フゥコ
私の名前はリルクレィト。
父が付けて下さった誇り高き名前です。
父も母も由緒ある血筋です。私はその末裔ですから、父や母の血筋を貶めるような行いを慎まなければなりません。
両親は厳粛さと優しさを併せ持ち、日頃の私を見守って下さいました。二人から学ぶべきものは多く、二人は私の師であり、目標でもあります。
私がまだ年端も行かない子供だった頃、とあるお客様がいらっしゃいました。両親、そして私も、お客様と暫く歓談し、気付けば夕暮れ。お客様は柔らかい微笑みを残してお帰りになられました。
「君と別れる日が来てしまったね、リルクレィト」
夕陽に目を細めていた父が、瞼を閉じながら言いました。
真っ赤な太陽を見ながら、私も同じことを思っていました。
両親と別れる日のことは何度も聞いていました。
覚悟もしていました。
けれど、私の感情は高ぶり、言いようの無い不安が押し寄せ、取り乱しました。
母は、そんな私の頬に優しくキスをしてくれました。何も言わず、ただひたすら、私への慈愛を惜しみなく注ぎ込んでくれました。
私達が二度と会えなくなることを知っているから。
「リルクレィト、これから先、私達が君に与えられるものは何も無くなる。悲しいことではあるけれど、誰も避けることはできないことだ。持っていきなさい、お母さんがくれた身体を。誇りなさい、私が与えた名前を。君の最期に寄り添えるものがあるとするならば、その二つだけなのだから」
※
両親と別れた私が暮らし始めたのは、お客様の家でした。いえ、もうお客様ではありません。私の家族となる方々です。
新しい家族は、私のことを『フゥコ』と呼びます。こうなることは父から聞いていたので、落ち着いて対応できました。新しい家族は、私の名前を知ることができません。私のことをあだ名で呼ぶ以外の方法が無いのです。
新しい家族は二人います。二人は自分たちのことをパパ、ママと呼んでいるので、それほど時間をかけずに、私も、パパ、ママと呼ぶことに慣れることができました。
パパもママも、とても優しい人です。父と母のような荘厳さはありませんが、まるで春の柔らかな陽射しのような暖かさを感じることができます。
パパとママの家には、たくさんのお客様がいらっしゃいます。初めてお会いするお客様であれば、パパとママが私のことを紹介したあと、私もご挨拶申し上げます。
「いいこですね、初対面でも全然逃げませんね」
「ありがとうございます。えぇ、親バカですが、賢い子だと思います」
「名前は、なんて言うんですか?」
「楓子といいます」
「フーコちゃん、女の子ですかね?」
「はい」
※
パパとママの家で暮らすようになってから数年経ったある日のこと、三人のお客様がいらっしゃいました。そのお客様に応対したパパとママの様子はいつもと違い、とても緊張しているようです。三人のお客様は、どの方も必要以上に大きな声で話されるので、私は萎縮してしまいました。
「借りたら返す! 常識ですよね!? どんな教育受けてきたんですか!?」
「明日ですよ! 無理なら分かってますよね!? とりあえずこの家のもん全部売り払ってくださいよ!」
「そこの猫ちゃんも! 高いんでしょ!? コンテストで優勝して良かったですね!」
パパとママは蹲り、頭を床に付けています。
私は不安に支配されて、部屋を飛び出しました。
暗闇の中、自分が隠れている場所も分からないままじっとしていると、ママの声が聞こえます。私を呼んでいるようです。
物陰から顔を出して様子を伺っていると、ママが現れました。
ママは今までに見たことがない表情をしながらケージを持っています。
尻尾の先まで寒気を感じた私は一目散に逃げ出しました。
ママの叫び声。
パパの怒鳴り声。
無我夢中で逃げた先は、隣家の縁の下でした。
それからは何も考えられずに、外が明るくなって暗くなる様子を二回見届けました。
空腹に耐えかねて家に戻ると、裏庭の物置の扉が開いています。物置の中には、何袋ものキャットフードが置かれていました。どの袋も開封されていました。
物置での生活はキャットフードが無くなるまで続きました。
時々誰かの声が聞こえてきましたが、パパとママではありませんでした。
※
真っ暗な夜。
父の言葉を思い出しながら目を瞑っていると、私のあだ名が聞こえてきました。
まだ、私の最期ではないようです。
目を開けると、眩しい光に包まれた私の体は浮き上がり、心地良い暖かさを感じました。
「楓子……本当にごめんなさい……」
目の前に現れたママの頬。
流れ落ちていく涙にキスすると、ママの深い慈愛を感じました。
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