほどまでロビーに座って三人で話し込んでおり、一緒にここへ来たので、隣の隣の隣の扉の前には佐治ケ江もおり、やはりわたしのあげた声にきょとんとした表情でこちらを見ている。


 なにに驚いたかというと、もちろん理由はある。

 合宿参加選手はすべて相部屋なのだけど、扉の横に張られているこの部屋の宿泊者名が……



 たか

 はやしばらかなえ



「なんだもんなあ。驚いちゃうよ」


 なんでよりによって。まだ主将との方がいいや。


「ああそうか、あたしたちはバスでここを出る直前に部屋割り発表されて知ってましたけど。といっても梨乃さんとかなえちゃんが、あんな犬猿の仲になるなどとは思ってもいませんでしたが。……かなえちゃん、早めに宿舎を出てとっととバスに乗ってしまってたから、あの子も部屋割に驚くかもな。でもね、かなえちゃんも根は悪い子じゃないですよ」


 と、林原かなえを庇う巴和希。

 いわれなくても、分かってるよ。あいつは自分に正直で、強情っぱりで、幼くて、嫉妬深くて独占欲が強いだけだ。

 そこを抜かせば、まあいい子なんじゃない? 毒舌だけどパッと見は人形みたいで可愛らしいし。


「ま、とりあえずは先に寝ちゃうわ。あいつ来る前に。じゃ、おやすみ、和希。サジも」

「じゃ、また明日、梨乃さん」

「梨乃先輩、おやすみなさい」


 こうしてわたしたち三人は扉を開け、それぞれの部屋の中に入ったのだった。


     8

 さて、しっかり眠って明日の練習のための体力を回復させなければな。

 いつも残業残業残業残業特急電車深夜帰宅、という日々の中でフットサルをやっているだけあって、どこでも寝られるなど体力回復関連の能力には自信あるけど、でも二十代後半という年齢のためか体力上限そのものが衰えてきている気がするからな。より意識的なケアを心掛けないと。


 若い頃は、ほんと無尽蔵に活力がわいてくる感じだったもんな。精も根も尽き果てているような状態だというのに、それでも身体が動いたもんな。

 でも現在はそうではないのだから、より頭を使わないと。


 部屋の中であるが、入って右側と左側の壁際にそれぞれベッドが置かれている。


 あいつの顔を見なくて済むようにとっとと寝てしまおうと思っていたけど、でもわたしが先に寝ちゃうと、そっちのベッドが良かったとか勝手に決めてズルイとかなんとかグダグダ文句いってきそうだな。


 ほんと面倒くさい奴だな、あいつ。

 どこに行ってんだよ。

 主将に連れられて、どっか行ったきり全然戻ってこないんですけど。


 ひょっとして、本当に肩を揉まされてたりして。

 もしそうなら、悪いことしてしまったな。


 罪滅ぼしというわけじゃあないけど、もうちょっと寝るのを待って、あいつにベッドを選ばせてやるか。


 わたしは窓際に設置された小さな机に着くと、トランクを開けて自分のノートパソコンを取り出した。

 合宿期間中は仕事は完全免除されているのだけど、でもやっぱり気になるから状況の確認だけでもしておこうと思ったのだ。


 わたしのいるチームにどんな案件が来ていて、現在どんな処理状態であるのか。

 他の部所や、顧客からのクレームは来ていないか。

 等など。


 幸いにして顧客からの苦情は来ていないようだが、我がチームリーダーのたけ課長からわたしへのお怒りメールが来ていた。



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 まずお前な、吹っ飛べ。

 おれにラリアット食らわされたと思って、後ろへ吹っ飛んで、壁に背中を打ち付けてなんか悲鳴を上げろ。ぐはっち、とか、ぬおっとか、ウップスとか。


 後ろを振り向いて壁がたいらか確認なんぞしなくていい。よくおれにラリアットかまされる時、後ろの安全を確認してから吹っ飛ばないだろう。リアルにやれ。もしも壁にハンガーとか、絵画とか、尖ったものとか、なんかあるとしたらそれに思い切り当たれ。


 やったか?

 壁に激突したか?

 痛いか?

 痛くなかったら、それもう一回やれ。

 いや、痛くとももう一回やっとけ。


 おれがなんに怒っているか分かるか?

 お前な、本当に合宿参加しとんのか?


 協会のオフィシャルとやらを見てみたけど、お前の名前なんかどこにもないぞ。

 他の女が辞退するってお知らせはあったけど、お前、その女の代わりに選出されたんじゃなかったのかよ。

 よく分からんけど、どうせテレビ放映されるような大したしろもんじゃねえんだろ。ニュースで取り上げられるような立派なもんじゃねえんだろ。

 じゃあ名前と所属がせめてここくらいに載ってなきゃあ、全然宣伝になんねえだろ。このぶわーーか。


 仕事許されてそっち参加してんだろ。

 給料泥棒か、てめえは。

 つうか本当に参加してんのか。のんびり熱海旅行でもしてんじゃねえだろうな。召集されたなんて、真っ赤な嘘なんじゃねえだろうな。


 とかなんとかメール打ってたら、いま協会の人から連絡がきたよ。タイミング悪いんだよお前、バカ。

 つか、お前がまだ集合場所に来てねえって連絡じゃねえか! アホかお前、なにやってんだよ!

 早く合流しろよ、アホ。


 そんなことよりも、協会のページを急いで更新してもらえよ。召集されたの本当っぽいんだからさ。

 宣伝のために行ってんだぞ、お前は。適当なことすんのも、大概にしとけよ。

 夜の街で男漁りなんかしてんじゃねえぞ。会社のイメージ悪くすんじゃねえぞ。


 バーカバーカブッスッブッスッわたしはたかぎいりのちゃんよ、るるるみっちゃんみちみちとくいわざあ♪ おれの即興の歌詞だ。曲とフリを考えとけ。パンティ半分見えてるようなミニスカで歌ってもらうからな。もしも帰ってくるまでにオフィシャル更新されてなかったらな。

 あばよ!

 悪夢見やがれ!


 あ、お土産よろしくね。


▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲



 そうか、うっかりしてた。

 というか、わたし自身はそんなに気にしていなかった。だからすっかり忘れていた。

 フットサル協会のオフィシャルに、わたし自身の名前が出ることなど。


 佐治ケ江など知った人が呼ばれてないかなどでよく見るページではあるんだけど、わたし自身とは無縁のつもりでいた。


 そのページにアクセスしてみたが、確かにわたしのことなど選手一覧にないどころか、新着情報に記載すらもない。

 追加召集を承諾したのがあまりに遅かったし、そもそもこの手の協会のホームページって更新があまり頻繁でないものだからな。野球とかサッカーなどの人気スポーツは、そんなことないんだろうけど。


 しかしクソ課長、腹立つな。なんだこのメール。

 これなにハラっていうの? セクハラ、モラハラ、パワハラ、北海道の海鮮丼のごとくテンコ盛りだな。


 一般感覚の女の子がこんなメールをもらった日には、絶対に泣いて誰かに訴えるか会社を辞めちゃうぞ。


 別に、オフィシャルに名前が出る必要なんかないだろうが。

 わたしがこの合宿でなにかを掴み、戻った後に我が社のフットサル部が強くなって、毎年優勝してそれで知名度をあげれば、わたし一人が代表に入る以上の恩恵にあずかれるだろうが。

 そういう思いを返信したかったのが、文面を考えるのが面倒だったので、



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 合 宿 私 強 戻 社 又 強 豪 優 有 金 金 金


▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲



 とだけ書いて送り返してやった。

 わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ。


 まあ読み取れなくてもいい。竹部なんかのために割いてやれる時間はないのだ。

 給料泥棒だなんだ罵られたからには、仕事をしてやらにゃあならないからだ。せっかく早く眠って、しっかり体力を回復させようと思っていたのに迷惑な課長だ。


 パソコンなんか立ち上げるんじゃなかったよ。持ってくるんじゃなかった。ちょっと会社の様子を知ろうとしただけなのに。


 そもそもかなえのアホが戻ってこないから、ならまだ起きてようってパソコン開くことになっちゃったんじゃないか。

 などとぼやいていても仕方がない。

 やるか。


 というわけで、わたしは東京から遥か離れた桃太郎の地にて仕事に取り掛かったのである。


 FWリーグ所属の選手なんかは、迷うことなくこの合宿に全力で取り組めるんだろうけど、食品会社の正社員としては損だよな。こういう時にさ。


 いや、でも将来への不安も少なく、それでいてこうしてフットサルに打ち込むことも出来ているわけで、恵まれているともいえるのか。


 FWリーグって、佐治ケ江なんかはプロ契約だけどほとんどの選手はアマチュアで、昼は契約社員やアルバイトで働いているんだもんな。

 将来の保証などなんにもない。


 特定のスポーツで引退後にタレントになれるような者など極々一握りだろうし、別にみんながそんなもの目指すわけでもないだろうし。


 男性ほどじゃあないにせよ、将来への不安はかなりあるんだろうな。

 やっぱりわたしはわたしで、現在のこの境遇に感謝しなければだな。竹部課長にラリアットされたり、消しゴム投げられたり、ビニール袋に詰めたおならをかがされたり、お尻を蹴飛ばされたり叩かれたりする程度で怒ったりへこたれてたりなんかしていられないぞ。


 などと内面に闘志を燃やしながらノートパソコンをカチャカチャやっていると、


「えーーーーーっ! ちょっとなにこれえ!」


 扉の向こうから、もう夜も遅い時間だということを一切はばからないそもそもそんな常識などまるでなさそうな甲高い声が聞こえてきた。

 林原かなえの声だ。


 おそらく先ほど和希がいっていた通り、相部屋の相手がわたしであることにびっくりしているのだろう。

 急に静まり返ったかと思うと、約二十秒後、かちゃりそろっと扉が開いた。

 隙間からこちらを覗いているのは、やはりかなえであった。


「やっぱり、いるーっ」


 げんなりとした、心底嫌そうな表情を浮かべている。漫画なら顔に縦線が入ってそうだ。


「そりゃいるよ。相部屋だもの」


 当然だろ、という冷静な態度を取るわたしであるが、実はわたしも先ほどかなえとまったく同じように驚いて叫んでしまったんだけどね。


「寝ないで待っててやったんだからな。先に眠っちゃったら、ズルイこっちのベッドが良かったとか文句いわれそうだし。こっちが無防備なのをいいことに顔に落書きされかねないからな」

「顔に落書き? そりゃ名案だ。採用。っていうか、なにその恩着せがましい態度。誰のせいで遅くなったと思ってんの」


 林原かなえは、恨みがましい視線のビームをじーーっとわたしに当てながら、ゆっくりと部屋へ入ってきた。


「誰のせい、って……なにやってたの?」


 わたしは尋ねた。


「お局ファイブの肩揉み。その他雑用。洗濯とか、カップラーメンのお湯を入れてきたりとか。柿の種のピーナッツをより分けたりとか」


 やっぱりそうか。


「いままでずっと?」


 かなえはこくりと頷いた。


「いや、それは悪かった。あたしにも原因ある」

「にも? 疲れて日本語間違っちゃったのかな。だけ、の間違いでしょ」

「根本はサジべったりの、お前の性格の問題だ!」


 なのにこっちは謝ってやったんだ。床に額をこすりつけて感謝しろ。局の肩揉みくらいなんだ。ピーナッツのより分けくらいなんだ。


ゆう師匠の悪口をいうな!」

「サジの悪口なんてこれっぽっちもいってないだろ!」

「じゃあ、じゃあ、あたしの悪口ってことになるじゃん!」

「当たり前だろ、誰がどう考えたってお前の悪口だよ。悪口っつーか、単なる事実だよ」


 かなえは頭のどこかがプツッと切れたか、ムギャーーーーッというかキイイイイイッというか、とにかくそんなわたしには絶対に真似出来ない甲高い絶叫をした。

 いまにも飛び掛かってきそうだ。アフリカ大陸で発見された新種の夜行性動物かよ、こいつは。


「そう怒るなってば。ただ性格の欠点を指摘してあげてるだけだろ」

「あたしに欠点なんかない!」

「はあ、なにいってんの? あのね、外れてたらごめん、でも五万賭けてもいいわ。お前、彼氏いたことねーだろ絶対」

「……あ、あったりまえでしょ! バカじゃないの? だって、あたしに釣り合う男の人なんて、この地球に一人だって存在すると思う? あたしの白馬の王子様は、そう、優師匠だけなんだから」

「はいはい、優師匠とゴールイン出来るといいね。あいつもお前と一緒で、男が嫌いというか苦手というかだから、ちょうどいいんじゃないの?」

「あたしは別に嫌いというわけじゃ……単に釣り合うのがいないだけで」


 嘘がつけず本音が漏れるタイプだな。

 要するに、出会いが欲しかったけどきっかけが皆無というか性格の悪さが災いしているというか、誰とも付き合うことが出来ずにいるうちやがて佐治ケ江に幻想を見るようになったということか。


「そっちこそ、いたことないくせに!」

「あたし、結婚してんだよ! 主婦なの主婦」

「ぎゃーーーーーーーー。じゃ、じゃあっ、じゃああっ、ひ、ひ、ひ、一人としとしかしかっ、なな、ないくせにっ!」


 男とやった人数の話か? そんなことくらいで、顔を真っ赤にしちゃってまあ。こいつきっと、学生時代にクラスの女友達とそういう話をしたこともないのだろうな。というか友達いたことないんじゃないの?


「なにいってんの? あたし高校の時にクラスのさあ……あ、いやいや、なんでもない」


 クラスの男子の相当数と関係を持ってしまったことなんて、さすがにいえるわけもないからな。行きずりの人と公園や電車の中で、とか、入社同期を食いまくったりとか。


「明日も朝から練習があるんだし、もうやめとこ、恋バナ禁止っ!」


 こいつが可哀相になってきたからな。

 というのは自分の心をごまかす嘘の理由で、本当は自分自身が性に関して自制の利かない原始動物みたいで、恥ずかしくて惨めでたまらない気分になったからだ。


「禁止もなにも、どっちから振ってきたと思ってんの」

「はいはい、ごめんごめん」

「はあ、疲れた。もう寝よ寝よ。で、ベッドあたしが決めていいの? じゃ、こっちにしーよおっと」


 林原かなえは、部屋に入って左側にあるベッドの上にどさりと倒れ込んだ。

 そっちと分かっているならブーブークッションでも仕掛けておけばよかったな。

 ま、とにかくこれでようやくわたしも寝られる。

 わたしは部屋の電気を常夜灯に切り替えると、右のベッドに入った。


「ああもう、手が痛あい」


 かなえが自分の手をさすっている。

 お局たちに、散々こき使われたらしいからな。まあ、災難だったな。それは認めよう。


「ね」


 横向きで壁を間近に見るように寝ているかなえが、ぼそりと声を発した。


「ん?」

「優師匠って、高校の頃どんな感じだったの?」


 なんだよ、食堂ではあなたには聞いてませえんとか突っ張っといて、聞いてんじゃんかよ結局。

 しかしほんと佐治ケ江のことが好きなんだな。


「ぱっと見の感じとしては、いまのままだよ。なんにも変わってない。ボール捌く技術はあるけど、社交性ゼロ、無口で冗談一ついわないし、笑ったとこ一度も見たことない」

「なんだ、ほんと変わってない」

「でも、内面は百八十度変わったかな。信頼を知って、強くなった」

「え……ちょっと、なにそれ? どういうこと? 昔はアウトローでしたってこと?」

「アウトローじゃなくてアウトサイダーね。慣れない言葉使うなよ。……佐原南のフットサル部に入ってきたばかりの頃は、他人をまったく信じていなかった」

「どうして? なんか理由あるの?」

「これ、いっちゃっていいのかなあ。というか本人から聞いてない? ……ずっと酷いいじめを受けてたんだよ。広島にいた頃、小学中学とね。それでお母さんと一緒に千葉に越してきたんだ」

「なんか、聞いちゃいけないこと聞いちゃった気がする……。師匠に申し訳ない気持ちになってきた」

「まあ、聞いても問題ないと思うよ。もう別に隠してることじゃないらしいからね。とにかくそんなことがあって人間嫌いだったから、高校のフットサル部に入部したばかりの頃はまあ酷くてね。声は出さない、チームの輪は乱す。あとこれは性格の話じゃないけど、一人でボール蹴ること以外に運動なんかしたことないから、まあ体力がない。何歩か走るともう息切れ」

「ふうん。そうだったん……」


 だ、までいうことなく、かなえは夢の中に落ちていたようで、スーーーッと寝息が聞こえてきた。


 なんだよもう、せっかく話してやっていたのに。なにがそうだったんスーだよ。

 相当に、疲れてるんだな。

 ハードな練習だけでなくて、遅くまで肩揉みまでやらされたんだからな。


「師匠ちゅきでちゅうむにゃあ」


 いま落ちたばかりのくせに、さっそく寝言をいってるよ。

 佐治ケ江って、こんなのに好かれてるんだな。


 でも、面白いな。こうした人間関係が、佐治ケ江の性格、佐治ケ江の人生をどう変えていくのか。

 王子も随分と佐治ケ江に変化を与えたけど、この子の存在もまた別アプローチで相当な影響を与えそうな気がする。


 三つ子の魂百までというけど、物心ついてからの出会いも結構人格に影響するもんだよ。

 わたしなんか中学まではそこそこ真面目だったと思うけど、高校大学と変態の巣窟に放り込まれて揉まれ、こんなエロ大好きで物怖じしないふてぶてしい性格になっちゃったからね。


「ううんっ」


 壁に顔を向けて寝ていたかなえであったが、ごろんと回転してこちらを向いた。


 上回り回転ではなく、腕を巻き込んでのもそもそ下回り回転なのが凄まじく気持ち悪かったけど、でもまあ可愛い寝顔をしてるな。


 邪気がない。

 わたしに対してだけか知らないけど、起きている間はあんなに邪気だらけなのに。


 落書きしちゃおうかな。

 おでこに肉とか。

 寝てる間に全裸にして廊下に出しちゃうとか。

 いやいややめとこう、それは先にやられた時の報復手段だ。


 さ、わたしも寝よう。

 明日も、頑張るぞ。


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