猫に恨みはないけれど、涙滴る川になる
荒井 文法
ミィコ
僕の名前はイルヴェライザス。
お母さんが付けてくれた名前。
僕の一生の宝物。
お母さんとは、おっぱいを飲まなくなった頃に会わなくなっちゃった。お母さんはおっちょこちょいだから、きっと迷子になってしまったんだと思う。いつか迎えに行ってあげるんだ。お母さん喜ぶだろうなあ。
お母さんに会わなくなった頃から、親切な人が僕に食べ物をくれるようになった。とても有難かったけれど、こんな狭い所じゃなくて、僕を外に出してもらえれば、もっとおいしいものを採ってきてあげられるのに、っていつも思ってた。
その親切な人も迷子になってしまったみたい。お母さんと一緒に、いつか迎えに行ってあげよう。まだお礼を言えてないんだ。
今、僕がいる場所には、親切な人がいっぱいいる。同じ後悔をしたくないから、時々おいしいものを採ってきて、親切な人たちにお礼を言ってる。
すっごく喜んでくれるんだよ!
すっごい大きな声で感謝されるんだもん!
また採ってきてあげよっと。
ひとつだけ不満があって、その親切な人たちみんなが、僕のことをミィコっていうあだ名で呼ぶんだ。お母さんが付けてくれたイルヴェライザスっていう名前があるのに……。
僕の宝物をみんなにも大切にしてほしいから、「ミィコ」って呼ばれたときには、イルヴェライザスだよって教えてあげてるんだけど、全然直してくれない。しょうがないから、最近は、そのミィコってあだ名でも反応してあげてる。悪い人たちじゃないからね。
今いる親切な人たちは四人で、パパ、ママ、おねえちゃん、ゴウ、っていう名前みたい。面白い名前だよね。
ママとおねえちゃんは、よく喋ってるんだけど、パパとゴウが声を出してるとこを、あんまり見たことない。パパとママは時々じゃれあってるから、仲は良いんだろうけどね。そういえば、パパとママがじゃれあってるとき、毛皮が無くなっちゃってるのが不思議なんだけど、次の日には元に戻ってるから、ま、いっか。
ゴウは誰とも話さない。みんなのことが嫌いなのかな。ママやおねえちゃんに呼ばれても返事すらしないんだ。あだ名で呼ばれてる僕でさえ返事してるのにね。
ゴウは、時々、僕のことを急に持ち上げて、背中を撫でてくる。突然だとびっくりするからやめて、って何度も抗議してるんだけど、ゴウの撫で方はいつでも優しくて悲しいもんだから、最後には、ま、いっか、ってなっちゃう。
「あんた、勉強はいいの?」
ママがゴウに話しかけてる。最近何度も目にしてる光景なんだけど、ゴウが返事する気配はない。ママに何度呼ばれても、ゴウはピカピカする不思議な板をじっと見つめてるだけで、何も答えない。
「余裕あるねえ、二浪くん」
おねえちゃんが言った。
『にろう』ってなんだろう?
ゴウはゴウじゃないのかな?
ゴウもあだ名を持ってるのかな?
「勉強する気ないなら就職しなさいよ。予備校いくらだと思ってんの」
夕飯のお皿を洗いながら、ママが大きな声で言ってる。
ゴウは静かに立ち上がって、僕を乱暴に持ち上げながら、自分の部屋に入った。
抗議の声を上げている僕を無理やり太ももの上に押さえ付けて、僕の背中を撫で始めた。
「……っせえんだよ……」
ゴウの撫で方がいつもよりもさらに優しくて悲しくて、とりあえず、ゴウが背中を撫で終わったら、あのしょっぱそうな水を全部舐めてあげようと思うんだ。
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