お題「橙色」「坂道」「わからない」
幼い頃の話をしよう。
僕が小学校へ通う通学路には、長い登り坂があった。
路肩を通る僕の楽しみは、毎朝追い抜いていく橙色のスポーツカーだ。
そのスポーツカーの名前が『ランボルギーニ・アヴェンタドール』というのだと知ったのは随分後になってからだが、当時の僕にとってはそんなことはどうでもよかった。
僕は、その橙色の暴れ牛を手足のように駆る女性に恋をしていたのだ。
着座位置が低いので身なりはわからなかったが、左ハンドルの運転席から垣間見る彼女は知的な美人で、いつも自信に溢れた表情をしていた。
ある大雨の日。
傘に上半身を埋めた僕の横を、いつもの時間にアヴェンタドールが追い抜いていく。
いつもと違ったのは、そこに水溜まりがあったこと。
僕は胸から下に水溜まりの水をかぶった。
別にどうってことはない。雨降りであれば水溜まりの水を車が巻き上げることはありうるし、その水が彼女の車が巻き上げたものならなおさら何も言うつもりはない。
二十メートルほど先で、アヴェンタドールが停車する。
そして、右側のドアが跳ね上がった。
彼女が傘をさして近づいてくる。知的な顔に申し訳なさそうな表情を浮かべて。
「大丈夫? ごめんね」
彼女は花柄のハンカチで僕の全身を擦った。
そんなことで服が乾くわけではないが、砂は落ち、彼女の謝罪の気持ちは伝わってきた。
僕にはそれで十分だった。
が、
左側の窓ガラスが開いて低く落ち着いた声が響いた。
「悪かった、少年。飴をやるから勘弁してくれるかい?」
その言葉に彼女は少し怒った声で、
「物で釣っては失礼よ、あなた」
と答えた。
僕の初恋は終わった。
その後、僕は指定の通学路を通らないで学校へ通うようになった。
アヴェンタドールの姿は見ていない。
彼女がその後どこへ行ったのかは、わからない。
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