雨
埜上襤褸
雨 - ran in the sky -
授業がとっくに終わって級友はみな帰ってしまった。
いつもなら私も帰っているところだが、今日は日直の仕事があって遅くなってしまったのだ。
窓硝子の向こうからはザアザアと雨音が聞こえる。昼過ぎから分厚い雲が陽の光をさえぎっていて、そろそろ降ってくるな、と思っていたのだが案の定であった。
さいわいにして天気予報で雨の降ることは承知していたから傘は持参している。
学生鞄を手にすると、傘立てから傘を引き抜いて教室を出る。傘は黒いシックなデザインのもので我ながら気に入っていた。
階段を降りるごとにヒヤッとした空気がまとわりついて、聞こえてくる雨音が一歩段を降りるたびに大きくなっていった。
外に出てみると雨の激しさは予想以上であった。これでは傘を差しても背中や鞄は濡れてしまうだろう。
ふと私はコンクリートの軒先に、一人の女学生のあるのに気が付いた。
その女学生は軒先の、雨に濡れるか濡れないかのところに直立不動であって、一心に降りしきる雨を眺めているのである。
黒髪を背中で一つにした、凛とした女子であった。
普段であれば、ここで私は持ち前の小心さでもって女学生に言葉など掛けられないのだが。このとき、雨があまりに激しかったからか、あるいは女学生の凛とした佇まいに感じ入ってか、おそらく後者であろう。私は彼女に、傘を貸しましょうか、と訊ねたのだ。
発言してから、よく自分にそんな勇気があったものだと思い返すほどだから、そのときの私の精神状態はやや躁状態だったのだろう。
私の発した言葉で、ようやく私の存在を知ったかのように女学生はこちらを向くと、すぐに私の手にする傘に視線をそらして、いいえ、濡れて帰りますから、といった。
予想外の返答であった。繰り返すが、私はいつもなら女学生に声など掛けられない小心者であって、だから女学生とのcommunicationは連立方程式よりも難しい問題であった。
どう言葉を返せばいいのかと頭を悩ませている間に、彼女は小走りで雨の中を去っていった。
私は一人、学校の昇降口にとり残されてしまった。校舎から私の他に人が出てくることはない。より一層激しさを増す雨音と、息を吐く音が聞こえるのみである。
私は仕方なく、一抹の寂しさを胸中にしまい込んで、傘を差すと踏み出したのだった。
雨が傘を叩いて五月蠅いほどである。あちこちにある水溜りは避けようとも避けられぬもので、まもなく靴はずぶ濡れとなった。
帰路をゆく間、私の脳裏からは先程の女学生のことが離れなかった。
一体なぜ彼女は傘を断ったのか。
まず私を警戒してという可能性が考えられる。
しかし警戒してとはいっても一体何を警戒してというのか。
私は、自分で口にするのも憚られるが、一見して無害そうな外見をしている。これは私の友人の意見が一致するところで、百歩譲っても私に警戒するべき点を見出すのは無理であろう。
では私の訊ね方がいけなかったのか。
だがそれも訳の分からない話である。成程、私は自他共に認めるところの口下手である。けれども私の口にしたのは、傘を貸しましょうか、の一言だけである。これで人が気分を害するならば、今日のような雨の日はやれ喧嘩である。暴動である。
無論、世の中そこまで無茶苦茶ではないし、かの女学生も普通に話の分かるようだった。
それらの他には私に遠慮して、という可能性が考えられる。
これは最も説得力がある。但し、説得力とは私自身に対するものであるから、つまり私が十分に得心のいく可能性がこれである。
かの女学生は、私が傘を一本しか持っていないと遠慮したのである。代わりに、私がずぶ濡れになることを気遣ったのである。見目麗しいばかりか、機知にも富んでいるではないか。
一先ず、私は満足すると、頭を切り替えようと試みた。ほんの数分、ともすれば数秒目にして、少しばかり言葉を交わした女学生を忘れることは、造作もなく思えた。
ところが家に帰り着くまで、否、家に帰ってからもである。夕食を取り、風呂に入って、終いには布団を被ってからも私は彼女を記憶から消し去ることができなかった。
幾度となく、その凛とした立ち姿が思い出されたのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
翌朝、空は晴れていたが天気予報は雨であった。また昼頃から降り始めるのであろう。
私は玄関先で一寸考えると、傘立てから傘を二本抜いた。一本は自分の黒いもの、もう一本は茶色いものである。
なぜ、傘を二本も持ち出したかといえば勿論、昨日の女学生とのやりとりが今も脳裏にあるからである。
我ながら単純である。まったくの短絡的思考である。そもそも今日も同じように雨が降ったとして、同じように彼女が昇降口にいる確証などない。あるいは今日は彼女も傘を持参しているかもしれない。
しかし授業終わりの鐘が鳴って、私が気持ちの逸るのに任せて昇降口に向かってみれば、彼女はあった。そこに至極当たり前であるように、やはり背筋をピンと伸ばして凛と立っていた。
私は妙な筆舌にしがたい心持ちでそれを眺めていた。可笑しくもあった。
彼女の後ろ姿は、昨夜、私が布団の中で思い出したのと何一つ違いなかった。
同一の人であるから当然だという論も至極真っ当ではある。けれども記憶の中のそれは、まるで写真機で撮ったのを頭の中へ貼ったように正確なのである。
ともかくも私は意を決して彼女に近付くと「傘を貸しましょうか? 今日は二本持っていますので……」と訊ねた。
私は彼女にまた気遣われないよう、二本待っているのは偶然であると何度もくり返したが、おそらく傍から見れば滑稽な姿であっただろう。
やがて彼女は私を向いた。
「お気遣い有難うございます。……ただ、私は雨が降ることを天気予報で知っておりました」
私は彼女が何を言いたいのか見当が付かなかった。
「私は今日、雨が降ることを承知していたのです。ですが私は傘を持って参りませんでした。勿論、傘がなければ濡れることも承知しております」
「なぜ傘を持ってこなかったのだい?」
私が問うと、彼女は自分でも不思議そうな声音でもって「……何となく、としか申し上げようが御座いません。ほんの気紛れのような……そんなものなのです」
私は彼女がもしや変人の類なのでは、と疑り出した。けれども目の前の女学生からは、そういった人々に特有の雰囲気は感ぜられなかった。
「でも君は今、傘がなくて困っているでしょう? どうぞ私の傘を貸しますので……」
「お心遣い有難うございます。ですが、私は先程も申しましたように、今日、雨が降ることを承知で傘を持ってこなかったのです。雨に濡れることを承知で傘を持ってこなかったのです」
彼女は私の手をやんわり押して「もし私が不注意で傘を忘れたのであれば、貴方の傘をお借りします。ですが私が傘を持ってこなかったのは不注意ではありません。ですから、貴方の親切を受けとるわけには参りません」
「……ええと、つまり君は雨に濡れたいというのですか?」
すると彼女はふふっ、と笑って「そんなことは御座いません、ふふっ、面白い方ですね。……ええ、けして私は雨に濡れたい訳ではありません。雨に濡れれば風邪を引きます。鞄の中も濡れてしまいます。母様にも叱られるでしょう」
「……では傘を使ってください」
「それは無理なのです。奇妙なことを、と思われるでしょう。それも承知しております。ですが私は貴方の傘をお借りしてはいけないのです。本当に申し訳御座いません」
そういうと彼女はサッと雨の降りしきる方へ向いて、一目散に去っていった。
私はとっさに、それまで彼女に傘を差し出していた右手を伸ばしたが、彼女は一度も立ち止まらず、後ろを振り返りもせず、やがて雨の中へと消えた。
私はしばらく放心して、不思議な女生徒の消えたところを見遣っていたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その翌日も雨であった。
ここ一週間ばかり毎日雨なのだから不思議はない。お天道様は気紛れだというが、梅雨時であるからして雨降りの日の多いのは道理である。
しかし私は、それが幼子でも承知している道理であるのに傘を忘れたのである。今朝方、うっかりと寝過ごして天気予報を耳にすることなく自宅を出たのである。不注意である。
普段であれば、寝坊などは縁遠いものであるが、昨夜は布団の中であっても、かの女学生の凛とした佇まい、理的な眼差し、あるいは雨の中へと消えゆく場面が思い出されたのである。どうにも心が晴れず、幾度となく寝返りを打ったのである。
教室を出ると、あたりは静まり返っていた。
授業が終わって間もないというのに他の教室でも廊下でも、元より男子は授業が終われば街遊びに繰り出すが常であったが、女生徒が四五人で骨牌に興じていることもなかった。
私は階段を降りながら、今日もかの女学生はあるだろうか、と考える。あるかもしれない。
けれども今日は傘を貸そうにも貸す傘がないのである。
雨音の地面を叩くが耳に痛いほどである。
外に出ると、強風で桜の木々が揺れていた。
あたりを見回しても女学生の姿はなかった。もう帰ったのであろうか。
私はがっかりを誤魔化すように、早足でコンクリートの軒先へと歩んだ。
雨は地面ばかりか石碑も穿つが如くであった。昇降口の近くにある学校設立の年月が刻まれてある石碑である。
しかも雨はさらに激しさを増しているようである。
「やあ、参ったなあ」
私は馬鹿者である。昨日、傘を一本残してあれば今日のような日に役立ったのである。
私には石碑が雨の中にあって孤軍奮闘する同志に感ぜられた。
さて、私が覚悟を決めてエイッと一歩を踏み出しそうとしたときである。
「失礼ながら傘をお貸し致しましょうか?」
見返れば、かの女学生が凛と佇んでいる。
左手には鞄を、右手には紺の傘を持っていて、それを私に向けて差し出しているのである。花柄の、女学生らしい洒落た傘である。
私はまごついて咄嗟に、いえ、濡れて帰りますから、といった。彼女の言葉を借りたのである。
すると彼女は「私を気遣って下さるのですか? それでしたら相合傘で如何でしょう?」と続ける。
そこで私は悪戯心を起こして「いや、私は今日、天気予報で雨が降ることを知っていたのだ。もし私が不注意で傘を忘れたならば、君の気遣いを受け取るところだが、私は雨に濡れることを承知で傘を持ってこなかったのだ」
女学生は、まあ、と微笑んで「……いえ、傘を貸すというのは口実に過ぎないのです。本当は貴方と話をしたかったのですが、お誘いするのは気恥ずかしく口実を設けたのです。ですから貴方を気遣ってというより、ただ自分の気持ちを隠すためなのです。……どうか私のため相合傘に入っては頂けませんか?」
私は成程と頷いた。感心である。
流石は口が上手いのは女子である。否、他の女学生がこれほど言葉巧みであろうか。
二の句が継げなかった私とは、これ段違いである。
「やあ、随分と口がお達者なようだ」
「気を悪く致しましたか?」
「何、そんなことはないさ。それより実は、天気予報で雨が降るのを知っていたというのは嘘なのだ」
「……ふふっ、知っておりました。もし貴方がわざと傘を忘れたのであれば、やあ、参ったなあ、という言葉は変ですもの」
成程、彼女の論理は明快である。私は彼女に問うた。
「なぜ今日は傘を持っているのです?」
「ええ、今朝は母様に手渡されたのです。昨日雨に濡れて帰りましたので……」
「成程、心配なさったのか。良いお母様のようだ」
「ええ、母様はとても優しい方です。あら、こんなところで立ち話なんて、さあ帰りましょう?」
「うん、その通りだ」
私は彼女が傘を広げるのを見遣ると、一言添えて、その手から傘を取った。相合傘などは背の高い方が傘を持って、背の低い方にやや傾けると丁度良いのだ。
雨の中に踏み出すと、雨の傘を叩くは轟音であった。
私達は雨音に負けぬよう声大きく、色々な話題を交わした。
私は口下手であるから同年代の女学生と話が合うだろうかと心配であったが、しかし彼女の口の達者であるのも作用してか、これは杞憂であった。
話題は様々に泳いだ。主に学校での出来事であった。古典の授業の話題があって、洋書の趣味を同じくすることが偶々知れてからは、ディケンズ、ヘミングウェイなどを語った。
女学生が自らも名を連ねている、仲間内で立ち上げた五六人ばかりの倶楽部の話をすれば、私が行きつけの洒落たbarで級友の二三人と玉突きで麦酒を賭けた話をするといった具合であった。
やがて話題も尽きたのを見計らって、私は予てより疑問に思っていたことを訊ねた。
「……一寸聞きたいのだが、君はなぜ、昨日など傘を持ってこなかったのだろう?」
何気ない心算であったが、私のcommunicationの不得手であるから、傍からすれば随分と間の抜けていたに相違ない。
女学生の方は一寸口を噤んで、ややあって「……貴方も傘を持たなければ、分かるやもしれません」と微笑むのである。すると私にも、これ以上問うことが無意味であるばかりか、やってはならない不文律に感ぜられるのである。
それからは二人共やや無口になって、やがて駅前の大通りに出る頃には、会話なく、ただ肩を寄せ合うのみであった。
私は雨音を聞きながら、なぜ、寄り添う少女の傘を持たぬかを検討していたが、皆目見当が付かなかった。
それは私の婦女子への共感性の乏しさに起因するばかりではない。時折、肩と二の腕の擦れ合うと心臓の鼓動が早まってしょうがないのだ。それを本人に気付かれぬよう口笛を吹く真似などするから挙動不審になる。
「失礼、私の帰り道は此方ですので」
私は学生服の袖口を引かれて、女学生のもう一方の手で示す方向を見遣った。気が付けば十字路であった。女学生の手は右側に向いていた。私の帰路はそちらではなかった。
「やあ、助かりました」
女学生の濡れないように気を付けて、手の傘を彼女に遣ると、まもなく私の髪も制服もずぶ濡れとなった。
それを見遣って、彼女は気遣わしげであった。すぐに口を開いたが言葉はなかった。
私は、気の利いた文句も思い浮かばぬので、「さようなら」と一言だけ残して、返事も聞かずして自宅に向かって駆け出した。
雨滴は首筋を伝って、学生服の襟元から這入って、背筋に冷たいのが感ぜられた。そして女学生と別れた一抹の寂しさが、その冷感を際立たせるのである。
その夜、私はまたも布団の中で寝付けないでいた。女学生の口にした、貴方も傘を持たなければ分かるやもしれません、という言葉が気になるのである。
結局、私は、家の皆が寝静まってからも、普段の月明かりもない暗い部屋の中で、目を開けて天井の梁の辺りをボウッと見遣っていたが、ふと突拍子のない考えが頭の中に浮かんだ。
それは、かの聡明な女学生には到底似つかわしくない、いかにも奇妙な理屈であった。
しかし口の達者な彼女が、私に傘を持たぬ訳を問われると不分明な返答をするのを思い返すと、その見解が的を射ているようにも感ぜられるのである。
私の表層意識は今一つ得心の行っていなかったが、深層意識は一先ず答えの出たことに満足したらしく、まもなく私の意識は眠りへと落ちていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その翌日も雨であった。
まだ朝には晴れていたが、天気予報では午後から降り出すようである。
玄関を出て空を見上げれば、分厚い雲がかかって、それが陽を覆い隠しているために周辺は仄暗かった。それが心中に物悲しさを生むのである。
空気は冷えゝゝとして、これは昨日より一層激しく降るかもしれない、と私を不安心にさせるのである。私ばかりではない。これは道行く人全ての意見が一致するところであった。それの証明するように人々の手には傘が握られており、彼らの顔には憂鬱の念が滲んでいた。
しかし授業が終わって学生達の帰る頃になっても一向に雨は降り出さなかった。
これには学校中の人が戸惑い、驚喜したようである。
私は、女学生が四五人で骨牌をやっている教室を後にすると、級友二三人から誘われたのを遠慮して、いきなり大分騒がしい廊下を通り抜けた。
階段を降りると昇降口には数人の学生があって、さて倶楽部の練習をしようか、やれ街遊びに行こうか、と相談している。その手には傘がある。
そしてコンクリートの軒先辺りを見回せば、一人、凛とした立ち姿の女学生があった。
一昨ゝ日の佇まいのままに、背筋をピンと伸ばして、鞄を両手で大事そうにしているのである。
ただ今日は晴れであった。
その一点だけ昨日までと異なっている箇所であった。
「やあ、今日は君が正解だったなあ」
彼女は私の方に向くと、一寸驚いたように目を瞬かせて、可笑しそうに微笑んだ。
「ふふっ、貴方こそ」
私はどうにも気恥ずかしくなって、それを誤魔化すように咳払いを一つして、雨が降るはずの空を見上げた。
分厚い雲の隙間から、わずかに陽の光が射し込んでいた。
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