第4話 雨はまだ降り続いていた。
傘はあるの? と目覚めた彼女はワタシに訊ね、無い、と短く答えると、じゃあ少し待ってて、と彼女は言った。
「待つ?」
「担任から頼まれてることがあるの。すぐにそれを済ませるから、駅まで一緒に帰らない?」
「頼まれていること?」
「明日一番に配布するプリントの印刷を手伝って欲しいって」
「馬鹿か?」
ワタシは思わず眉を寄せた。
「誰だよその担任って。ああ四組ならアリガか」
記憶を引っぱり出す。確かまだ二十代も前半の女だ。
「よく知ってるじゃない」
「ありゃあんたが外部生だから使いやすいと思ってるんだよ。放っておけばいいのに」
内部持ち上がり生は、教師のそういう私用にも近いことは、絶対に聞かない、という習慣がある。それは上級生から伝統的に伝えられることである。
教師は教師を仕事でやっているんだから、生徒は生徒でそれ相応に対する。
授業は真面目に聞く。
これは礼儀と、生徒という「仕事」をやっていることとして。
その代わりとして、教師はこちらに干渉しないし、こちらも向こうの私用を聞く義理はない。
それは別に何かに書かれている訳じゃあない。だが一種の伝統のようなものだ。
教師のあずかり知らぬ、生徒達だけの持つ伝統。
それを守らない者は、別段言葉で責められる訳ではないが、ひどく静かで、何気ない視線が贈られる羽目となるのだ。
ただそれは、外部生には時々当てはまらない。
特に高等部から入ってくる者は、曖昧な人間関係を背負った外の慣習をそのまま持ち込むから、シビアな内部生に疲れた若い教師がそのあたりに付け込むのだ。
するとサエナは言った。
「別に親切って訳じゃあないから、安心して」
「ふん?」
ワタシは首を傾げた。
「別に敵を作ることはないと思うだけよ。私決して味方は多くないし」
ふうん、とワタシは腕を組み、片眉を上げた。
「あんたはそういう方でも頭のいい奴のようだな、サエナ」
「あら、私の名前、知ってたの? ヤナセ」
「学年首席の名くらい聞くだろう?」
すると彼女は困ったような顔でこちらをやや上目づかいににらむ。やや頬が染まっているように見えるのは光線の加減だろうか。
「こんなに簡単に取れるとは思っていなかったから、つい本気出してしまっただけよ」
「言うねえ」
「期待していたのよ? もう少し。この学校の程度」
「まあ確かに悪くはないけどね」
「だけど何? うちのクラスで別にこっちはそんなに難しいこと喋ってる訳じゃないのに」
「例えば?」
「だから、例えば映画の話しているじゃない。こないだ、―――をレンタルで借りてきたから、その話していたのよ」
「ああ、あれはワタシも見た。結構評判になったね。歌とか」
「うん。ワタシもいいなあ、と思ったから、ちょっとそのあたりひととおり調べてみたのね。でこないだ、最近見た映画がどーとかという話になったから、切り出して、監督の話とか、他の作品とか、そっちの方へどんどん話広げようとか思うじゃない。そうするともう駄目」
「駄目」
彼女は手を広げる。
「そんなややこしいこと知らないって顔で笑うだけ」
「ふうん」
「私はだから、も少し、突っ込んだ話をしたいのだけど」
なるほどね、とワタシは苦笑した。
それはそうだ、とも。普通は、いちいち調べない。
ワタシは調べる側の人間だった。
勉強とは縁はない。
興味のあるものはそうするが、後はどうでもいい。
興味のあるものだったら、映画だろうが絵画だろうが小説だろうが雑誌だろうが、とことん調べる。それが面白い。
ただそれをクラスメートに話すことはしない。長年彼等とつき合っていれば判る。もしも一歩学校を離れた場所で、そんな活動をしていたとしても、この学校に長年居る連中は、それを口にはあまり出さないのだ。
長年居続けるための、それは無意識の行動だったのかもしれない。
そこがワタシの、この学校の連中の好かないところであり――― 所詮は自分にも当てはまるところなのだ。
「そりゃあサエナ、あんたは話す相手を間違ってる」
嫌気がさす。
「そんな気がしてきた。じゃああなたならいいの?」
「試してみたらどう?」
それもいいわね、と彼女は笑った。ワタシは自分の中で何かが痛むのを感じていた。
雨はまだ降り続いていた。
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