第8話 先輩! 逃げても無駄です!
ハロー新田くん
木下でーす、土曜日の午後以降ならいつでもOKだよ。お待ちしていまーす((●゚ν゚)
住所:〇〇-〇〇-...
それは木下から届いたチャットの内容だった。
土曜日の昼下がり、新田はとあるマンションに来ていた。
住所を頼りに、一室につづくトビラの前に来ると、新田は備え付けのインターフォンを押した。
「--はーい。ハロー、新田くん」
室内ではモニターフォンになっているらしく、マイク越しに名乗る前に、木下のその声が届いてきた。
「こんにちわ、木下さん。新田です」
新田は律儀に頭を下げる。
「今開けまーす」
それから間もなく、ガチャりと音がして、扉が開いた。
姿をのぞかせた木下を見て、新田は思わず目を大きく開いた。
木下は、木下と思えない格好をしていた。
首回りがざっくりと開いた大きめのロンTを着ており、その下にタンクトップのような見えていた。
ホットパンツに近い丈のパンツに、黒のスパッツ。
いつもの印象と異なる、丁寧にストレートに伸ばして分けた髪型。
あまりに露出された綺麗な鎖骨を前に、新田は少し目のやり場に困った。
一瞬、新田は木下が女性にさえ見えた。
「はは、その顔は驚いたかい?」
木下は楽しそうに言った。
「オフの日は、大体こんな格好をしているんだ。なんというか、ボクは世間一般でいう、いわゆる普通の人間じゃないからね--さあ、あがった、あがった」
思いがけない木下の変身に戸惑いつつも、新田は部屋に入った。
時計、ラグ、ローテーブル、観葉植物、所々にある動物グッズ。少し物の多いリビングだが、色合いはナチュラルトーンに統一されているようだった。
やはり動物が好きならしく、新田に出されたスリッパも、つま先が羊になっている。
「さすがに冷たい麦茶は飲めるよね?」
「--は、はい」
通されて、2人掛けの小さめのソファに腰掛けた新田に、キッチンから木下が声をかける。部屋は冷房が効いているが、訪れたばかりの新田の体は汗ばんでいた。
「はい、どうぞ」
「いただきます--」
麦茶を二人分用意して、木下はローテーブルを挟んで新田と向き合うかたちで、クッションの上に正座した。
「最近、急に暑くなったよねぇ」
ローテーブルに片肘をつき、その手のひらを自分の頬にあてながら、木下は麦茶を口にする新田を見て言った。
新田は、薄い水色の半袖の夏用パーカーを着ている。そうした服装と、色白で身長が低いこともあって、20代前半とはいえ高校生でも通りそうな外見をしていた。
「はい、ここ何日かで、急に暑くなってきましたよね」
新田は言い、ポケットから取り出したハンカチで顔や腕につたう汗をぬぐう。
「きみってさ、本当に可愛いよね」
新田の仕草を見て、木下がボソッとつぶやく。
「き--」
言われて、新田は木下を見ると目が合ったので思わず赤くなった。
「木下さんの方こそ、可愛--いえ、キレイです」
「はは--そこは可愛いのままでも良かったのに。目上の人だからって、褒め言葉まで気にすることはないんだぞ」
木下は笑った。
その笑顔を見て、新田はドキッとした。少し化粧をしているらしく、見れば見るほど木下の性別がわからなくなった。
異性と対峙するのが苦手な新田だった。その時ほどではないが、それに似た感覚があるのはたしかだった。
「あの、木下さん」
悩んだ末、新田は訊くことにした。
「なぁに?」
「木下さんは、なんというか--その、中身は女性の方なんですか?」
「へぇ、きみのことだから早々に本題かと思ったけど--ボクに興味を持ってくれたようで、なんだか嬉しいね」
「す、すみません。もし、不快に思われたならごめんなさい。その、答えていただかなくても大丈夫ですので」
「ううん、ぜんぜん大丈夫だけど」
慌てる様子の新田を見て、木下が言う。
「そうだねぇ--ボクは男だとか女だとかの定義が嫌いなんだけど、あえてその言葉を使って言うなら男:4割、女:6割くらいの中身だと思っている。いや、日によってこれも少し違うかな。うーん、ボク自身でもなんともわからないかもしれない」
木下は考え込むように言った。
木下の話しぶり、所作--そうしたところを見ているうちに、新田は木下に好意を覚えていた。西森が木下を受け入れた気持ちがわかった気がした。
木下は余裕に満ちていて、優雅で、でもどこか憂鬱そうで--
新田には、まるで木下が空想上の生き物のように思えた。
「ボクみたいな人間に、今まで出会ったことないだろう?」
「--はい」
「ふふん、隠れてるだけで、実はわりと結構いるんだよ。13人いるうちの1人がセクシャルマイノリティだというデータもある。きみは男性というよりは西森さんが好きみたいだけど--言ってしまえば、きみもそっちよりの人間なんだぜ」
「そうなんですね--まあ、でも普通に考えたらそうですよね」
返答に困り、新田は少しうつむいて
自分の髪の毛をなでる。
「新田くん、ひとつ、覚えていて」
少し声のトーンを下げて、木下が言った。
「普通というのは、自分の考えのことだよ。他から見てズレてても、自分にとって普通ならそれが普通なんだ。つまり普通とは、自分の意見ということだよ。それがわからないようだと、きみはこの先、幸せになれないかもしれない。だから、この事だけは気にとめておいて」
深く、説得力のある木下の言葉だった。
「--はい、わかりました」
新田は大きくうなずいた。
「よし。じゃあ、本題に入ろうか」
木下は言うと、一枚のプリント用紙を取りだして、それをローテーブルに置いた。
プリントされているのは、とある小さくもない市町村の地図だった。木下が書いたであろうペンで囲まれた部分や、文字の書き込みがある。
「これはボクが勝手に想像して作った宝地図だよ。宝箱の中身は西森さんのご実家。昔の会話とかを思い出して、ボクなりにそうした事をすべて考慮して予想を立てた。ちょっとまだ、そこまで絞り込めてないけどね」
新田は地図を手に取った。
所々に小規模な街があるのか、ときに家々が密集していたり、ふいに大きな山林があったりする図面だった。
電車も通っているみたいだが、やはり都会とは違い、この範囲をカバーしきれてるとは到底いえない路線数だ。
距離にして、半径15km、つまり全長30kmが捜索範囲だ。
「木下さん、ここまでわかれば十分です--その、ありがとうございます!」
「なに、いいってことさ。その代わり、連れ戻しに成功したら、今度お酒でも奢ってよ」
「はい、約束します」
新田は断言した。
「--ところで、新田くん」
「はい?」
「興味本位で聞くんだけど、きみは、西森さんに抱かれたいの? それとも、抱きたいの?」
「は--」
木下の質問に、新田の顔が耳まで赤く染った。
「あ、あの--その、なんというか」
新田はパニックになって呂律が回らなくなる。
「そういうのは、まだ、ちょっとわからなくて--ぼ、僕が、に西森先輩を抱くとか、だ、だ、抱かれるとかは、その」
「あーごめんごめん--そういえば、まだ、きみ誰とも経験ないんだものね」
可笑しそう木下が言う。
落ちつくと、新田は少しムッとした。
絶対こうなるとわかってて聞いたに違いない--
--それから数日。
新田は有給休暇を取得し、土日を含めて計五日間の探査期間を手にしていた。
新田は新幹線に乗り、窓際の席に座って外の景色を眺めていた。そこに、トンネルの闇と、徐々に都会から遠ざかっていく風景が交互に映し出されてゆく。
この五日間で西森を見つける。とはいえ、五日で見つからなくても帰らない覚悟ではいた。
--西森先輩、残念でしたね
窓に反射する新田の顔には、どこか不敵の笑みがうかんでいた。
--僕からは、そう簡単には逃げられませんよ
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