決して彼女には気付かれてはいけない。
江戸川ばた散歩
第1話 時間限定の特権
しゃっしゃっ、と細かい音だけが耳に届く。
大きな机の上に、片膝を立てて、ワタシはF6のスケッチブックをやや立て気味にして2Bの鉛筆を走らせていた。
芯はやや長めに削ってある。その方が描きやすい。
親指と人差し指で軽く持ち、対象物の光と影だけをひたすら追っていく。決してその時、線でその輪郭を描こうとしてはいけない。
ものをかたまりとして捉えるんだ、と顧問は言った。間違っていないと思う。少なくともワタシがものをそういう目で全部平たく見られる類の人間であった以上。
バケツも花も石膏像も人間も、描く上では全部同じ、光と影で構成されるモノ。デッサンをする時には、その感覚が大切。
そして「結果として」紙の上には、何故か光と影だけでない何か、がくっきりと現れてくるのだ。
それが不思議で、そして楽しい。絵を描くことに取りつかれたのは、この感覚を知ってからだった。
もっともこの時間は、デッサンには決して向かない。
窓からはもう斜めにオレンジ色の光が差し込んできている。光が一定であるのが、石膏像のような静物を描く時には望ましい。だからアトリエは北向きの窓であることが望ましいらしい。
だけどそんな上等なことを、この準備室に求めるのは間違っている。
他の美術部員と違ってワタシがここに居るのはワタシの勝手だし、ワタシの勝手でやっていることに、誰かの助けなど求めてはいけない。
それに。
ワタシは描く対象物を見る。
真っ直ぐな長い髪、化粧なんてしなくても整った顔、すんなりした身体。
テレピン油のにおい、カンバスにイーゼルにケントブロックやカルトン、絵の具やら木炭やら大小の筆、時には制作途中の木彫のくず、これから生徒達の目にさらされるまだ開いていない石膏像、そんなものでごった返している美術準備室。
静かな喧噪。斜めの天井が奇妙に似合うこの古い校舎の最上階。よく見ると、天井近くには綺麗な曲線が所々に描かれている。新校舎よりワタシはずっとこっちの方が好きだ。たとえ窓の立て付けが多少悪かろうと。
その片隅の机と椅子で、すうすうと実に気持ちよさそうに、アイボリー色のカーディガンを掛けて彼女は眠っている。
敬愛なる元生徒会長どのは、ここでしか、うたた寝なんぞしないのだ。
こんな特権、誰が逃せようか?
だがそんな特権は時間限定だ。彼女がここに来て、ワタシがここに居て、そして彼女が目覚めるまでの、ほんの僅かな時間。これはワタシだけの特権だ。
だって時計がもう。
ぴぴぴ、と軽い電子音が響く。ワタシはさりげなくスケッチブックのページを変えると、彼女の背をぽんぽんと叩く。いつもの約束。時計が鳴ったら起こしてね、ヤナセ。
「―――ん」
サエナはそれだけですぐに反応する。そして長い髪をかき上げながら、ひどく重そうに机に伏せていた身体を起こす。いつもの通り。
「……もう時間?」
「あんたが掛けたんだよ」
ん、と一度肩を上下させると、彼女は部屋の隅に置かれている流しに向かった。水の音。顔を洗っている気配。他の女子生徒と違って化粧なぞしないから、こんなことができる。
「んで、今日はまた、あんた何がある訳?」
「……あれ」
顔を拭きながら、彼女は窓ごしに、向かいの窓を指す。
「ああ」
そこには生徒会室があった。ついこの間まで、そこには彼女の席があった。そして今は、彼女同様首席の後輩が、その席についている。
「卒業生の謝恩会の相談ですって」
「ああ、そういう話」
「ああ、ってヤナセ、あなた美術部も何かやるんじゃないの?」
「どうだったかなあれ――― あったような気もするけど」
「全くあなたは」
彼女は肩をすくめる。そして見せてよ、とワタシのスケッチブックをのぞき込んだ。何これ、とその後に言葉は続く。ワタシはあれ、とビニルのかかった石膏像を指さした。
「何、まだ開けてないじゃない」
「あれは、かかってるとこを描くのがいいの」
「どうして?」
「石膏像が石膏像そのまんまだと、人間を描いてるような錯覚を起こすことがあるからさ。時々ああやって、アレはあくまで物体なんだ、って気分にしなくちゃあ駄目」
「そんなもの?」
「そんなもの」
そしてまた彼女はよく判らないわ、と肩をすくめる。机の上にほったらかしにしておいたカーディガンを取って制服の上に羽織る。
よく判らなくて当然だ。判られてはたまらない。
「ま、絵は描くよ」
「展示するの? こないだの文化祭の時のように、大きな絵」
「ああいうのは、滅多にしないよ。だいたい時間がかかる。謝恩会用、に描く気はないし……」
「受験勉強もある?」
「まあね」
もっともこの場合の受験勉強は、うちの学校の大半を占める進学組のものとはやや違う。芸大・美大関係に対する「受験勉強」である。
「まああなたのことだから、無理はしないとは思うけど」
「そういうのは、ワタシがあんたに言うべきことだけど?」
やあだ、と彼女は笑った。
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