駆引き
黒っぽい上下のセパレートユニフォームに赤の差し色、それが扇ヶ浜高校の未原芽衣だ。他を圧倒するような貫禄は、陸上を知らない愛斗でも感じ取れた。同様に美咲も感じているだろう。
「続いては高校女子100m競走、1組目の出発です」
会場が一気に緊張と静寂に包まれる。
一on your marks
芽衣がスタートの体勢に入るのが1番遅かった。顔を上げ、真っ直ぐゴールラインを見つめた。
芽衣が視線を下げる。
一set
会場に号砲の音が響く。
芽衣は一瞬で抜け出た。他を寄せつけない圧倒的な速さ。まるでそれは、軽自動車とF1が競っているかのようだった。愛斗は驚きのあまり、応援の声も出なかったが、美咲は一生懸命に声を出して応援していた。
そんな中芽衣は、後ろを振り返り自分の勝利を確信すると60m辺りから力を抜き、流し始めた。
それでも堂々の1着。会場はどよめいた。
ゴールした芽衣はスタンドにいる愛斗と美咲に気づき、満面の笑みとともに両手で大きく手を振った。
愛斗はそれに片手で応える。対して美咲は、芽衣を超える笑顔と手の振りの大きさで応えていた。
予選通過タイムも全体で1番の芽衣は、決勝でどのような走りを見せるのか。愛斗は期待でいっぱいだった。
途中、男子の1500mの予選が行われた。そこには見たことのある男がいた。日高岳だ。
彼も陸上部だったことをすっかり忘れていた。いつもクラスでは騒いでいるムードメーカーだが、トラックに立っている岳はまるで別人だ。抜けていた髪の色もしっかり黒くなっているが、そういったことではなく、まず表情が違った。一スポーツマンとしての自覚を携えた者の表情、気迫。これから勝ちに行く人間そのものだった。
1500m競走がスタートした。岳は位置取りの争いの後、中盤からやや後方といったところについた。1500mは長いようであっという間に終わる。レベルの高い競技会なら尚更だ。
1人、他を寄せつけない走りをしている選手がいて、まるで1人だけ違う競技をしているかのようだ。そこから少し離れたところの集団に岳はいて、必死に食らいついている。
順位の変動はあまりない。
そのままラスト1周の鐘が鳴る。ペースが少し上がる。
「岳ー!行けー!」
聞いたことある声が自分の友達を応援している。声がした方を見ると千代間夏海が岳を応援していた。1人で来ているみたいだ。
夏海に気づかれるように、あえて愛斗はワントーン声を上げて美咲に負けないくらいの大きさで友達を応援した。
「行っけぇー!岳ー!」
ちらりと横を見ると、さすがに気づいたようで、夏海がこちらを見ている。
しかし、お互い構わず岳へ一心不乱に声を送り続けた。
最後の直線に入った。このままの順位だと決勝進出は厳しい。
その時、岳の動きが変わった。最後の力を出して1人2人とゴール前で抜き去り、決勝進出圏内でゴールした。
一瞬の出来事で、思わず笑ってしまった。
「なんだよ今の、強すぎだろ」
「すごいね最後の」
美咲は素直に感心しているようだ。
岳もすごい奴だったんだな。愛斗もようやく岳に
賞賛の念を覚えた。
美咲とレースについて話していると、名前を呼ばれた。
「あ、千代間さん」
「時田くんも来ていたんですね」
「あぁ、芽衣に来てって言われて」
「未原さん、速いですね。さすがの実力です」
夏海は美咲に目線を移し
「あ、妹さんですか?」
と尋ねた。
「そう、妹の美咲」
「可愛らしい妹さんですね、羨ましいです」
美咲の照れが、隠れきれずに表情に出ている。
「岳もすごかったなー」
愛斗が岳のことについて話し出すと夏海は少し斜め下に視線を下げて言った。
「えぇ、素晴らしい走りでした。かっこよかったです」
芽衣の決勝はお昼すぎなので、3人はスタンドで競技を観戦しながら昼食をとることにした。
時田兄妹は行きのコンビニで買ってきた物だったが、夏海はお弁当を自分で作ってきていた。いつにも増して美味しそうだ。学校じゃない分、凝る余裕があったのだろうか。
「夏海さんのお弁当美味しそう!」
美咲はすっかり夏海に懐いてしまった。
夏海は笑いながら
「何かあげましょうか?」
と聖母のような優しさで美咲に言った。
「え、いいんですか?」
我が妹ながらあざとい。
「えぇ、いいですよ」
美咲は夏海の弁当箱から春巻きを1本、自分の割り箸で取って口に運ぶ。
一言
「美味しい!」
と言って嬉しそうに1本の春巻きを食べ終えた。
「本当、美咲ちゃんみたいな妹が欲しいです」
それはどういった意味なのかとは、愛斗は疑問にも思わなかった。なぜなら美咲を可愛い「義妹」だと心から思っているから。
「じゃあお兄ちゃん、夏海さんと結婚しなよ」
美咲の一切悪意のない純粋な発言に、驚きと気まずさが、さざ波の押し寄せた。
夏海は普段からあまり表情を変えない。真面目な顔をしているか微笑んでいるか。どんな心境でその表情を選択したのかは分からないが、今は後者だ。
その笑みが自然のものなのか人工のものなのか、はっきりとは分からない。しかし、愛斗は普段の夏海から察するに、それは自然のものだと推測した。
夏海は恋愛に疎い。だからこれは美咲という年下の女の子を愛でるような笑みなんだ、と。
「やめろよ美咲。千代間さんに失礼だぞ」
「私は全然いいですよ」
またしても笑っている。逆にこの単調さが、彼女が考えていることを汲み取る妨げになるのだ。
千代間夏海、実にミステリアスだ。
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