第35話 天使は曲がったことが嫌い

 誰だって誘惑に負けることはあるだろう。特に俺は意志が弱いことを自覚していて、この時はかなり辛かったことを覚えている。


 図書館で真栄城夏希に言われるがまま、宿題を写す一歩手前まで来ていた俺の前に現れた学園の天使、海原春華はいつもどおりにニコニコと笑っていた。


「おいおい。ラインで話はしていたけど、まさか本当に来たのかよ」


「えへへ。部活が終わってやることなかったから、来ちゃった」


 ここでさっきまで微笑を浮かべていた夏希の顔が、若干だが険しくなったのが直視しなくても解った。少しばかり嫌な予感がしてくるんだけど、このポジションは逃げ道がない。


「ねえ。私も一緒に勉強したいな。混ぜてくれる?」


「ああ、別にいいんじゃないか」


「ちょっと待ってよ。別にあたし達、勉強をしにきたワケじゃないでしょう」


「え?」


 天使の大きくて丸い瞳がさらに丸くなり、徐々に好奇心が膨れ上がっていくのが解る。


「なになに? じゃあ何だったの。ねえ、ここ座っていい?」


「え? お、おう」


 春華は俺の右隣にその小さなお尻を降ろし、どういうわけか天使と悪魔に挟まれることになってしまった。これは異常事態だ。


「簡単な話よ。アキが宿題に手間取っているようだから、あたしが写させてあげようと思ってるの」


「お、おいおい。ストレートに言い過ぎだって」


「え……えええ!」


 学園の天使は茫然とした顔になり、俺と悪魔を交互に見て目をパチパチとさせる。ちょっとテンパっている姿も愛らしいというか、光を放たない時は一秒もないかもしれない。反対に悪魔はみるみる不機嫌度が増しており、ちょっと怖くなってきたほどだ。闇オーラ全開。


「アキってば、どうしてそう口が軽いのかしら。別に彼女に教える必要なんてなかったでしょ」


 夏希は本当に微かに、俺にだけ聞こえる声で囁いた。確かにそうだったかもしれないが、言ってしまったものはどうしようもない。それより問題は夏休みの宿題だ。どうしようかなとシャープペンを握り、二つの宿題を眺める。すると天使は眉尻を下げつつも顔を近づけ、


「ダメだよ秋次くん。宿題を写してもらうなんてズルしちゃダメ。私が教えてあげるから、ちゃんと勉強しようよ」


 彼女は正しい。天使の一言に、何だか目が覚めた気がした。


「う! そ、そうだよな。春華、お前の言うとおりだ。俺はどうかしていた」


 どうしてこんな簡単な回答に躊躇していたのだろう。俺は夏希に宿題を返そうとした。


「もう。固いこと言わないの。あたしが宿題を見せてあげることなんて、普通あり得ないことなのよ。今だけなのに、いいの? 本当に」


「……そんな期間限定みたいな言い方されちまうと、勿体ない気持ちになってくるな」


 やっぱり写そうかな。ティッシュ一枚より薄っぺらい意志の持ち主かもしれない俺は、またしても悪魔の宿題に手を伸ばそうとしてしまう。


「ダメだよ! そんなことして楽をしたって、結局は後々自分が苦労することになるんだよ。絶対ダメ!」


 そうだ! これは破滅への道だ。


「確かにな! ズルをして落ちていく奴ってドラマでも映画でもいっぱいいるもんな。やっぱりここは真っ当に。うお!?」


 気がつけば春華の左肩と、夏希の右肩に挟まれていることに気がつく。なんてことだ。これがもう少し体の中心にある二つの物体であれば鼻血を流して倒れているだろうが、肩だって充分に柔らかい。宿題云々がどうでもよくなってきた。


「いいじゃないの! 海原さん。あなたったら真面目に考えすぎなのよ。人生にはこんな時だってあるの」


「みんな頑張って終わらせているんだよ。真栄城さんは生徒会長なのに、ズルをさせるなんて絶対ダメだよ」


「ちょ、ちょっと待ってくれお前ら。落ち着け、な? 落ち着いてくれよ頼むから」


 二人は徐々に俺をそっちのけにしてヒートアップし始めている。同時に柔肌がギュウウっとくっついてきてしまい、そろそろ気が変になりそうだった。俺だけがテンパっていると、図書館員のお姉さんがテーブル前までそそくさとやってきて、


「すみません。お静かにしてもらえますか?」


 だが、あまりに苛立った悪魔には図書館員さんの小さな注意は耳に入らなかったらしく、


「アキ! 早く写しなさいよ。正しいことばかりでは生徒会長は務まらないのよ。あたしは目的の為ならどんな手も使うわ!」


「目的って何だよ目的って」


「どんな時でも真面目にやらないとダメなの。秋次君なら解るよね? 真栄城さん、目を覚まして!」


「すみません! 本当にお静かに願います」


 気の毒な図書館員さんの声は、多分俺以外には聞こえてない。


「あたしはいつだって正気だわ! みんなあなたのように何でも器用にはこなせないのよ。たまにはズルをすることだってある。それが人間よ!」


「きゃああ! ま、真栄城さん。まさか開き直るなんて。このままじゃ悪人になっちゃうよっ」


「頼むから落ち着けお前ら。な?」


「すみません。本当に静かにしていただけないと、」


「もう! こうなったら、あたしが書き写してあげるわ! 貸しなさい」


 さっと俺の宿題を掴み取る悪魔。だが奪われまいと天使もまた宿題を掴む。


「ちょっと!? やめて、真栄城さんやめてー」


 凄いことになってるわ俺の宿題。っていうか破れそうだったので、流石に立ち上がって止めにかかるが、二人は完全にバトルモードに入っていてもう止まらない。


「やめろって。二人とも、ちょっと」


「いい加減にしなさい!」


 物凄くドスの利いた図書館員さんの声が突き刺さり、さっきまで宿題を引き裂かんばかりに引っ張りあっていた二人の手が止まり、ぬいぐるみみたいに大人しくなる。


「出て行きなさい!」


「は、はいい」


「ごめんなさいね。あたしの連れが」


「お前だって騒いでただろ!」



 図書館を追い出され、俺達三人はとぼとぼと駅までの道を歩いていく。こんな経験は人生でも初めてだし、きっと今後も経験することはない気がした。そういえばこの数ヶ月、よくも悪くも初体験だらけである。


 大きな川にかけられた長い橋を渡りながら、左隣を歩いている天使はまだ心配そうな顔で、チラチラとこちらの様子を伺っていた。


「ごめんね秋次君。私達のせいで追い出されちゃって」


「気にするなよ。悪かったのは俺だ」


「あら? 反省するのは良いことね」


 右隣を歩いている夏希は、全く気にかけてもいないとばかりに、ツンとした横顔だった。こういうところで、みんな彼女を悪魔だって思うんだろうよ。しかし一緒にいると、そんなに悪いやつでもない気がしてきたから不思議だ。


「お前が一番声を張り上げてたけどな」


「まあ、悪かったとは言っておくわ。で、どうするの? 宿題、貸してあげましょうか」


「あー! まだ諦めてないの? 真栄城さんのネバーギブアップ執念凄い」


「聞いたことない表現だな。いや、やっぱ遠慮しておくよ」


 俺の言葉に、天使も悪魔も目を丸くした。


「ズルはいけないな。どんなに苦しんでも、やっぱりちゃんと自分でやらないと」


「偉い! 秋次君。やっぱり真面目だね」


 天使は今日一番の笑顔を浮かべ、悪魔は神との戦いに破れたみたいに悔しそうな表情を浮かべる。


「く! あとちょっとだったのに」


「あとちょっとでどうなってたんだ?」


「べ、別に!」


 そっぽを向いた夏希とは対照的に、春華はかなりテンションが上がっている様子で、今にも橋の真ん中で躍り出すんじゃないかと思ったほどだ。


 それから数日は平和な日々を過ごしていたが、まあ嵐の前の静けさってことだったんだろう。伝統文化研究部の夏休み活動第二弾は、想像していた以上にハードかつ大変な一日になったのだから。

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