3
三月になってから、彼は脱走した。その手順はこうだった。
まずそんな話もそぶりも、欽助にさえも見せないことだった。そして、荷物も風呂敷ひとつにまとめた。まとめる際も人目をはばからず、ただの身辺整理に見せかけた。もっとも着の身着のままに上洛して来たので、荷物とてほとんどなかった。
非番の日にただの外出のふりをして、彼は屯所を出た。しかしそんな荷物を持って出たとあれば、戻らぬとなるとすぐに脱走が疑われる。
彼は荷物を洛南の東寺の伽藍の下に隠し、その日は何気ない顔で帰営した。そしてひたすら、次の非番を持った。彼にとって、辛くて長い受難の日々だった。
次の非番の日がようやく来た。その日は初夏ともいえるほどの、素晴らしい快晴だった。その青空を見た時、もはやこれ以上こんな屯所にとじこめられているわけにはいかないと、彼は痛感した。
弥市は欽助とともに外出した。うまい具合に欽助の方から誘ってくれた。無論欽助は、弥市が脱走しようとしているなどということは知らない。時に桜が満開である。非番の隊士は皆こぞって花見に出かけていた。こんな時に営内残っている方が不自然だ。
鴨川沿いに出たあと、弥市は欽助と別れる口実をずっと考えていた。そんな弥市を気づかって、欽助は歩きながら顔をのぞきこんで来た。
「どうしたんだい?」
それがいいきっかけだった。
「実は舟戸さん」
「ん?」
「それが…」
弥市はわざともじもじして見せた。もちろん芝居だ。欽助にここで脱走のことを打ち明ける気はさらさらない。
「できてまってなあ」
「何が?」
「いや、実は、その、拙者も京に」
「ああ、女か。祇園か? それとも島原か?」
「いや、東山の麓なんやけど、実は今日も待っとるんやて」
欽助は大笑いをした。嬉しそうだった。
「そうか、そりゃ俺みたいなのが誘ったりして悪かったな。わかった。野暮は言わねえ。行ってやれ、この野郎!」
笑いながらも肘でつつく欽助に、弥市はわざとらしくはにかんで見せた。
欽助と別れたあと、弥市は一人で五条大橋を東に渡った。それから東大路を下って七条大橋を再び西に渡り、河原町を南下した。あとは九条通りを東寺へ向かうだけだ。これなら夜になって帰らなくてもただの遅参ということになり、そう思われている分だけ時間がかせげる。
歩きながら弥市は、自分が欽助についた嘘のことを考えた。その嘘が本当になるような女の一人や二人は、この町で作っておきたかったような気もする。少し虚しい嘘だった。しかし思い直せば、そんな女がいたらこんなに容易に新選組を脱走して、京を去ろうなどと思わなかったかもしれない。同時に、山南と角部屋の格子窓の内外で手を握り合って涙にくれていた女のことを、彼は思い出した。自分はそんな女はいなくてよかったとつくづく思った。
東寺で隠していた荷物を取ったあと、彼は一目散に伏見へ行き、大坂行きの舟に乗った。そして舟が岸を離れる時にもう一度、京の方を見た。もう二度と来ることもあるまい。かつては希望に燃えてこの町に来たものだった。それがこのようなかたちで離れることになろうとは彼は思ってもいなかった。
大坂に着いてから、弥市は大きく息を吸い込んだ。
もう引き返せないところまで来てしまったと実感する。自分が取り返しのつかない、とてつもないことをしでかしてしまったという思いに、体が震えてきた。
それでも行かねばならない。思考は繰り返すが、もう引き返せないのである。
同じ上方でも、京と大坂はずいぶん違う顔をしている。しかしまだ安心はできない。京の新選組にとってここは、まだまだ行動範囲内なのだ。一刻も早くここもあとにするに限る。日はまだ高い。
行くべき方向は当然京とは反対、西の方角だ。郷里の大垣からはますます離れることになるが致し方のないことで、それがいちばん安全であるし、またかねてからの計画どおりだった。
店で菅笠を買った。ちょうど支給金をもらったばかりだったので、懐は温かい。
笠をかぶった時、彼は旅人になった。旅人には行く先がければならない。実は彼があらかじめ予定していた行き先は長州であった。新選組の宿敵、絶対に新選組の手が及ばない所、それは長州だ。
屯所で脱走の計画を立てながら、長州へ行こうと彼が思いついた時には、過去の幾多の脱走者――そのすべてが未遂に終ったが――は、なぜ徒らに故郷へ帰ることしか考えなかったのか、このような妙案を思い浮かべなかったのかと、彼はいささか優越感にひたったものだった。
そんな計画を実行に移すべく、彼は廻船問屋に駆け込んだ。何としてでも便乗させてもらうつもりだった。今はそれがいちばんよい方法だ。陸路だといつ追っ手が追いつくかもしれないし、だいいち彼には道中手形がない。
「頼もう!」
「へえ」
細身の手代が出てきた。店の土間に立ったまま、弥市は居丈高に言った。
「長州までの船に便乗させて頂く。異存はござらぬな」
板についた武士ことばに自分ながら酔っていた弥市は、同時に長州と聞いて手代の眉が動くのを見た。弥市のなりが浪人風体である。しかも左頬には誰が見ても明らかな刀傷が立派についている。
一瞬しまったと彼は思った。長州の国元に入り込もうとしている尊攘浪士だと思われたようだ。ところが急に手代は相好を崩し、そして声を落とした。
「しかし壇那。長州は今や正義派が一掃されて、俗論派が政治堂を握っとるいいますがな」
今度は弥市が眉を動かす番だった。手代は長州の内情に詳しい。もしかしたら町人ながらに、尊皇の志のある者ではないかとも察せられた。しかし用心深く弥市は黙っていた。話題が頭の上を飛んでいる。下手にしゃべるとボロがでる。
「そりゃまあ、どうしてもって言わはるんでしたらな、半時ほどあとに兵庫までなら船は出ますし、そのあと明日の朝には、兵庫から長州への直行便も出ますさかい、それで行かはったらよろしゅうおまんな」
「かたじけない、頼む」
もし相手が自分を捕らえる側に
「さ、はよ、はよ」
手代はせかす。これは間違いないと、弥市は自分に言い聞かせた。
「かたじけない」
弥市は懐から金子を出した。手代は両手で拒んだ。
「勤皇のお志のおありにならはるお方から、おあしはいただけまへん。お力にならせて頂きますことが、皇国の御ためにもなりますさかいな」
弥市の耳元で、手代は小声でささやいた。これは本物だという実感が、弥市の中にあった。
昨日までの自分なら、このような勤皇びいきの廻船問屋の手代がいたら、これは手柄物と真っ先に屯所に通報して、追っ手を差し向けただろう。おそらくただの手代ではなく、尊攘浪士が身を変えた姿かもしれないと詮索もしたに違いない。しかし今は立場が違う。手代の好意に甘えようとしている。手代は自分を逆に、尊攘の志士と思いこんでいるようだ。
おかしなものだと、弥市は思った。今朝まではそうであったのに、今ではもうすでに新選組隊士ではないことを、弥市は強く実感した。
それでも船に乗るまでは一応警戒していたが、弥市の緊張とは別に果たして船は何ごともなく出航した。そして日もすっかり没し、それでもかろうじて暗くなる前に、兵庫湊へと到着した。
ここは楠木正成の故地である。今や自分も表面は勤皇の志士をとりつくろっているのだから、このような地に逗留するのもよいだろうと彼は思った。またそれが、禁忌を犯しているという密かな快感にもなっていたのである。
湊に上陸したものの、弥市はやはり旅篭には泊まる気になれなかった。もう充分西に来ているのでまさかとは思うが、万が一追っ手が来たら、彼らはまず旅篭をしらみつぶしに調べるであろう。だから念入りに旅篭は避けた。しかし半分は、泊まる勇気がなかったというのも事実だ。
町外れに、大きな伽藍を誇る寺院が見えた。西本願寺の別院という表札が出ていた。弥市はその門を叩いた。
寺の高い天井を暗闇の中で見つめながら、弥市は屯所のことを考えていた。今頃はもう自分の脱走に気がついているだろうか。あるいはまだただの遅参と思われていて、組長の額に青筋を立てさせているだろうか。しかし明日になれば、確実に大騒ぎとなるはずだ。
とにかくここは屯所ではない。屯所以外の所で寝るのは、入隊以来はじめてだ。しかも今朝目覚めたのは屯所でだった。弥市はこの一日に、何年もの年月と同じくらいの長さを感じた。なぜなら、ここは完全に別世界だったからだ。今や別世界にいることを、彼ははっきりと確信できる。彼が浪人風体をなして長州へ行くと言っただけで、気持ち悪いくらいに僧は愛想よく泊めてくれたのだ。
とにかく疲れた。体は重く、いつしか布団の中へと沈んでいった。
追っ手の先頭は意外にも欽助だった。顔に殴られたあざがある。兵庫湊で、あと一歩で船に乗るという時に、「待てーッ」の声がかかった。
こんなに早く追っ手が来ようとは思わなかった。しかもなぜ、自分が西に向かったということがわかったのか。そんな疑念を思い浮かべている暇もなく、白刃が一斉に弥市に向かって抜かれる。その浅葱色の隊服たちの後ろには、斎藤がいた。
「岩田弥市、屯所まで御同行願う!」
「い、い、いやだ!」
せっかくここまで逃げてきたのだ。こんな所で捕まりたくはない。斎藤が刀を抜いた。応じて弥市も抜く。
最初に斬りかかって来たのは欽助だった。顔の殴り傷は、昨日彼が自分とともに屯所を出たので、自分の脱走の責任が彼に帰せられたためだろう。済まないという思いが、一瞬弥市の心の中に浮かんだ。
鍔ぜりあいとなった。欽助は目配せをした。逃げろというのだろう。しかしまわりはすでに、六、七人の隊士に囲まれている。もはやこれまでかと思った。白刃の輪は弥市にじりじり、じりじりと近づいていった。
弥市は思いきり布団から跳ね起きた。全身汗だくだ。雨戸のかきままから明るい陽ざしが、すでに室内に差し込んでいた。
大きく弥市は息を吸った。全身にしかかっていた重圧が一気に下の方に落ち、身が軽くなったような気がした。その後も依然呼吸は荒かった。
室内を見渡した。屯所ではなく、まぎれもない寺院の庫裡の一室だった。
生まれてはじめて覚える安堵感。見ていた夢が夢でよかったとこれほどまでに思ったことはなかった。
しかし実際に船に乗り込むまでは、まだまだ安心はできない。丁重に寺を辞して船着き場へ向かうまで、彼は緊張とともにあたりを見まわし続けた。まさに深谷を網渡りする思いだった。
大坂の問屋が書いてくれた書き付けを見せると、今度もすんなり船に乗せてくれた。再び彼は安堵感に胸をなでおろした。おそらくもう屯所では、とっくに彼の脱走に気がついているだろう。しかしまさかひとりとして、彼が長州行きの船に乗っているとは思いもよるまい。
ただ欽助にだけは、本当に済まないと思った。今朝見た夢のように、実際に欽助は自分の脱走の件で責めを受けているかもしれない。充分あり得ることだ。自分のために欽助に迷惑をかけてしまった。しかし確かに申し訳ないことだったとは思うが、とにかく今は仕方のないことだったと割り切るしかない。
船は帆に風をいっぱい受けて、湊をあとにした。これで完全に上方とは訣別だ。波も穏やかな春の瀬戸の海を、船は一路長州へと向かって行った。
途中寄港は室、鞆、広島の三ヶ所だった。広島からは弥市と同じような浪人風体の男が乗り込んで来た。気にはなっていたが、なぜだか気がひけて、弥市は話しかけられずにいた。
四日後には、左右から陸地が迫る海峡へと、船は入っていった。
「馬関海峡でござるよ」
船べりで海が横に流れる陸地を見ていた時、不意に話しかけられて隣を見ると、例の浪人が弥市の脇に立っていた。
「馬関海峡? すると馬関は」
「あれがそうじゃあ」
海峡は川のように細く続き、先で曲がっているので向かうの外海は見えない。右の陸地に山の麓に町が見えてきた。浪人はそれを指さしていた。
「あれが馬関?」
弥市は目を細めた。目前にある大地は、もうすべて長州領なのだ。海峡を見おろして、ちょっとした山もあったりする。そうでなくても海峡の左右とも山がちだ。それらすべてが、明るい陽ざしの中で輝いていた。
美しいと弥市は思った。新選組にいた頃は、長州といえば鬼畜の集まりのように思っていた。いや、思わせられていた。しかし長州は、実際はこんなに美しい土地だったのだ。
弥市があまりに夢中に陸地に見入っているので、浪人は首をかしげながら顔をのぞき込んできた。
「ひょっとして貴殿は、長州ははじめてでござるか」
「あ、ああ、いかにも」
「どちらまで?」
「いや、あてはないのですが、とりあえず萩の御城下まではと」
浪人は総髪の鬢を風になぜかせながら、弥市の顔、特にその頬の刀傷をじっと見ていた。そして得たり顔にうなづくと、また風景の方に視線を戻した。
まもなく船は馬関の町に着いた。浪人とは人の流れに任せて、自然と分かれるかたちとなった。
町に一歩降り立ち、弥市は深呼吸をした。春の陽ざしが明るく降り注ぎ、道行く人の顔もこころなしか輝いているように見えた。
解放されたのだと、弥市は大声で叫びたかった。事実彼はこの瞬間に、すべての緊張感から解放された。新選組脱走に成功したのだ。自由の大地に立ち、自由を満喫しているこの時の彼の顔は、町の人以上に光を放っていた。
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