明衣(あかは)の星
荒井 文法
リムーバブル・スネイク
父が亡くなってから三年後、実家の処分を決意した私は、飛行機とレンタカーを利用しながら片道六時間かけて、家財処分のため実家を訪れた。
父の葬儀から何も変わらず、埃だけが積もった家の中は、生まれてから十八年間を過ごした宝物のような記憶と、その記憶が確実に風化していく事実を改めて私に思い出させる。何百年も昔に盛者必衰という言葉を生み出した先人たちへの畏敬の念と、その先人たちもまた私と同じような淋しさを感じていたであろう普遍性に目眩がしそうになる。
実家の最後の住人だった父の遺品は少なく、最期の時を見据えた父が、事前に家財整理していたことが良く分かる。
父の葬儀の際には見過ごしていた物を眺めていく。
書斎の壁を埋め尽くしていた本は、一冊も無い。作業机の上にポツンと置かれた古びたパソコンと周辺機器だけが、レースカーテン越しに夕陽を浴びている。
三年前とは比べものにならない量の涙を、拭っていた。
※
「蛇だよ」
ディスプレイに表示されている文字列を指差しながら質問した私に、父が答えた。
「ヘビ? ヘビいるの?」
パソコンの中に蛇がいる光景を想像した私は『ヘビはお腹空かないのかな』と疑問に思ったが、『電気でお腹がいっぱいになるんだ』と解釈した。
八歳の私の荒唐無稽な想像を知る由もない父が話を続ける。
「蛇は、いないよ」
「えー? どうしてー?」
「どうしてって、んー、蛇がいたら、噛みつかれちゃうよ」
なるほど確かに蛇がいたら、いつもパソコンの前で仕事をしている父は、何度となく噛まれてしまう。しかし、今までそんな場面は見たことはない。
納得した私だが、ではなぜ父が『蛇』と言ったのか疑問に思う。
「でも、ヘビなんでしょ、これ?」
私は、もう一度ディスプレイを指差した。指先が『リムーバブル・スネイク』という文字列を指している。
「スネークっていうのが、蛇っていう意味だよ」
「なんで?」
「スネークは英語で、日本語じゃないから。ほら、これ、蛇みたいでしょ?」
パソコンの側面に繋がっているコードの一本を摘みながら、父が言った。コードの先には記憶媒体が接続されている。コードを見ても、蛇には見えない。
「頭は?」
「頭? んー……ここかな」
黒いコードのパソコン側のUSB端子を指差す父。USB端子が頭だと言われた私は、ますます蛇に見えなくなる。
「目は? 口は?」
不満気に言った私を宥めるように、父が微笑む。
「リムーバブル・スネイクのモデルは、コトヅテっていう蛇でね。カナちゃんが産まれる前くらいまでは、この辺にもいたんだけどね。もう、絶滅しちゃったみたい」
父の話の意味を一割も理解できず、さして興味もなかった私は、それ以上、コトヅテやリムーバブル・スネイクに関する質問はしなかった。
そのあと、コトヅテのことをいつ知ったのか、よく覚えていないが、大人になる頃にはコトヅテの知識を大雑把に持っていた。
コトヅテに噛まれると、大切な人の夢を見ることがあるらしい。
※
書斎で一頻り泣いたあと、コトヅテを探そうと思い立ち、玄関へ向かった。否、本気でそんなことを考えたわけではなく、懐かしい風景を見よう、夕日も綺麗だし、きっと良い気分転換になる、という考えと一緒に出てきたジョークのような思いだった。
玄関の扉を開けて、一歩踏み出す。
瞬間。
鋭い痛み。
脳が反射的に左足を引っ込めた。
玄関の扉を閉めながら、スカートから出ている左足を確認すると、ふくらはぎ辺りに二筋の血が流れている。傷口を確認しようとしたところで、突然、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
玄関の外には、母が立っていた。
「おかえり。コトヅテいた?」
私の中から、父の声が聞こえる。
ああ、そうか。
私は父なのだ。
散歩から帰ってきた母を迎えている父だ。
「全然。ほんとにもういないんだね」
「そうだね……まあ、でも、いたらいたで、君が噛まれたらシャレにならない」
残念そうに呟いた母を、父が慰める。
父の視線の先には、臨月を迎えた母の大きなお腹があった。
母のお腹には、白いシーツが掛かっている。
否、お腹だけでなく、首から下すべてに白いシーツが掛かっている。
顔にも白い布。
ベッドの上で横たわる母。
「香菜子は、絶対に、僕が、育てる」
父が泣いている。
白い布が、そよぐ。
開け放たれた窓から吹き込む風が、真っ白なレースカーテンを揺らす。
窓の外の眩しい新緑を、年老いた父が眺めていた。
「約束、守れただろ? ……そろそろ、そちらへ、行くよ」
父の前にいるコトヅテが、青い瞬きで返事した。
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