七時三十五分の目覚まし時計

逢雲千生

七時三十五分の目覚まし時計


 ジリリリリ……ジリリリリ……ジリリリリ……


 今朝も同じ時間に目覚まし時計が鳴った。

 何分も鳴り続けると止まり、それ以降は次の日の朝まで一度も鳴らない。


 七時三十五分。

 それが僕の目覚める時間だった。


 僕が目覚ましの音に気づいたのは、住んでいたアパートからマンションに引っ越した次の日だ。

 就職を機に一人暮らしを始め、大学時代に出来た彼女と同棲するためにアパートを借りたけれど、彼女はその部屋を気に入らず、何度も引っ越したいと言ってきた。


 あの頃は働き始めたばかりで、給料が少なかった僕にそんな余裕は無く、同じく働き始めたばかりの彼女も引っ越せるだけの収入は無かった。

 しばらく我慢して、お金が貯まったら引っ越そうと約束し、小さな風呂とトイレ付きの古くて安いアパートに三年は暮らしていたのだ。


 壁は薄かったが、アパートの住人は良心的な人達ばかりで、駄々をこねていた彼女も生活に慣れると楽しそうだった。

 いずれは結婚したいと考えていたので、将来のためにきちんと貯金をしていたのだけれど、彼女との別れは意外な形で訪れた。


 彼女が浮気したのだ。


 それだけならば、話し合おうと言えただろう。

 しかしその相手が問題だったのだ。


 彼女の浮気相手は同じアパートの住人で、しかも妻子持ちのサラリーマンだった。

 顔はそこそこ良い人で、挨拶が爽やかな大人の男性という印象だったけれど、奥さんと子供は普通の感じで、夫の顔以外にこれといって特徴が有る人達では無かった。


 普通の仲睦まじい夫婦と元気いっぱいの子供という感じだったので、僕もいつかはあんな家庭を持ちたいな、と微笑ましく見ていたというのに、彼女はその間に割り込んだ。

 二人は生活時間が似ていたため、相手の家族が寝静まった頃を見計らって、外のホテルで逢っていたのだ。


 僕は夜勤が多く、残業も多かったため彼女の変化に気がつかず、「大丈夫だよ」と微笑む彼女に感謝までしていたというのに、彼女はこれ幸いにと不倫を楽しんでいたのだ。

 誰も気づかないまま二年も続いた不倫が発覚したのは、当然と言えるような意外な形からだった。


 いつものようにホテルで楽しんだ二人は、バレていないという安心感と、気づかれないだろうという油断からか、発覚する半年前から一緒に帰宅するようになっていた。

 それをアパートの住人に何度も見られていて、他の住人達との会話の際にその話が出たことで、噂が広まり発覚してしまったというわけだ。


 当然、相手の奥さんは暴れた。

 見た目からは想像もできないほどの罵声を浴びせ、浮気した夫を責め立てていた。


 この時になって初めて気づいたのだが、浮気相手の部屋は僕達の真下にあり、毎日のように喧嘩する夫婦の声と子供の泣き声が聞こえてくる。

 あまりの剣幕に、噂した住人まで息を潜めて暮らしていたほどで、奥さんと似たような立場になってしまった僕に対しても、彼はずっと怯えていたくらいだ。


 浮気がバレた事で、夫も彼女も大人しく家に帰るようにはなったけれど、だからといって簡単に許せるほど軽い過ちではない。

 僕も彼女と話し合ってみたが、彼女は泣いて謝るだけで、話す事といったらありきたりな言い訳くらいだった。


「彼のことはずっとかっこいいなって思ってたの。だけど、こんなことするつもりは無かったのよ。本当に愛してるのはあなただけよ」


「あの人から誘ってきたのよ。仕事の帰りに偶然会って、何度かお茶するうちに口説かれて、それでそのまま……」


「淋しかったのよ。あなたはいつも家にいないし、いても相手してくれないじゃない」


「ねえ、愛してるわ。だからお願い。捨てないで」


 真下から響く声も、似たような話ばかりだった。


「彼女の事は、親切で良い子だなと思っただけだ。はじめはお茶だけだったけど、だんだんその気になってしまって……。いや、だから本気じゃなかったんだって」


「君が一番に決まってるだろう! 彼女とは遊びだったんだよ。なあほら、仲直りしよう。子供のためにまた夫婦に戻ろうよ」


「誘ったのはあっちからだよ。俺は関係ない、むしろ被害者なんだ。待ってくれよ、家を出てくなんて言わないでくれ」


「おい、なんで荷物まとめてるんだ。……冗談だろ? なあ、おい!」


 そのまま、奥さんは子供を連れて出て行った。

 夫の方はアパートに残ったけれど、住人からの視線は冷たい。


 それは当然だろう。

 だって彼は不倫したあげく、奥さんを裏切ったのだから。


 僕の彼女だってそうだ。

 どうにか機嫌をとろうと僕にすり寄る彼女は、不倫相手と同じくアパート内で孤立していた。


 それだって当然のことだ。

 だって彼女は浮気したあげく、一つの家庭を壊してしまったのだから。


 最初は仲直りしようと思っていた。

 仲直りして、最初からやり直そうと。


 けれど無理だった。

 彼女は遊びだった、本気じゃないと言いながら、一人になった浮気相手と関係を続けていたからだ。


 発覚後は同情からだったんだろう。

 最初はお互いに本気じゃなかったんだろうけど、責められて居場所を失ったことで、歯止めが利かなくなってしまったのかもしれない。


 一階に住むホステスさんから、二人が関係を持ち続けていると教えられ、僕はもう無理だと思い彼女に黙って部屋を出た。

 大家さんに事情を説明すると、不機嫌な顔で「これだから最近の若い奴は」と文句を言われた。


 アパートは解約しなかったが、家賃は彼女に払わせるということで話はまとまり、終始不機嫌だった大家さんは「新居が決まったら挨拶に来い。新居祝いくらいは渡してやる」と言って自分の部屋に入ってしまった。

 その時一瞬だけ見えた顔は、少しだけ悲しそうだった。

 大家さんのことは苦手だったけれど、その言葉と表情で少し泣きたくなった。


 新しい入居先が決まるまで、しばらくの間は友人を頼った。

 未婚で暇を持て余していた一人に快く受け入れてもらい、久しぶりに悩むことなく朝を迎えることが出来たときは嬉しかった。


 結婚資金用にと貯めていた分があったので、一人暮らしで立地が良く、少し広めの間取りで、マンションの部屋を探し始めると、意外にも選択肢が多いことに驚いた。

 利用する駅から少しくらい遠くても良いと言うと、担当者が次々と空き物件を提供してきたからだ。


 その中で最も条件が良かったのが、今のマンションだった。


 最寄り駅に歩いて通えるし、セキュリティも高い。

 スーパーは少し遠いけれど、通りの向かいにコンビニがあるため、特に問題は無い。


 部屋も一人暮らしには少し広いと思ったけれど、これから新しい彼女が出来たり、あるいはペットを飼ったりした時にはちょうど良い広さになるだろう。

 夜勤もあるため、家を空ける時間が多い僕には条件が良すぎる部屋だった。


 さっそく引っ越すと、同じ階に空き部屋が多かった。

 僕の両隣は誰もいないし、静かすぎる同じ階に住んでいるのは、僕ともう一人だけだった。


 下の階も上の階も満室なのに、なぜこの階だけ人がいないんだろうと思った。

 けれど住み始めてすぐに、それが毎朝必ず聞こえる目覚ましのせいだとわかり納得した。


 毎日欠かさず聞こえる目覚まし時計。

 どこから聞こえてくるのかというと、不思議なことにそれがわからないのだ。


 何度も何度も音の聞こえる方向を探ってみても、右から左へ、上から下へと場所が変わり、移動しているような錯覚に見舞われたこともある。


 唯一同じ階に住む住人は、まだ暗いうちに仕事に行き、昼間に帰ってきているので気にならないようだけれど、僕には良い目覚ましになっていた。


 寝坊しがちだった朝も、今は遅刻を気にせず起きることが出来るし、隣近所を気にしなくてすむのもありがたかったのだ。




 ようやく新しい生活に慣れてきた頃だ。


 いつものように仕事から帰ってくると、マンションの下に人だかりが出来ていた。

 何があったんだろうと人の間を覗くと、女性の白い足が見えた。


「やあねえ。また自殺だって」


 すぐ隣にいた女性がそう言うと、知り合いらしいエプロン姿の女性が「また?」と顔をしかめた。


「だからあの階は止めろって言ったのにねえ」


 彼女達の言葉に顔を上げると、薄暗いマンションに灯りが見えた。

 玄関に面した廊下は外から見える造りなのだけれど、夜九時を過ぎると光が落とされる。

 省エネだと管理人は言っているらしいけれど、それが電気代を抑えるためだとみんな知っていた。


 いつもは薄暗くて不気味なのに、今日は驚くほど明るい廊下では、寝巻き姿の人が何人も玄関から顔を出している。

 自殺したという女性が住んでいた階には警察の姿があり、上と下に住む住人が廊下の手摺りから覗きこんでいるのが見えた。


 そこで気づいた。


「うそだろ……」


 女性が住んでいたのは、自分が住んでいる階だったのだ。


 同じ階に住む人とは今まで一度も顔を合わせたことがないし、生活の時間帯が合わなかったので、結局引っ越しの挨拶が出来ていなかった。

 このマンションの表札は名字だけなので、まさか女性が暮らしているとは思わず、ずっと男性だとばかり思っていたのだ。


 自分が住む部屋の二つ隣に住んでいた彼女は、僕が帰ってくる一時間前に飛び降り、そのまま息絶えたらしい。

 飛び降りる瞬間は誰も見ていないが、落ちた後で犬の散歩から帰ってきた住人が彼女を発見し通報したというのだ。


 発見された時はまだ息があったものの、何をどうすれば良いのか誰もわからず、ただただ苦しむ彼女を見ているだけだったらしい。

 第一発見者となった住人は、けっきょく彼女に何も出来ないまま、黙ってそばにいるだけになってしまったのだという。


 女性が息絶えてから数分後に到着した警察は、蘇生不可能と判断するとすぐに事件性を疑った。

 救急車が到着しても救急車は動かず、警察も遺体をそのままにしているらしいが、このままでは死亡確認ができないだろうと誰かが言った。


 後で調べてわかったのだが、救急車が到着した時点で遺体だとわかると、特別な事情がない限り警察が到着する前に遺体を運んで病院に連れて行くらしい。

 死亡しているという診断は医師にしか下せないため、明かに死んでいるとわかっても、それからの行動を考えて病院に連れて行かなければならないのだという。


 病院以外で死亡した場合、必ず警察に通報しなければならないらしいが、それは事件性を疑っているからだけではなく、家族や発見者、通報者などの潔白を晴らすという意味合いも持っているらしいのだ。


 ドラマや映画のように、複雑な謎が絡み合うということはほとんど無いそうで、それでも警察によって潔白を証明しなければならない部分が必ず出てくるため、知らない人からすれば大騒ぎになるだろう。


 現に、僕もなぜ救急車がいて警察がいるのか意味がわからず、周囲の話を勝手に聞いて情報を得たくらい驚いたのだ。


 幸いにも集まった住人達から、同じ階に住む僕が疑われる事はなかったけれど、人の間から見えた女性の遺体にこみ上げるものがあった。

 吐き気を我慢しながら、一度も会わなかった同じ階の住人が亡くなったという事実に、言い知れぬ不安を抱いたからだ。


 自分が聞かなくても、野次馬として集まった人達が勝手に話し合っているため、女性のことはすぐにわかった。


 死亡したのはたかはしのりさん、三十一歳。

 新聞記者として働いていて、朝は誰よりも早く出勤し、お昼過ぎに帰ってきては暗いうちに出勤するのが日課だったらしい。

 休みがほとんどない仕事であったけれど、とても楽しそうで、時々は違う階の住人と交流を持っていたのだという。


 不思議な出勤時間だと思ったけれど、そうなったのには理由があったらしい。


「ずっと前に聞いたんだけど、ここに引っ越してきてから毎日、きまって古い目覚まし時計が鳴ってうるさかったんですって。それが耐えられなくて、上司に無理言って、出勤時間を変えてもらってたらしいのよねえ」


 同じだと思った。

 僕の場合はちょうど良い時間帯なので気にならなかったけれど、彼女は生活サイクルが合わず悩んでいたらしい。

 それで不思議な出勤時間になっていたようだけれど、なぜ今になって自殺をしたのだろうか。


 立ち入り禁止の黄色いテープ越しに、警備をしていた警察官に事情を説明すると、すぐにマンションへ入ることが出来た。

 念のためにと同行して来た警察官が、僕が住む階にいたスーツ姿の刑事さんに何かを話すと、刑事さんは簡単な挨拶をした後で僕に質問をしてきた。


「失礼ですが、高橋則子さんとはどういったご関係で?」


「……同じ階に住んでいたというだけですけど」


「一度もお会いしたことはありませんか?」


「はい。彼女とは生活時間が合わなかったので、引っ越しの挨拶もできていませんでした」


「なるほど」


 同じ階に住む唯一の住人同士だったこともあり、警察は少なからず僕を疑っているようだ。

 残念ながら、僕は彼女と会ったことは無かったし、知り合いだという証拠も出なかったので、意外にもあっさりと解放されて部屋に戻ることが出来た。


 深夜0時を回っていたこともあり、あれほどいた人達もほとんどいなくなっていた。

 明るかったマンションも、騒ぎが落ち着くと明かりが消され、上も下も薄暗くなっている。


 警察の人から、詳しいことは明日聞くと言われたので、会社を休むことは決まった。

 遅い時間に上司に電話を掛けると、事情が事情だったため、すぐに休みを取ることは出来た。

 けれど上司は事件への関与を疑っているのか、いつもより渋い声で困っているのがわかった。

 

「亡くなった女性とは面識がありませんでしたので、すぐに誤解も解けると思います。夜分遅くに申し訳ありませんでした」


 電話を切ると、急に昔を思い出してしまった。


 現在勤めている会社は二社目で、以前働いていた会社は給料が安すぎたため辞めてしまった。

 元彼女が早く引っ越したいと急かすので、転職に有利な資格を取る時間もなく、慌てて調べた時に偶然見つけたのが今の会社だったのだ。


 出勤時間は不安定だが、その分給料は良く福利厚生もしっかりしている。

 事務系の資格を持っていれば、安全な部署で仕事ができたのだけれど、自分は現場で汗を流しながら働くのが性に合っているのか苦痛ではない。

 それを嫌だと思ったことはなく、上司のイヤミな性格さえ我慢すれば最高の環境だった。


 研修の後に正社員になる事ができたので、元彼女と結婚しても養っていけるだけの収入を得られる算段はついていた。

 あとは引っ越しだけだと安心していたのに、今ではこの有り様だ。


 彼女の存在は同僚に話していたが、別れたという話は友人以外にしていない。

 なので会社では「いつ結婚するんだ」と急かされたりしているので、今回の休みは不本意ながら助かったとも言えるタイミングだった。


 毎日毎日別れた彼女との仲を聞かれ、事あるごとに結婚を急かされる。

 浮気される前であれば嬉しい事だったが、今では苦しいだけの悲しい会話だ。


 浮気されただけなら泣き言も言えただろうが、浮気相手が妻子持ちで、しかも同じアパートの住人だと話せば何と言われるか。


 浮気された理由がはっきりしていないとはいえ、彼女を放ったらかしにしていたような状況は嘘ではない。


 もし「彼女を優先しなかったお前が悪い」と言われてしまえば、僕は自分を加害者にするしかない。

 そしてそんな事を言った人に「そうですよね」と、笑顔を貼り付けて笑うしかないのだろう。


 以前勤めていた会社の先輩で、五十手前で離婚した男性がいた。

 彼は頼れる上司として有名だったけれど、定時で家に帰り休みの日も家庭を優先していたのに、けっきょく奥さんに離婚を突きつけられた。


 離婚の理由は「夫が家庭を顧みなかったから」だというが、噂では奥さんの浮気が原因らしかった。

 しかも浮気した理由が「夫が家にいて息苦しい」「ご機嫌取りされているみたいな生活が嫌だった」らしいのだ。


 彼氏に浮気されて悲しんでいた同僚にしてみれば、奥さんは「贅沢な環境にいる」らしいのだが、どうやら奥さんは夫の甲斐甲斐しさが鬱陶しかったらしいのだ。

 そのくせ仕事で家にいないと「あの人は仕事が大事なんだ」と文句を言いふらしていたようで、そんな話を聞いた僕は「夫婦って大変なんだな」と他人事だった。


 まさかその一年以上後に、自分が浮気されるなど想像もしていなかったのだけれど、今思い返せば彼女からなんらかのサインがあったのだと思う。


 早く引っ越したいという彼女のために、僕は精一杯働いて貯金をしていた。

 結婚式の費用だとか妊娠した後の事だとか、考えられる限りの未来を想像して頑張ったのに、それがアダとなってしまったのだろうか。


 彼女よりも仕事を優先し、ろくに彼女と顔を合わせる事をしなかった。

 それでも大丈夫だという彼女に甘えて、僕は浮気されている事にすら気づけなかったのだ。


 買い置きしてあった缶ジュースで喉を潤すと、ようやく見慣れて来た室内を見回して大きく息を吐く。

 男の一人暮らしらしい、質素で飾り気のない室内は、朝と変わらない状態で僕を出迎えてくれた。


 窓の外はすでに暗く、人の声も物音も聞こえてこない。

 高橋さんが亡くなったことで、この階に住むのは僕だけになってしまった。

 それを淋しいと思うよりも、得体の知れない恐怖が心の奥から這い上がってくる気がしたのだ。


 突然の自殺。

 僕は高橋さんの事を全く知らないけれど、自殺するほどの何かがあったのは確かだろう。


 それはいったい何だったのだろうか。


 ずっと悩まされていたという目覚ましの音。


 それが僕の聞いているものと同じだったとしたら……?


 背筋を何かが這い上がってくるような恐怖を感じ、震えながら自分の体を抱きしめる。


 そもそも、あの目覚ましの音は何なんだ?


 同じ階に住むのは死んだ彼女だけで、時間の合わない目覚ましなどセットしないだろう。


 僕の目覚ましはスマホのタイマー機能で、昔から気に入っているJーPOPの歌だ。


 最近は使っていなかったが、新居への引っ越し祝いに貰った最新の時計には、オルゴールなどが鳴る機能が付いていたと思う。

 警察の話だと、彼女はお気に入りのオーディオ機器にあるタイマー機能を利用していたらしいので、毎回好きな音楽で起きていたらしい。


 なのに、いつも聞こえてくるのは、ずっと昔によく使われていたというアナログ時計の音だ。

 それを同じ階の高橋さんが使っていると思っていたから、警察の話どおりならば、誰もそんな音が鳴る物を持っているはずがないのだ。


 なら、あの音はどこの誰が鳴らしているというのだろう。


 急に怖くなって布団に潜ると、うろ覚えの念仏を唱えながら眠りにつく。

 得体の知れない恐怖が心の奥から湧き上がってくる気がして、きつく目を閉じた。




 朝になった。

 また同じ目覚まし時計の音で目を覚ます。

 昨日は怖かったはずなのに、今はなぜか怖くない。


 いつもと同じ時間に朝ご飯を食べ、時間を見計らって近くの警察署へ行った。

 昨日と同じ刑事がいくつも質問してきたけれど、昨日のような威圧感は無く、おそらく疑いが晴れたのだろうと感じた。

 数十分ほど質問されると、小難しい言葉を並べ立てられた後で他言無用と言われ、僕は解放された。


 マンションの近くまで戻ると、彼女が落ちた場所にはテープが貼られ、立ち入り禁止の黄色が風になびいているのが見える。

 昨日はたくさんいた人が今は誰もいなくて、申し訳程度の小さな花束がいくつか置かれているだけだった。


 お昼だったけれど外食する気にはなれず、通りの向かいにあるコンビニでお昼を買って事件現場に戻ってみると、誰かが置いた花束がさらに積み重なっていた。

 僕がコンビニに行っている間に、誰かが置いていったのだろう。

 色とりどりの花束が風に揺れて、昨日の惨状を唯一残す血の跡だけが花束の理由を教えてくれていた。


 マンションを見上げると、見上げた先には彼女の部屋の玄関が見える。

 刑事さんの話だと、彼女は玄関から部屋を出るとすぐに落ちたらしく、悲鳴を聞いた下の階の住人が、玄関前の廊下の手摺りから覗きこんだ時には、すでに落ちていたらしいのだ。


 僕が住むのは八階だ。

 十二階建てのマンションの上の方にあるため、高さは充分ある。

 上から見ると怖いけれど、下から見上げるとさらに怖い。


 あんな高さから高橋さんは落ちたのかと思うと、尋常ではない状況を想像して気分が悪くなる。

 早く部屋に戻ってお昼を食べてしまおうと現場を去ろうとした時、マンションの出入り口に見慣れた人を見つけた。


けん!」


 元彼女だ。

 やつれたような気がする彼女は、心配そうな顔で僕に駆け寄ると、思い切り抱きついていきなり泣き出した。


「心配したのよ! あなたが住んでいるマンションで自殺があったって聞いたから、私、心配で心配で……。無事で本当に良かったわ」


 涙を流す彼女に冷めた視線を送る。

 僕の視線に気づかないのか、声を出して泣き続ける彼女は、僕に抱きついたまま嬉しそうに笑った。


「ねえ、戻ってこない? 私ね、あのアパートにまだ住んでるのよ。もうあの人とは別れたし、今度こそあなたと幸せになりたいの」


 潤む瞳で見上げる彼女は可愛かった。

 僕が好きになった可憐で優しい彼女は、僕を見て再会を心から喜んでいる。


 彼女の肩に手を置くと、嬉しそうに微笑む姿は変わらない。

 長い髪はきちんと手入れされているし、化粧だって僕好みの薄いけれどしっかりしたものだ。


 浮気が発覚した頃には、浮気相手の好みだったという濃い化粧と派手な髪型でいたのに、今はそれをやめたのか質素な出で立ちになった。

 彼女の表情に後ろめたさは無くなり、笑顔は輝いている。


 幸せだった頃に戻った気がする……。

 そう思ってしまうほど、彼女は以前に戻っていたのだ。


 期待に満ちた彼女の目。

 僕は期待通りに微笑むと、彼女の肩をつかんだ。


「ーー帰って」


 自分でも驚くほど低い声が出た。

 驚く彼女を冷めた目で突き飛ばすと、


「二度と顔見せんな」


と言って、自分だけマンションに入った。

 驚いていた彼女もついてきたけれど、僕はもう耳を貸すつもりは無い。


 もう一度やり直そうと思ったのに、それを拒んだのは彼女の方だった。


 浮気相手が可哀相だと言って、もう一度関係を持ったのだって彼女の意思だろう。


 本当に僕を好きならば、なぜあの時にこうしてくれなかったのかと恨んだ。


 まだやり直せると信じていた頃にこうしてくれていれば、僕もきちんと許すことが出来たのに、それを裏切ったのは彼女なのだ。


 エレベーターに乗り込む彼女を突き放して、一人だけ上へ向かうと、もうどうでもいい気分になる。


 毎日毎日、どうしてだ、どうしてなんだ、と彼女を責めてきた。

 もう二度と会いたくないと思いながら、早く謝りに来て欲しいと願ったりもした。


 それなのに彼女は来てくれなかった。

 つまりは、それが彼女の答えだったのだろう。


 一度だけ荷物を取りに戻った時、彼女は部屋にいなかった。

 その代わり聞こえてきたのは、下の階で愛し合う二人の声だった。


 その時にだ。


 ああ、これで終わりなんだな、と思ったのは。


 相変わらず不機嫌だった大家さんに挨拶を済ませる間も、二人の声は途切れなかった。

 大家さんがうんざりした顔を見せたから、おそらく僕がいなくなってから、ずっとあの調子だったのかもしれない。


 まさか僕が戻ってくるとは思わなかったのだろう。

 浮気相手も何を考えているのか、仕事には行かず彼女と毎日愛し合っているようだった。


 これで本当にお別れだと、大家さんから新居祝いを受け取りアパートに背を向ける。

 何も感じないままマンションに戻った僕は、スマホを見て背筋が凍った。


『賢人。まだ戻ってきてくれないの? 私ずっと待ってるんだよ。お願い、もうあの人とは別れたから戻ってきて』


 その日、初めて物に当たった。

 記憶はほとんど無いけれど、我に返った時に見た状況から察して、相当鬱憤が溜まっていた事だけはよくわかった。

 おかげで気に入っていたカップを割ってしまったけれど、それで気持ちが軽くなったのだから安いものだ。

 

 それ以来、彼女からの連絡に答える事はなかった。




 乱暴に玄関を開けて中に入ると、足音を立ててリビングに入る。

 テーブルの上に昼食を叩きつけると、うるさいくらい鳴っているスマホを切った。

 そのまま電源を落としてソファーに放ると、一気に静かになった気がした。


 彼女は部屋まで追ってはこなかったため、それだけはホッとした。

 昼食を食べる気など起きるはずもなく、ソファーに横になると目を閉じる。


 アパートに戻る気は無いし、かといってここに住み続けるのも無理だろう。

 彼女にバレてしまった以上、復縁を迫られるのはわかっている。


 こっちにその気が無いのはわかっているだろうに、彼女はとにかくしつこいのだ。


 喧嘩をしたときだってそうだ。

 自分が悪いのに全てを僕のせいにして、しつこく認めさせようとすることが何度もあった。


 そのたびに僕が謝って喧嘩を終わらせたけれど、いつだって彼女は心から謝ったことがない。

 友達と喧嘩してもそうだったし、家族と喧嘩しても相手が悪いの一点張りだったくらいだ。


 今回だって、なんやかんや理由をつけて僕を悪者にし、自分に有利な復縁を迫るつもりなのだろう。


「嫌だなあ……」


 ポツリと言葉が出た瞬間、耳元であの音が鳴り響いた。


 ジリリリリリリリリリリッ!


 思わず耳を塞いでも聞こえてくる目覚まし時計の音に、たまらずソファーから転げ落ちた。


「な、なんだよ! なんだよこれ!」


 朝にしか聞こえないはずの音が、耳元で音割れするほど鳴り響いている。

 あまりの音量にリビングを転げ回るけれど、音が止む気配は無い。


「やめ、やめてくれ! うるさい! やめてくれよ!」


 どこから聞こえてくるのかもわからず、めまいすら覚える音に気が狂いそうだった。

 右も左もわからず、音から逃げたくて玄関に向かう。

 震えて言うことを聞かない手で鍵を開けると、廊下に飛び出した。


 それでも音は止まない。


「うるさい! うるさい! やめてくれ! 黙れ!」


 頭を振りながら廊下を歩く。

 もう何が何だかわからない。

 ここはどこで、僕は今何をしているのかも理解できなかった。


 その時、背中に固い物が当たった。


 廊下にある手摺りだ。


 縋るように手摺りにつかまって怒鳴るけれど、音は止むどころか、どんどん大きくなっていく。

 声の限り叫びながら体を揺するが、音は耳元でさらに大きくなった。


「やめてくれ! もう嫌だ!」


 そう叫んだ瞬間、体が浮いた。


 あれほどうるさかった音が止み、体が宙に投げ出されるのがわかった。


 閉じていた目を開けると、八階下の地面が見える。

 横を向くと廊下の外側にある壁が見え、さらに上を向くと手摺りがかろうじて見えた。


 ゆっくりと手摺り越しに体が投げ出される感覚に驚いて、力の限り体をひねる。

 さほど動かなかったけれど、後ろを向くには充分だった。


 僕の後ろには女性がいた。


 肩くらいまでの髪が顔全体にかかり、何日も洗っていないようなボサボサの髪をした彼女は、なぜか服だけがおしゃれだった。

 まるでこれからデートにでも行くような格好の若い女性に見えたけれど、彼女の両手は前に突き出されていて、広げられた手のひらを見た瞬間、僕はこの人に突き飛ばされたんだと理解した。


 それからは早かった。

 あっという間に八階が遠ざかり、今まで感じたことの無い衝撃にうめくと、そのまま気を失ってしまったのだ。




 目覚めたのは病院で、僕の叫び声を聞いた住人が廊下の手摺りから外を見ると、マンション下に倒れている僕を見つけて救急車を呼んでくれたらしい。

 幸いにも、植木がクッションになり、土のある地面に落ちたことで命に別状は無かった。


 二日続けて起こった飛び降り事件に、警察も大忙しになってしまったらしいが、僕の件で疑われたのは元彼女だった。

 どうやら僕が朝に出かけてからずっと待ち伏せしていたらしく、何人もの住人がマンション前をうろつく彼女を目撃していた。

 しかも住人に僕のことを聞いて回っていたらしく、それが原因で警察に連れて行かれたらしいのだ。


 さすがに可哀相だと思い、飛び降りに関する彼女の潔白を証明したけれど、つきまといについては否定しなかった。

 彼女をかばったことで、僕が復縁したいと思っている、と誤解されても困るし、これを機に何度も待ち伏せされるのが嫌だったからだ。


 警察の厳重注意で解放されたという彼女は、共通の友人曰く、アパートに戻ると例の浮気相手に慰めてもらったらしい。

 僕に会いに来たのは、どうやら世間体を気にしての行動だったようで、友人が呆れたのも無理はない。


 元彼女とはこの事件をきっかけに縁が切れ、それから二度と会うことはなかった。

 ただ風の噂で、浮気相手とどこかに逃げたとだけ聞いたくらいだ。

 その後の事は誰もわかっていない。


 僕はというと、あの時見た女性について警察に話したが、そこで思いがけない話を聞くことになってしまった。


 僕を突き飛ばした女性は、あのマンションに今は住んでいない人だった。

 服装が特徴的だったので、特徴に合う女性はいないかと警察が調べたところ、それに合う女性は数年前に亡くなっている事がわかった。


 僕と同じ階に住んでいたというその女性は、むらなおさんといい、十九歳で病死したらしい。

 天涯孤独で身寄りが無く、苦労しながらも高校を卒業し、ようやく人並みの生活ができるという時の出来事だったらしく、死因は過労による心臓発作だったようだ。


 苦しい生活でも弱音一つ吐かなかった彼女の死を知らせたのは、両親を亡くしてからずっと使い続けていた古い目覚ましの音だった。

 いつまでも鳴り止まない音に怒った隣人が怒鳴っても止まらなかったため、合鍵で管理人が部屋に入ったところ、リビングに倒れていた彼女の遺体を見つけたというのだ。


 司法解剖で、彼女が死亡したのは前日の夜九時頃で、ひどく苦しんだあげく亡くなったとわかった。

 亡くなった日のさらに前日はデートだったらしく、彼女と付き合っていた彼氏の証言で、その時にプロポーズされていたこともわかった。


 ようやく幸せになれると喜んだのも束の間で、彼女は最期まで苦しんだまま一生を終えてしまったのだ。

 さぞかし無念だっただろうと、事件の担当になった刑事さんが残念がっていたらしい。


 付き合っていた彼氏は今でも彼女の墓参りをしているらしいが、彼女が死んで半年後に、別の女性と結婚したというのだ。

 そんな彼氏を責める人もいたようだけれど、結婚した後でどこかに引っ越してしまったらしく、警察もどこに住んでいるのかわからないそうだ。


 マンションの住人は、ほとんどが彼女の病死について知っていたけれど、ただの病死だという事で誰も話題に出さなかったらしい。

 その後、彼女が住んでいた八階では目覚ましの音が聞こえるようになったらしく、引っ越す人が増えた事で、ますます話題に出せなくなったらしいのだ。


 マンションの管理人から口止めされていた、というのが理由らしいのだけれど、あれほど条件の良い部屋を引っ越したくないという人が多く、木村さんが亡くなった後も、八階で普通に暮らしていた人がいたのだという。

 事情を知らない人が引っ越してくる事もあったが、彼女が亡くなった後も暮らしていた人は口をつぐみ、何事もなかったかのように生活していたらしい。


 けれど、彼氏が結婚した後で状況は悪化し、突然自殺する人が出てきたというのだ。

 それも一人や二人に留まらず、僕が引っ越してくるまでに、十人近くの人が飛び降りて亡くなっていると聞いた時にはゾッとした。

 

 マンションの住人は「木村さんが怒ったんだ」だと言う人もいて、結婚した彼氏を恨んでいる人までいるらしい。

 それでも他の階では何もないので、事情を知らない人だけが八階に住んでいるという状況を見て見ぬふりしていたのだから、それもどうなのだろうと言いたくなった。


 話を聞けば聞くほど、木村さんという女性は大人しくて目立たなかったが、とても優しい人だったという事はよくわかった。

 彼女を知る住人達も悪口を言う事はなく、彼女の死をただただ残念がっているらしい。


 だからこそ、誰も彼女を責められなかったのかもしれないのだ。

 



 苦しい生活の末につかみかけた幸せは、これまでの苦労によって、彼女から離れていってしまった。


 浮気された僕でも、彼女の無念さは想像できる。


 希望に満ちた瞬間、奈落の底にたたき落とされる気持ちもだ。


 苦しみながら死んだというのならば、死ぬまでの間に何を思っていたのだろうか。


 病室の窓から外を眺めながら、僕は自分と彼女に共通する名前の知らない感情を思い出しながら、静かに目を閉じる。


 浮かぶのは落ちる間際に見た彼女の姿。

 幸せと不幸を併せ持った、一人の女性の悲しい姿だった。




 その後の調査で、飛び降りたらしい高橋さんは仕事で悩みがあったらしく、ずっと愚痴を言っていたという証言が出て来た。


 もしかすると彼女も、自分の部屋で弱音を吐いてしまったのかもしれない。

 そしてあの音に襲われ、木村さんに突き落とされたのだろうか。


 僕の怪我はたいしたことがなかったため、すぐに退院することが出来た。

 部屋に戻ると、荒れた部屋はそのままで、退院して最初の仕事が大掃除になってしまったのは言うまでもない。


 会社からは有給の申請が通ったと連絡を受けていたので、ずっと休まなかった自分が、入院とはいえ休んでくれたことに感謝しているようだった。

 上司からは急な休みに対してさんざんイヤミを言われたが、最後には「ちゃんと元気になれよ」と言われた。

 大家さんといい上司といい、どうも僕は素直じゃない人と縁があるようだ。


 部屋に戻った次の日から、もうあの目覚ましは聞こえてこなかった。


 すっかり起き慣れた七時三十五分に目を覚ますと、いつもの時間に朝食を食べてテレビを見る。

 ニュースでこのマンションが映ったりしたが、警察は幽霊のことを公表できるはずもなく、高橋さんの件は、自殺という形で捜査を終わらせたらしい。


 退院する前に、僕を疑っていた刑事さんが言っていた。


『君は七時三十五分について、何か知ってるかな』


『いいえ、それがどうしたんですか?』


『いや、高橋則子さんが知人に話していた内容の中で、七時三十五分が嫌だと言っていた証言があったんだけど、どうも偶然とは思えないんだよ』


 疑いの目を向けてきた頃とは打って変わり、刑事さんは少しだけ柔らかくなっていた表情を硬くして、言いにくそうに言った。


『……実はだな。その病死した女性が発見された時間が、どうも七時三十五分らしいんだ』


 八時のニュースが始まった。


 十五分には家を出なければならないため、急いで朝ご飯をかきこむ。

 リビングの電気を消して玄関を出ると、鍵を閉めながら考えてみた。


 あの目覚ましの音は、本当に彼女の無念さを表していたのだろうか。


 似たような気持ちを持つ自分達に気づいて欲しかったのか、それとも仲間が欲しかったのか、目覚まし時計の音が鳴らなくなった今、それを知る事はもうできないだろう。

 けれど、落ちる前に聞いていたあの音は、思い出せば出すほどもの悲しく感じるのだ。


 僕一人だけになった八階は静かだ。

 けれど、近いうちにもっと静かになるだろう。


 これ以上このマンションに住む気にはなれなくなったので、出来るだけ早く此処を出て行くつもりだ。

 もしもの時はまた友人の世話になろうと考えながら、エレベーターに乗り込む。


 長い廊下の先は薄暗く、非常階段の灯りがかすかに見えた。


 同情はしないよ――。


 心の中でつぶやいた声に、かすかな音が耳元で返事をした気がした。   




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七時三十五分の目覚まし時計 逢雲千生 @houn_itsuki

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