お題「温泉」「師匠」「居間」
「ふんふんふーん……おっと」
いけないいけない。
黙って入浴しないとね。
久しぶりに温泉旅館の大浴場に来たから気分が上がっちゃった。
黙食。
黙浴。
このご時世、生きながらえているお店や施設に感謝して、協力しながら楽しむスタイルだ。
掛け湯をして、広大な湯船へ。
先客だ。
老人のようだ。長い白髪を頭頂でソフトクリームのように巻いている。
気味が悪いな。離れてようっと。
タオルを三つ折りにして頭に乗せて、ゆっくり湯船へ。
「そこな若いの」
老人が嗄れた声をあげた。
気にしない気にしない。
他人のふり他人のふり。
「そこなタオルを三つ折りにする珍しい若いの。四つ折りにする者が多い」
「うぐっ」
僕のことのようだ。
「な……何ですか?」
「ふむ……」
老人が水面から首だけ出して近寄ってきた。よく見れば、髭も頭の上に巻き上げられており、相当な長さであることが予想できた。
「若いの、よくやった。湯船に浸かる前に掛け湯をするのは正解じゃ」
「は……はあ」
有耶無耶にして会話を終わらせたい僕の意思とは裏腹に、老人は話し続けた。
「掛け湯は身体の汚れを落とすだけではなく、他にもメリットがある。わかるか?」
「いや、そういうの間に合ってるんで」
「急激な血圧上昇を抑え、脳出血のリスクを低減するのじゃ」
「放っといてください。何なんですかあなた」
「わしか?」
苛つく僕に、老人は不敵な笑みを見せた。
「わしは温泉師匠じゃ」
さてと、風呂の後は楽しみな夕食だ。
小宴会場にぽつんとお膳。これも当世スタイル。
もう一人、先客が……げっ、さっきの老人だ。髪も髭もめっちゃ長い。よくこの短時間で乾かせたな。
「陶板に火を点けますか?」
「え? あ、はい。お願いします」
仲居さんに言われて、流れで陶板焼きの固形燃料に火を点けてもらう。
(いただきまーす)
老人は他人だし、声とか出さないほうが先方も安心……
「若いの」
「喋るんかい!」
「そう驚かんでも」
若干しゅんとなる老人。
あっちも一人旅か。
「食事に時間がかかりそうなら、火は後で点けてもらってもいいんじゃぞ。アツアツを食べたほうが美味しい」
「大丈夫です間に合うんで。何なんですかあなた」
「わしか? わしは温泉師匠じゃ」
帰宅。
安堵と同時に寂しさが湧いてくる瞬間。
何だったのだろう、今回の旅は。変な老人と何度も鉢合わせになって、苛つかされた。
「さて……」
旅から帰ったら、大洗濯祭りだ。
旅館のハンドタオルが出てくる。客室の物干しで乾かしたそれは、微かに温泉の香りを振り撒いている。
「そのタオル、縁にリネン屋のタグがついておろう」
「うわっ!」
例の老人だ。
「どこから湧いてきた、てかどうやってウチの居間まで入ってきた⁉」
「そんな些細なことはとうでもええ。ハンドタオルの縁にリネン屋のタグがあるじゃろう。見てみい」
「全っ然些細じゃないし……あ、あった」
「それは持ち帰れないタオルじゃ」
「まずいな。明日から仕事だよ。封筒か、エ○スパックで送るか……」
「いや。わしが返してしんぜよう」
「えっ?」
何しに来たのかと思えば、まさかそのためにウチまで伝えに来てくれたのか?
「あなた、一体……」
「わしか? わしは温泉師匠じゃ!」
老人――温泉師匠はハンドタオルを引っ掴むと、口で「ドロン」と言って煙を巻き上げて消えてしまった。
こんな小さなこと……と、客が思っていることでも、旅館にとっては積み重なって大変なことになるのかも知れない。それをあの老人は伝えたかったたのかも知れない。
「ありがとう、温泉師匠〜!」
「感謝の気持ちはグッドボタンとチャンネル登録で。ツ○ッター、フェ○スブック○ンスタグラム、テ○ックトックの登録も忘れずにな!」
「そこは余韻残して消えとけよ!」
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