第19話「姉がまたもや人じゃない」

 僕は言葉を失っていた。

 そして、本能的に察した。

 まだ言葉もない時代から、人類の遺伝子DNAはこの恐怖を知っている。身体の全ての細胞が、畏怖いふ畏敬いけいの念に震えているのだ。

 原初の怪異、恐るべき神話の存在。

 そう、それはまさしく……人の姿を駆りたドラゴンだ。

 その名を僕は、呟く。


「嘘だ……楓夜フウヤ、お姉ちゃん?」


 

 身の丈2m程もある、龍のような魔人……それは間違いなく、楓夜お姉ちゃんの顔をしていた。僕の視線を受けて、彼女は怯えるように顔を背ける。

 だけど、牙と角のある顔は、あの優しい姉の面影おもかげが確かにあった。

 そして、突然現れた楓夜お姉ちゃんを、震えながらシュウが指差す。


「な、なんだ……俺は、知らないぞ。高定タカサダ貴方あなたは……なにを、作っ――」


 精密機械のようなカーボノイドたちが皆、固まっていた。ああした存在にも、この恐懼きょうくが伝わるのだろうか? 僕を組み伏せる少女型の零号ゼロごうも、ピクリとも動かない。

 そして、楓夜お姉ちゃんから低くうなるような声が響く。


「お前が……愁。パパの……昔の」

「まっ、まま、待て! お前はなんだっ! どういうカテゴリの遺産なんだっ!」

「……わたしは、許さない……許さな、いっ!」


 けだもののような雄叫おたけびが響き渡る。

 あっという間に、校舎の窓ガラスが全て吹き飛んだ。

 周囲の生徒たちも、悲鳴を叫んで耳を塞ぐ。

 僕はただ、それをぼんやりと見ているしかできなかった。

 そして、混乱しながらも平静を自分に呼びかける。

 姉は男の娘オトコノコだった、兄だった。

 姉はロボットだった、メカだった。

 でも……姉が怪獣だったというのは、なかなか受け入れがたい。何故なぜならそこには……正体がなんであれ変わらない、優しい家族の心が感じられない。

 今の楓夜お姉ちゃんは、姉の顔をした別人……いな、人ですらなかった。


「愁……お前は、殺ス! リンちゃんの敵はっ、殺ス!」

「ひっ、ひいいっ! なっ、なにをしてる、俺を守れ! たてになれ、カーボノイドどもぉ!」


 楓夜お姉ちゃんは、ゆっくりとカーボノイドたちに近寄る。

 そう、まるでスローモーションのように見えた。

 だが、誰もその中で動けない。


「なんだ? ……そうか、遅く見えてるけど、速いのか!?」


 カーボノイドたちは、季央キオねえを組み敷いたままで固まってる。彼らは、このゆるやかになった時間の流れさえ感じていないようだ。

 僕の研ぎ澄まされた感覚が、かろうじてそれを認識できる。

 認識できるが、僕はその速度領域では動けない。

 だから、肉体と脳が楓夜お姉ちゃんのはやさを処理しきれていないのだ。

 あっという間に、楓夜お姉ちゃんはカーボノイドたちを蹴散けちらした。鎧袖一触がいしゅういっしょく、振り下ろした拳が土砂を巻き上げ、大地を割る。

 大半のカーボノイドが、季央ねえもろとも吹き飛ばされた。

 そして、僕を拘束する重さが背から消える。


「グッ、邪魔をおおおおおお! するなああああああっ!」


 零号だけが、楓夜お姉ちゃんの動きについていけるようだ。

 あっという間に楓夜お姉ちゃんへと肉薄し、密着の距離で両手を突き出す。零号のてのひらが二つ、ドン! と空気を震わせた。なんだか昔、ゲームで見た中国武術のような技だった。

 だがわずかに身を揺らしてのけぞったが……楓夜お姉ちゃんは平然としている。

 そして僕はまた、零号から他の個体とは違う違和感を拾った。

 今、自分より強い敵を見て、彼女は驚いているように感じた。ただの殺人マシーンであるカーボノイドのはずが、やはりどうやら零号だけは特別なようだった。


「人形がああああああ! 消えろっ!」


 太い尻尾の一薙ひとなぎで、零号は校舎の壁に叩きつけられた。コンクリートがひび割れ、その中へと埋まってしまい、身動きが取れなくなる。

 僕はなんとか立ち上がると、急いで楓夜お姉ちゃんに駆け寄った。

 止めなきゃ……こんなことをしていたら、楓夜お姉ちゃんは姉ではなくなってしまう。彼女が望んで共にしてきた、僕たちの日常が壊れてしまう!

 だが、しなる尾で地面を叩きながら、翼を広げて楓夜お姉ちゃんは愁に迫った。


「愁……もう、死ね! パパの回りをうろちょろしてた、虫ケラが」

「なっ、ななな……零号っ! なにをしている、さっさと来い! 俺を助けるんだ!」

「もう黙れ。いや、いい……二度と喋れないようにっ、潰ス!」


 僕は急いで、両者の間に割って入った。

 愁を守りたかったんじゃない。

 楓夜お姉ちゃんを守りたかった。

 この男は迷惑で、しかも鬱陶うっとうしいし大嫌いだ。でも、そんなくだらない人のために、これ以上楓夜お姉ちゃんに姉を辞めてほしくなかった。

 いつもの優しい、ちょっと危ないけどぽわわんとしたお姉ちゃんに戻ってほしかった。

 けど、両手を開いて全身を広げた僕に……楓夜お姉ちゃんが腕を振りかぶる。


「お姉ちゃんっ! 楓夜お姉ちゃんっ! 駄目だ、こんな奴は殺す価値なんてない! 僕は大丈夫だから――ッ!」


 ブン! と爪が振り下ろされた。

 まるで断頭台ギロチンのような一撃で、空間ごと削り取るような威力だ。空気が切り裂かれて、ギリギリで避けた僕の着衣が細切れになってゆく。

 物理法則すら無視したかのような、デタラメな強さだった。

 けど、そんな楓夜お姉ちゃんは……へたり込んだ僕を見下ろし、目をしばたかせる。


「あ、あれ……麟ちゃん、誰に? ねえ、今誰に……誰にやられたの? 血が出てる!」

「え? あ、ああ……大丈夫、かすり傷」


 半裸の僕は、胸に手を当ててみる。

 ざっくりと斬られて、あかい血があふれていた。

 不思議と痛みは感じない。

 あまりに鋭利な断面が、楓夜お姉ちゃんの爪の数だけ五本きざまれていた。


「え、あ、やだ……わたし? わたしが、今、やった? よね? 嘘……嘘っ!」

「落ち着いて、楓夜お姉ちゃん。大丈夫、ちょっと切れただけだから」

「殺すのは麟ちゃんじゃなくて、そっちのだよね? それを、どうして……やだ、わからない。……ヒッ! あ、ああ……麟ちゃん、見た? わたしの姿、本当の姿を――」


 事態が静止した、その瞬間だった。

 間隙かんげきをつくようにして、壁から脱出した零号が駆けつける。彼女は、腰を抜かして震える愁を担ぎ上げると、そのまま高くジャンプして消えた。

 その気配が、市街地の方へと過ぎ去ってゆく。

 ようやく周囲が静かになったが、大きな大きな姉が震えながら後ずさった。


「う、ああ……ああああっ! やだもぉ、終わりよ! 終わりだよぉ! バッドエンドまっしぐらだよおおおおおっ!」


 楓夜お姉ちゃんが、背の大きな翼を羽撃はばたかせる。

 一瞬でその姿は、吹きすさぶ暴風をばらまいて消えた。

 飛び去るその背を追いかけようとして、僕は咄嗟とっさに立ち上がる。

 けど、伸ばした手の先にもう、その姿は見えなくなっていた。

 力なく立ち尽くす僕の背を、厳しい声が叩く。


麟児リンジクン、追って! 楓夜のあれは……ボク、ちょっと心当たりがある! けど、今はそんなことより、楓夜を追いかけて!」

「季央ねえ」

「いいから、早く!」


 珍しく季央ねえが、激した声で僕を押し出す。

 そうだ、あのまま楓夜お姉ちゃんをひとりにしてはいけない。怒りに我を忘れて、獣のように全てを破壊しようとしていたお姉ちゃん。その力はまるで、伝説にある龍の化身けしんみたいだった。

 そして、その自分の力に自分でおびえていた。

 それは、突然バケモノみたいな力を持った僕と同じ気持ちだと思う。


「……ちょっと、行ってくる」


 ちらりと見たら、季央ねえは裸を両手で隠している。大勢のカーボノイドになぶられたからか、あちこち酷い怪我をしていた。

 けど、真っ直ぐな瞳で僕にうなずく。

 だから僕も、静かに心を落ち着かせた。

 今なら、飛べる……べる。

 根拠のない確信が、僕の中から未知の力を引っ張り出す。


瞬間移動テレポーテーションっ! 楓夜お姉ちゃんのところにっ!」


 そう、んだ。

 行けると思ったら、以前勝手に発動した瞬間移動を自分で制御できた。理由はわからない……けど、不思議なことに突然、頭の中にやりかたが生まれた感じだ。

 ゲームの実績が解除されたような、突然僕の脳が拡張されたような感覚。

 気付けば僕は、光となって粒子に分解され、全く見覚えのない場所に再構成されていた。

 そこは鬱蒼うっそうしげる森の中で……眼の前の巨木からすすり泣く声が聴こえる。


「楓夜お姉ちゃん? ……そこに、いるんだね」


 僕はゆっくりと、立派な枝振りの大樹に近付く。その影に回り込むと……大きな大きな龍がひざを抱えていた。それは、変貌してしまった僕の姉だった。

 そっと手で触れると、サラサラの髪はいつもと同じだ。

 ゆっくり顔をあげるお姉ちゃんは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


「麟ちゃん、わたし……見ちゃったよね? わたし、バケモノなんだよぉ」

「そんなことないよ、楓夜お姉ちゃん。僕を守ろうとしてくれたんだよね?」

「うん……でも、気がついたら、夢中で……また、頭の中が真っ白になって」

「ありがとう、楓夜お姉ちゃん。さ、立って。一緒に帰ろう。家族の待つ家に」

「無理だよぉ……もぉ、駄目。終わりたよぉ」


 お姉ちゃんは、うおーん! と声をあげて泣いた。それでも僕は、うろこに覆われた手を取り、彼女を立たせる。そして、見上げるような長身を抱き締めた。身長差がありすぎて、抱き締めるっていうより抱きつく形になった。

 むにんと重い二つの実りが、丁度僕の頭の上に覆いかぶさってくる。


「終わってなんかないよ。楓夜お姉ちゃんも僕も、バケモノじゃない。僕たちは、バケモノなんかじゃないんだ」

「麟ちゃん……わたしのこと、怖くないの?」

「怖くないよ」

「じゃ、じゃあ――」


 おずおずと、硬い指が僕に触れてくる。

 その手は今も、震えていた。

 冷たく尖った爪で僕を傷付けぬように、そっと楓夜お姉ちゃんが抱き寄せてくれる。鱗は硬いけど、ふさふさの体毛はその奥にいつものぬくもりを感じた。

 こうして僕は、また一人の姉の正体を知った。

 でも結局、姉は姉で、僕の大事な家族。

 だから、楓夜お姉ちゃんが泣き止むまでずっと、互いの体温を交わし続けるのだった。

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