第40話「新たな出会いと夏の匂い⑥」

 彼女の問いかけに俺は言葉に窮した。

 正直、恋愛相談など受けるタイプではなかったし、まして相手は生徒だ。教師という立場も考えると軽々しい言葉を紡ぐこともためらわれた。

 だから、俺は正直に答えることにした。


「わからん」


 俺の言葉に馬淵は露骨に肩を落とした。


「せんせーでもわかんないんだ」

「すまんな」

「そっか」


 またしばし、二人の間に沈黙が満ちた。うつむいてしまった彼女に何か声をかけるべきだろうか。それとも、何も言わず、そっとしておくべきだろうか。

 俺がそんなことを考えていたときに、彼女は不意に立ち上がった。


「あー、もう、ムカつく!」


 急に飛び出した大声に俺は目を丸くする。


「なんで、先輩はしぇりーのかわいさを解ってくれないんだー!」


 まるで山上でやまびこでも起こそうとしているような声で彼女が叫んだ。


「ばかー! あほー!」


 甘たっるく子供っぽい声で叫ぶ彼女が、一瞬、小さな子供に見えた気がした。


「ばか……」


 最後はほとんど聞こえないくらいの小声で悪態をついた後、彼女はゆっくりとその場に座りなおした。

 一しきり大声を出して、多少心が落ち着いたのか、馬淵はやや落ち着いた表情になっていた。そして、淡い微笑を浮かべて、こちらを振り返って言った。


「せんせー、ありがと。なんか愚痴ったらすっきりした、ちょびっとだけだけど」

「そうか」

「あ、あと、シャワーも貸してくれてありがと」


 そんなことを言いながら、彼女はどこか作ったような笑顔を見せた。

 そして、少しは余裕が戻ってきたのか、普段、学校で会ったときのような軽口を叩きだした。


「ていうか、せんせー、こんな家に住んでたんだね。全然知らなかった。あは、インスタに上げていい?」

「駄目に決まってるだろ」


 最近のSNSに関する問題はシャレにならない。学校でも一時間授業をつぶして、SNSの危険性を伝える講習会を開くくらいだ。

 馬淵は仔細に俺の家を観察するように周囲を見渡した。

 ……なぜか嫌な予感がした。


「せんせー、ここに一人で住んでるの?」

「そうだな」


 本当はひよちゃんと住んでいるんだが、そんなことは口が裂けても言えない。


「うーん、それにしてはなんか違和感が……」

「違和感……?」


 俺は背中に冷や汗をかく。


「このおうちって二部屋でしょ。なんかこっちの部屋と向こうの部屋の境目がはっきりしているっていうのかな? 二人で住んでいて、プライベートをきっちり分けている部屋って感じがするんだよね」


 いったい、何を見てそう言っているのかは解らないが彼女の言っていることはあまりに正鵠を射すぎていた。普段、俺とひよちゃんはこの狭い1LDKを二分割して暮らしている。食事のときやくつろぐときはリビングに二人で過ごしているが、それ以外のときは俺が一部屋を使い、ひよちゃんはリビングで寝泊まりしている。ゆえに、狭い二部屋をきっちりと区分する生活習慣が滲み出てしまっているのだろう。

 そこで馬淵は露骨に口の端を歪めてにやついた笑みを見せた。


「せんせー、もしかして同棲してんのー?」


 こいつ、意外に鋭い……。

 動揺は隠したつもりだったが、それでも馬淵は何かを読み取ったようだ。


「え、マジなの?」

「違う」

「え、どんな人、教えてよ、せんせー」

「違う」

「誰にも言わないからさー」


 俺の周りにまとわりつく馬淵をあしらう。

 というか――


「近い」

「え?」

「近づきすぎだ、馬淵」


 馬淵は話をしている内にだんだん、俺のようにすり寄って来ていた。そして、いつの間にか、俺の眼前に顔を近づけていた。長い睫毛の一本一本が解るくらいの距離。まるで幼い子供のように彼女は俺の顔を覗き込んでいたのだ。

 俺の言葉に彼女は目を細める。


「なに、せんせー、しぇりーのこと意識してるの?」

「してない」

「あはは、かわいー」


 彼女はあくまで生徒で、俺は教師。きちんと立場を意識して彼女に接しなければならない。だが、それでも、何を言われても腹を立てないほど、俺も人間ができているわけではなかった。


「馬淵、あまり大人をからかうな」


 俺は少し強い口調で言った。

 すると、彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せた後、すぐに笑みを作って言った。


「あはは、怒っちゃった?」


 その笑い方はどこか演技臭かった気がした。

 なぜ、この娘はそんな表情を作るのだろうか。

 そんなことを考えていたためだろうか、俺が馬淵の行動に反応が遅れたのは。


「……せんせー」


 目の前に居たはずの彼女が一瞬視界から消える。

 それは彼女が俺に向かって身体を預けた結果、起こったことだった。

 馬淵は俺の胸に頭をうずめ、腕を背中に回した。

 彼女は俺に抱き着いていた。


「おい、馬淵!」


 彼女の柔らかな身体の感触。湿った彼女の髪からは、自分と同じシャンプーの匂いがした。


「じゃあ――せんせーが慰めてよ」


 その言葉は、蠱惑的な響きで俺の耳を叩いた。十六歳の小娘が出すような甘ったるいそれではなく、そこには酸いも甘いも嚙み分けた大人の色気のようなものが幽かに混じっていた。

 だからこそ、それは余計に質が悪かった。

 俺はすぐに彼女を振りほどこうとした。

 そのときだった。


「え?」


 玄関の方から誰かの声がした。

 俺は慌てて、振り返る。


「なんで……?」


 そこに立っていたのは、ひよちゃんだった。

 図書館に行くと言っていた彼女が戻ってきてしまったのだ。

 最悪のタイミングで、ひよちゃんに見られたことで、俺の思考はショートし、喋ることも動くこともできなくなってしまう。すぐにうまい言い訳を見つけられればよかったのだが、それすらままならなかった。

 馬淵は俺の胸から顔を上げ、ひょこりと顔を出して、俺の背中越しに、ひよちゃんの方を見た。

 そして、にやりと笑って言った。


「へえ、せんせーの愛人ってひよりんだったんだ」

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