第6話 ヤナセにとっての家というもの
「パパも一応教師なんだけど、―――職場結婚だったからね。結構多いのよ。そういう結婚したひとって。あの世界って」
「らしいね」
「パパは頭はともかく、ママ程に要領は良くないから――― うん、ちゃんと夜私の起きてるうちには帰ってくるんだけど。でもその時間まで、そうそう私もごはん待っていられないじゃない。お腹空くし。何か頼むにしても、何処かに食べに行くにしても。それにそんなこと毎日続けられやしないじゃない」
「そりゃそうだ」
「ね。だから覚えたの。私そういうのは結構いい勘持ってたみたいね。だいたい本見たら一発で作れたわ。パパはママさんのより美味しいって言ってくれるし」
「なるほどねえ」
必要に迫られて、か。そして自分のことをずいぶん長く喋ったと感じたのか、今度は彼女の方から攻撃してきた。
「ヤナセのママも働いてるんでしょ?」
「まあね」
「料理しないの?」
「しない」
ワタシは短く答えた。だがその短さがどうもサエナの表情に微妙な影を落としたから、ワタシは慌ててフォローを入れた。
「って言うか、うちのお母さんは、サエナのとこのお母さんと違って、ハウスキーパー入れても平気な人なんだよ」
「そうなの?」
「まあね。必要なら、あまり手段は選ばない人だから」
へえ、とサエナは大きく目を広げてうなづく。
「ただし、ワタシに関しては何するにせよ勝手にしろ、って人だから、昼代はくれるけど、料理しろとは言ったことがないね」
「キャリアウーマン、っていう感じ?」
「まあそんな感じだね」
「パパは?」
「ずーっと海の向こう」
*
扉を開けた時、「ただいま」と最後に言ったのは、いつのことだったろう?
サエナがうちの母親のことを「キャリアウーマン」と言ったのはそう間違いではない。
ばりばりと自分の好きな仕事に立ち向かう女性、という意味ではそれは当たっている。
ただ、彼女のその単語から一般的に想像させられるビジネス分野でのばりばりとはやや異なる。
うちの母親は、物書きだった。
それも恐ろしくオールマイティな物書きだった。
おそらくサエナに名前を言えば、博識な彼女はそれを知っているだろう。文芸だけでなく、ルポルタージュやエッセイでも結構名の知られた作家だ。
別にTV化や映画化されるといったベストセラーを出すという訳ではないが、その世界で結構なキャリアをずっともっているのだから、やっぱり相当なものなのだろう。
ワタシがそれでもこの学校で美術しかキョーミが無いくせに何とか留年もせずに成績を維持できているのは、この人譲りの頭のせいだとは思っている。
だがどうもそれ以外の部分は父親のほうを受け継いだらしい。
父親は写真家だ。
母親とは仕事の上で知り合ったという。海の向こうの仕事で一緒になり、そのまま無茶苦茶な速さでくっついて、これまた無茶苦茶な速さで別れたのだという。
ワタシは二人が別れて、母親が帰国してから生まれたらしいが、この二人は今でも友達だ。いや下手すると、それ以上の関係でもあるかもしれない。時々仕事も一緒にするらしい。ワタシも時々会う。
別れた理由を聞いても、二人とも首をひねるだけだ。そもそも何でくっついたのかにしても首をひねるのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
ワタシは彼との間に、あまり親子だという実感は湧かないが、それでもああ血がつながっているんだな、という瞬間はある。
例えば海を渡って久しぶりに会って、散歩する公園の緑が木漏れ日に輝く瞬間。例えば飛び立つ鳩が真っ青な空を一気に埋め尽くす瞬間。建物の壁が、強い太陽の光に強烈なコントラストをつける瞬間。
そう言った一瞬のものに惹かれて目が釘付けになる、そんな動作にお互い気付いて苦笑する。
そんなところがひどくワタシ達は親子なんだなあ、と思ってしまう。
一方の母親には、そういう意味で似た所はあまり見あたらない。
似ていないから、彼女は時々ワタシの反応を面白がる。
ごくたまに、土曜の朝とかに朝御飯を一緒にしたりすると、あんた何、バタの上にチーズのせるの、なんて目を大きく広げたりする。
美味いんだよ、どぉ? と勧めると、彼女は一応試すのだが、結局はそのまた上に、はちみつを垂らしてほおばったりしている。ある意味、いつまで経っても子供のような人だ。
このひとは別に料理とか家事とかが嫌いな訳ではない。ただ、時々そういった現実的なものがどっかに行ってしまうのだ。
それでもまだ物書きで食えるようになるまでは良かったらしいが、それが本業になり、それで稼ぐ必要が出てきてしまったら、歯止めが効かなくなったらしい。
パンの上のはちみつは、気がつくとお皿の上にたらたらと流れていたりする。
もっともワタシはそういう母親は嫌いではない。そういう時の彼女はひどく綺麗なのだ。美人という訳ではない。だが、時々奇妙に綺麗に見えるのだ。
とはいえ、そういう彼女に文句をつける人は無論居る。
例えば親戚。
母親の姉は、ひどく常識のかたまりの様な人だったから、家事一切をハウスキーパーに任せ、ワタシには食費や雑費だけを渡し、放ったらかしにしている状態を見ると、そのたびに嘆息する。
そうだ思い出した。
小学校も半分くらいから、ワタシはただいまを言った記憶はない。
でも伯母が情けないと嘆く程、ワタシは自分が可哀相だとは思ったことはない。
母親も父親も、ワタシのことを思っていない訳じゃないのだ。それは別に口に出す訳じゃあないが、何か肌で判る。
彼等は何か、自分の中でもどうにもならない何か、に心の大半を占められ、支配され、そのために生きている類の人間だから、彼等をつき動かすその部分に居座ることは、肉親だろうが何だろうが無理なのだ。
だけどそれ以外の、僅かに残された部分。
それがワタシという血を分けた娘に対して注がれているのは判るから、ワタシはそれでいいと思ってしまうのだ。
無論全くそれで悩んだことが無いとは言わない。
悩まなかったら嘘だ。どうしようもなく自分がおざなりにされているような気分になったことも少なくはない。
だが、ワタシ自身、自分の中に彼等と同じく、どうしようもなく止めどもない何かを見付けてしまった以上、彼等をどうこう言うことはできない。
そして二人とも、ワタシがそれを見付けたことには何も言わない。
結局そういう家庭なのだ。
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