第5話 先輩! 先輩のこともっと教えてください!
とある日の就業後のことだった。
「--新田くん」
帰り支度を終えて、エレベーターに向かう途中の廊下で、新田にかけられた声音だった。
聞き覚えのある声だった。
「あなたは--えっと、木下さん」
振り返って、新田が言った。
西森の古い付き合いで飲み仲間だという
木下がそこに立っていた。
「お疲れ様、今帰り?」
木下が笑顔で言う--いや、やはりそれは笑顔というよりは顔つきがそのように見えるのだ。目だけがどこか、笑っていないようにも見える。
「お疲れ様です、そうですけど」
「--なら、ちょっとだけいいかな?」
新田に、木下が申し出た。
物腰こそ柔らかだが、そこには断るのを拒否するかのような意志を感じた。
「、、、わかりました」
新田は、とりあえず承諾した。
手招きした木下についていった先は給湯室だった。
狭い空間に、電気ポットの乗った流し台とコンロ、その隣には一部の人間が共有で利用する大きな冷蔵庫がある。
「新田くん、コーヒー飲むかい?」
笑顔のような顔で、木下が訊ねる。
「いえ、コーヒーはその--得意ではなくて」
「そう、なら紅茶はどう?」
「あ、それならいただきます」
新田が答えると、木下は自分のものであるかのように、慣れた手つきで棚からマグカップを取り出し、ティーパックを入れ、お湯を注ぐと、それを新田に手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
言い、注意して一口すすると、熱すぎずにすんなり飲むことができた。
「ちょうど良い湯加減でしょ?就業後は総務がコードを抜くからね。だいたい帰りはいつもここに寄って、静かなティータイムを過ごすんだ」
木下は言った。彼もまた、新田と同じく紅茶を作ってマグカップを手にしている。
「それに--この時間、ここには誰も来ないしね」
木下のその言葉を聞き、新田はゾクッとするものを感じた。
「あの木下さん」
恐る恐る、新田が声を出した。
「僕に話があるって、なんですか?」
「そうだね--」
木下は、ここではないどこかを見ながらつぶやき、その後で新田を正面から見つめる。
「単刀直入に言うよ?きみ、西森さんとはどういう関係なんだい」
「--」
その問いに、新田は声を失った。
「か、関係って、、、その、なんというか」
「ただの部下--ってことでもないんだろう?」
「そ、そうですね」
新田は、必死に答えようとする。
「時々、お家にお邪魔してゲームをしたりする仲ではあります」
「へぇ、そうなんだ--泊まったりするの?」
「それも時々、終電を逃したりすると--」
「ふうん--西森さんとは、もう寝たの?」
木下は言った。
その言葉を聞いた途端、新田は自分の心拍数が激しく上がるのを感じた。
「ね、ね、ね--」
息が苦しくて、新田はうまく言葉を発することができなかった。
「--その様子じゃ、まだか」
木下は続ける。
「こんな事言うのも失礼だけど、きみ、もしかして童貞でしょう?誰かとお付き合いした経験、ないんじゃない」
「--そ、そうですけど」
新田が声を絞り出すと、少し時間を置いて、木下はくくく、と笑った。
「--いや、ごめんごめん。馬鹿にしてるわけじゃなくてさ。なんというか、きみ、可愛いなぁって」
木下は言う。嫌味な印象ではなかった。
「ところで、きみは、西森さんのことをどれくらい知っているんだい?」
「西森先輩のことを?」
訊かれて、新田は考える。新しく再就職した会社での上司、飽きっぽいゲーマー、面倒くさがり--
思えば、西森について、新田はその程度のことしか知らなかった。
「西森さん、ああ見えて実はバツイチなんだ」
「--え?」
思わぬ情報に、新田は戸惑いを見せる。
「バツイチってことは--その、離婚したんですか?」
「ううん、違うよ」
木下は言った。その時初めて、木下からはいつもの笑顔がなくなった。
「事故で亡くなったんだよ、奥さん」
新田はまた言葉を失った。
あまりにも、そして突然に、信じられない情報を突きつけられて何も言葉が出てこないのだ。
「三年くらい前かな。それはそれはひどく落ち込んでてさ、とてもじゃないが、見ていられなかった。今とはまるで別人みたいだったよ」
木下は遠くを見つめるようにつぶやいた。
「西森さんとは、昔、付き合っていたんだ」
「--え?」
思わず聞き返す新田。
「傷心中にかこつけて、ボクから強引に申し出たんだよ。あの人優しいからさ。まあ、少しのあいだだったけどね。そして振られてしまったというわけさ」
木下は言うと、マグカップを流しに置き、新田に近寄ると、おもむろに両肩に手を置いた。
そのまま、新田を壁に押し付ける。
新田の持っていたマグカップが手から滑り落ち、音を立てて割れて床にちらばった。
「新田くん、きみが西森さんにどんな感情を抱いているかは知らない。ただし、ひとつ警告しておくよ。西森さんの心を癒すことは、ボクには無理だった。もし、きみがそのつもりなら、それなりの覚悟が必要になるよ--だけど、もし、きみのせいで西森さんがまた傷つくことになったら」
木下は新田を見すえ、強い口調で発した。
「ボクは、きみを絶対に許さない」
目を見開いた新田を見つめる木下の顔が、間もなく緩むと、パッと手が離された。
「話はこれで終わりだよ。ごめんね--もう行っていいよ」
しばらく無言のまま、我を取り戻すと、新田は会釈だけをして給湯室を出た。
頭の中で、色々な考えがぐるぐると回っていた。無意識のまま、エレベーターに乗り、ロビーを抜けて表に出た。
オフィスビルの入口前は広場になっており、いくつかベンチが設置されていたが、時間も時間のため、座っている人は少ない。
ビジネス街らしく、周囲もまたビルだらけだ。夜とはいえ、ビル群から漏れだす照明で辺りはそこまで暗くはない。
無数の建物で切り取られた都会の夜空に、星は見えない。
呆然と歩き進めると、大通りの横断歩道の前に、見慣れた姿があった。
脱いだジャケットを片手に抱え、もう一方の手でカバンを背に負った青年--信号待ちをしていた西森だった。
「--西森先輩!」
思わず背後から、新田は大声でその名を呼んだ。
「--新田?」
西森が驚いた様子で振り返ったとき、新田は小走りに駆け寄ってきていた。
「どうした、今帰りか」
「せ、先輩の方こそ、今日は遅いんですね」
少し呼吸を乱して、新田が言った。
「--打ち合わせが長引いてな、ついさっき、やっと解放されたんだ」
西森が言うと、正面の信号が青に変わった。
「じゃあお疲れさん、お前あっちだろう?また明日な」
言って歩き始める西森--しかし、何かによってその動きが止められていた。
ジャケットを脇腹に抱えた腕を、新田の両手が掴んでいた。
「--新田?」
不思議に思ったのか、西森の声音は少し動揺していた。
「西森先輩--これから、先輩の家に行ってもいいですか?」
「おいおい、今日はまだ木曜だぜ。明日も早いんだ。何か悩みがあるなら、またこんど--」
「いいから!」
新田が叫んだ。新田自身でも、自分からこんなに大きな声が出るものだとは思っていなかった。
「色々、聞きたいことがあるんです。今すぐ--今すぐじゃないと、ダメなんです」
依然、腕を掴んだまま新田は言った。
「西森先輩のこと、もっとよく知りたいんです」
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