選択肢
「お兄ちゃんどうしたの?ニヤニヤして。気持ち悪いよ」
家族3人で食事をしているとき、美咲に指摘されてしまった。ニヤついている理由は、もちろん茜のことだ。
「なんでもないよ」
あえて、美咲になんでもなくないと分かるような口調で言う。
母は特に何も知らないのだろうが、とりあえず微笑んでいる。
「ふーん」
目を細めてじっと見てくる。美咲もなんでもなくないのだとよく分かっているようだ。
「美咲、今度の日曜暇か?」
「え、うん。特に何もないけど」
「よし、じゃあ空けとけよ」
「何で?」
美咲は首を傾げて愛斗に訊いたが、愛斗の応答はなかった。
今や、あんな事件があったということを感じさせないくらい元の兄妹の関係に戻っている。たぶん、普通の兄妹よりも仲はいいだろう。ただ、何事もなかったように振る舞っていてもどこか心の中であのことを思い出してしまう。
一生その記憶と戦うのか?
いや、もしかしたら記憶が戻った時、その記憶もろとも、失われるかもしれない。そうなったら一体僕はどうなってしまうのか。
金曜日の放課後、曇り空の下、扇ヶ浜の生徒は部活動に勤しんでいた。ボールがバットに当たる音、女子生徒の集団での掛け声、吹奏楽の音、様々な音が響いている。
そんな中でも際立って聞こえてくる破裂音があった。陸上部だ。日曜日に迫ったインターハイ予選に向けて最終調整中なのだ。地区大会は日曜日と月曜日に渡って行われる。
芽衣たち陸上部は、ピストルを打ってスタートの練習をしていた。
未原芽衣は、インターハイ出場も夢ではない短距離選手で、県でも期待されている選手の1人だ。
一set
と言う合図の後、火薬の弾けた轟音とともに芽衣と他3人が一斉にスタートする。すぐに芽衣は1人飛び出て、一着で30メートル地点に設置してあるマーカーを越えた。
マネージャーからタイムを聞き、その場に座り込んだ。
「これなら地区大会は余裕かな」
芽衣は独り、そんなことを呟く。誰もその言葉を気にとめず、芽衣の発した音は、意味のないものとして曇天の空へと消えていった。
食事を終え、自分の部屋に戻った愛斗がスマホを確認すると芽衣からメッセージが届いていた。
日曜日、陸上の大会なんだけど来てくれないかな?予定があるなら全然いいんだけど
といったものだった。
日曜日は美咲と出掛けようと思っている。美咲にはすでに、予定を空けとけと言ってしまった。
断るべきか。
ただ美咲にはどこに行くとは伝えていない。
本当なら、2人でアドベンチャーワールドに行こうと考えていた。愛斗が記憶を失くした時に行こうとしていた場所だ。
彼女である茜と行くべきなのだろうが、あいにく愛斗にはそこまでの勇気はなかった。だが、彼女と行こうとしていた場所を知りたかった。そこで、一悶着あった美咲と行って、いい意味で仲を深めようと計画を立てていたのだ。そして今の自分での思い出を増やそうと。
けれど、美咲と芽衣の大会に行ってもいいのかもしれない。
美咲も連れて行っていいか?
すぐに既読が付いた。愛斗はどう返答が来るのかと、画面に目が釘付けだった。しかしその釘は一瞬で抜かれた。
いいよ!むしろそっちの方が嬉しい!
ふぅ、と愛斗は胸を撫で下ろした。9割ありえないだろうが、万が一断られてしまった時、面倒臭いことになるのは分かっていた。今までの愛斗なら何も考えず妹とアドベンチャーワールドに行っていただろう。だが、今の愛斗は違う。少しなりとも女心というものを知り、更に学ぼうとしている。芽衣か美咲、その2択、もしくは他の選択肢を選ぶかもしれないが、それは必ずどちらかを捨てなければいけない。愛斗が選べたのは、誰も傷つかない道だった。
愛斗は、美咲に行き先を伝えなかった自分を心の中で賞賛した。全て自分でプランニングし実行した。そしてイレギュラーにも対応した。
これが今の「時田愛斗」なのだ。
ありがとう、美咲に伝えとく
うん、お願い。場所はまた後で
「美咲ー、日曜日は芽衣の陸上の大会に行くぞ」
「あ、そうなんだ…」
美咲の部屋に入り、愛斗がそう告げると、美咲は何か言いたげな様子を醸し出していた。
愛斗は迷わず訊いた。
「どうかした?嫌か?」
「ううん、嫌じゃないよ。行きたいんだけど」
「だけど?」
「友達に遊ぼうって誘われちゃったの」
なんだ、そんな単純なことか。なら友達を優先したらいい。先客の兄を断るのに気が引けるのだろう。
そうなのだろうと愛斗は考えていた。
だが
「お兄ちゃんと芽衣ちゃんの大会見に行きたい」
それが美咲の本心だった。
一瞬、美咲の言っていることと予想が食い違い、戸惑った。自分を選んでくれたのはありがたいが本当にそれでいいのか、友達と遊んだ方が楽しいはずだと思い
「いいのか?友達と遊ばなくて」
と聞き直した。
しかし美咲は、兄と芽衣の大会に行くの一点張りで意志を曲げようとしない。それはそれでいいのだが、いつまでもお兄ちゃんっ子でいられても困る。愛斗は、そのうち距離も取らないとな、と感じていた。
来たる日曜日。愛斗と美咲は、競技場のスタンド、ゴールライン付近にいた。
いよいよ女子100m予選だ。
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