Drug Dogs―ドラッグドッグス―

九郎明成

プロローグ 犬の姿を彼のそれと重ねて

 セルジオが初めて彼の声を聴いたのは、校舎の廊下を一人歩いているときだった。午前の実習科目である射撃訓練が終わり、次の座学のために教室へ戻る途中のことである。


「お前、面白い臭いするな」


 言葉は背後から。

 それが明らかにこちらに向けられていたこと、そして言葉そのものの奇妙さも相まって、セルジオは思わず振り向いた。

 背後にいたのは、自分と同い年か、少し上くらいの背格好の男だった。

 この国では少し珍しい黒髪黒目。どこか皮肉っぽい表情が印象的で、ラフな黒いカラーシャツにスラックス。そして首には赤いチョーカーをつけている。

 この男との面識はあった。

 しかしそれは今さっき見知ったという程度のもので、彼のことをよく知っているわけでも、話したことがあるわけでもなかった。名前すらも知らない。

 彼はつい先ほどの射撃訓練の時、数人の教官らに連れられて実習室の隅で見学していた。こちらが着ているような指定制服でもなく、教官という感じでもなさそうな彼の存在を奇妙には思っていたが、セルジオもそれ以上は気にしていなかった。


「何でしょうか?」


 黒髪男に向き直り、セルジオはとりあえずそうとだけ返した。

 ほとんど初対面の相手に『臭う』などと言われ、他に返答など思いつかない。……火薬の臭いでも残っていたのだろうか。

 すると黒髪の男は左手の人差し指を額に当て、こちらを制止するように右の平手を前にかざした。


「あー。もうわかった。お前真面目君だな?」

「…………」


 初対面で妙に馴れ馴れしいな……などとは思ったが、抗議するほどのことでもないのでセルジオは黙って聞き流す。


「でもま、性格は別になんでもいい。要はピンと来たかどうかだ……」


 黒髪男はぶつぶつと意味の分からない独り言を呟く。

 その様子にセルジオもさすがに焦れて、彼に今一度聞いた。


「あの、何のご用でしょうか?」

「お前、犬アレルギーとかないよな?」


 いまいち噛み合っていない気がする会話に、一瞬たじろぐが、


「……ありませんが」

「そーかそーか。ならいいや」


 黒髪男は腕を組んで、しきりに頷いている。


「…………」


 まったく要領を得ない、というかこちらを完全に置き去りに会話を進める彼に、セルジオもさすがに少しイラッとする。


「用はそれだけでしょうか。講義が控えていますので、失礼します」


 少々強引に会話を打ち切って、セルジオは踵を返す。

 すると、


「お前、俺の主人になれ」

「……は?」


 声は明らかに黒髪男のもの。しかし言われた言葉の意味を飲み込めず、セルジオは再度彼に振り返る。

 視線の先の彼はさっきまでの皮肉気な表情そのままだったが――セルジオはなぜか、耳を立てた犬の姿を彼のそれと重ねていた。

 

 二年前、フリジニア第三公安学校でのことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る