第13話 先輩、さようなら--

新田の母からその連絡を受けると、西森はその日のすべての予定を無視して、タクシーで病院へと向かった。

西森と新田との関係は、新田の両親には公認だった。

新田の所持する社員証から、まず会社に連絡が行き、そこから彼の申告していた緊急連絡先である、新田の実家に連絡が回っていったのだった。

タクシーが病院の入り口に着くと、西森は何も言わずに1万円札を会計ボックスに叩き入れると、すぐさまタクシーから飛び出した。

すでに行先はわかっている。

それはICUと呼ばれる一室--集中治療室だった。

大きな大学病院だった。白くて広い院内には、大勢の患者や、面会人、そして看護婦たちの姿が見える。

その中を、西森は何も気にせず走り抜けてゆく。

--どうしてだ、新田

奥歯を噛みしめて、西森は思う。


どうして、よりによって、お前が--


西森は、胸が張り裂ける思いだった。

最愛の人物が、今、瀕死の状況にある。西森にとって、それは自分の命よりも遥かに重いものだった。

--頼むよ、新田

西森は、冷や汗をかいていた。

そして心の中で叫ぶ。


頼むから、どうか、死なないでくれ--!


エレベーターを使わず、西森は階段を使って、上へ向かってゆく。

廊下に出、また走る。

時おり、すれ違い様に、看護婦がおどろいて悲鳴をあげるが、それに西森は目もくれず、険しい顔をして突き進んでゆく。


「--西森くん!」


突き当たりの両開きの扉を開け放つと、新田の母の姿があり、西森を見つけた彼女が、鬼気迫る声で西森の名を呼ぶ。


「はあ、はあ--お母さん!」


乱れた呼吸のまま、駆け寄ると、西森が答えた。

そこは通路の一方の壁がぶ厚いガラス張りになっており、その先に、様々な医療機器が、中央のベッドに横たわる新田を囲むように並んでいた。


「--新田!」


ガラスに両手の平を叩きつけて、西森は叫んだ。

新田は上半身が裸の状態で、頭を含めて至るところに包帯が巻いてある姿だった。加えて、そこからは無数にコードが伸び、それが新田の隣に位置した心電計などの複数の機器に繋がっている。

および脳波計、酸素マスク、etc--

西森の目に映る新田は、機械に取り込まれているかのようだった。

医療機器の事はわからないが、見覚えのあるものがひとつだけあり、それが音を立てて何かをモニタリングしていた。


ピッ、ピッ、ピッ--


新田の心臓の鼓動の様子を示す心電波形と、脈拍数とが、心電計に表示されていた。

短い間隔で更新されてゆくその線と数字が、緑色ではないため、西森には新田があまり良い状態でないことがわかった。

だが、生きてはいる。

それがわかると、西森は、ひとまず大きなため息をついた。


「、、、良かった--生きてた」


西森は言い、気がつくと安堵で涙を流していた。

足の力が抜け、ずるずるとその場に沈み込む。ここに来るまでに、ずっと張り詰めていた緊張の糸が、ようやく切れたのだ。


「西森くん」

「お母さん--」


新田の母が、西森に近づいてしゃがみ込むと、二人はお互いを抱きしめ合った。


「まだ安定したわけじゃないけど、ひとまず峠は越えたとの事よ」


新田の母が説明する。


「良かった--」


西森は泣きながら、新田の母の胸元に顔をうずめる。新田の母が、その頭を両手で包み込む。


「--大丈夫よ。優一は、西森くんのことを残して、先に一人だけで逝くような子ではないもの」


我が子を慰めるように、新田の母が言った。


--それから、1週間後。


西森は、病室の一室にいた。

そこは個室になっており、ひとつだけのベッドの上に、新田が横になっている。西森は、ベッドの真横で、パイプ椅子に腰を下ろし、ひとり静かに新田の様子を眺めていた。

新田は、まだ、目を覚ましていなかった。

鼻には呼吸器が取り付けられ、心電計もまだ付けられている。

白く細いその腕の中ほどには点滴、掛けられた布団の中からは、排尿用の管が、ベッド脇に設置された貯尿バッグに伸びていた。

新田は、まるで人形のような表情で眠りについていた。


「新田--」


西森はつぶやき、新田の手を握る。


「いい加減、そろそろ、目を覚ましてくれよ」

「、、、」


西森の問いに、新田は答えない。


「お前がいないとさ、オレは、寂しいよ」

「、、、」

「早く、お前の声が聞きたい」

「、、、」


病室には、二人の他に、今は誰もいない。

西森の声は、外見には似合わない、途方に暮れた子供のような声音だった。


「新っ田、会ーいたい。新っ田、会ーいたい」


新田の手を少し上下に揺らしながら、西森は力なく歌った。

この一週間、西森は、毎日、このようなことを続けていた。

宿泊で付き添いをする許可をもらい、それから、この部屋に泊まり込んでいる。一度荷物を取りに家に戻って以来、西森は病院の外にすら出ていなかった。

病室には、もうひとつ、簡易ベッドがあり、そこに西森は寝泊まりすることを許されている。

とはいえ、西森は、夜になれば、そこで眠るわけではなかった。体力の限界まで、西森は新田にこうして付き添い続け、気がつくと、この状態のまま、頭だけを新田のベッドに預けて意識をなくしていた。

そして、やがて、西森はふと目を覚ます。その繰り返しだった。

食事は新田の母が差し入れを届けてくれたので、それだけを食べて過ごしていた。

西森の顔色は悪く、やつれていた。

睡眠不足のため、目にはクマができ、髭も剃ることをしないため伸び続けている。


「会いたいよ、新田--」


西森がつぶやく。

西森には、そうまでして身を粉にする理由があった。


新田が目を覚ました時に、一番最初に映るその景色の中に自分がいたい--


それが理由だ。

今、西森がこの世で最も優先している予定だった。そのため、現在、仕事は全部キャンセルしている。

西森には、新田がすべてだった。

新田のいない世界には、もう、興味がなかった。

新田の存在こそが、原動力であり、そして生きる理由だった。

過去に妻を亡くし、生きる目的を失った。それ以来、西森は惰性のように生きてきたのだった。

ヘラヘラと調子よく振る舞ってはいたが、内心では何をするにしても、どこか冷めた自分を感じていた。

そんな時に、新田と出会った。どこまでも素直で、無垢で--思い返せば、一目惚れだったかもしれない。

ある日、新田に告白されそうになったが、そうなる前に断った。

新田のことが大事だった。自分みたいな人間のために、新田の人生を台無しにするわけにはいかないと思った。

そして、それをきっかけに会社を辞めた。元々そのつもりではあったが、新田の件はちょうど良いターニングポイントになった。

地元でしばらく休息し、頭を冷やして、今後のプランを練っていた矢先だった。

ごちゃごちゃした思考を切り替えようと、気分転換に馴染みの神社へ散歩に出かけた。

すると、そこに見覚えのある人物の姿を見つけた。

それが新田であることは、すぐにわかった。

仕事をないがしろにしてまで、自分を探しに来てくれたのだという。

そのことを新田の口から聞いた時、決めた。新田の気持ちに答え、そして彼のために生きてみようと。


それなのに--


西森は思う。すでにここへ来て涙は出し尽くしている。だが、動かない新田の様子を見ると、干からびた眼球の中から、なぜか涙が溢れてきてしまうのだ。

耐えがたい寂しさが、西森をさいなんでいた。

わずか1週間、新田に会えないと、自分はこうにもなってしまうのか。

それほどに、西森は新田を愛しているのだった。


「頼むよ、新田--」


西森は、震えるような声で言い、泣いた。


「お前がいないと、もう、オレは、生きている意味を見いだせない。だから、いい加減目を覚ましてくれよ--」


心の限界を感じた、西森の言葉だった。

そのときだった。


ピクリ--


西森は、自分の手の先に、その反応を感じた。直後に、目の前の布団の中に、もぞもぞと動きが生じる。


「うん--」


西森のものではない声が、つぶやく。

目の色を変え、すぐに西森は目線を移す。


「--新田!」


大声で、西森は呼んだ。

見ると、新田の目が開いていた。

ぼんやりとした表情で、視線をさまよわせ、やがて西森の方を見る。


「え--」


新田は、自分の今の状況が把握出来ていない様子だった。

西森が、新田の背中に手を回し、抱き起こす。


「良かった、、、会いたかった」


抱きしめながら、西森が言った。


「、、、」


だが、新田の方はというと、無表情で、されるがままであった。

それから、新田は何かを思い出すような表情をし、しばらくして口を開く。


「すみません--」


気まずそうに、西森の背中越しで新田が続けた。


「あの--あなたは、いったい、誰ですか?」

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