六趣の木
いつかの喜生
第1話 口づけ
季節は冬、月は2月、身体が凍えそうな北風が吹きつける季節。
1人のスーツ姿の青年が、とある海の砂浜で、黄昏ているのか、海を見つめている。
彼の名前は、武田貴史。
どうやらリストラされてしまい、途方に暮れているようだ。
貴史の人生は就職するまでは、ほどほどに順調だったと言える。
中学では勉強はそこそこ出来たし、部活はバスケ部でレギュラー、高校では部活はしなかったが、たくさんの友達にも恵まれ、楽しい高校生活を送った。
その後、就職したは良いが、すぐに会社の業績は傾き、まだ仕事を覚えていない新人だった貴史がリストラ対象となってしまったのだ。
ただ、海を眺め、ちょっとでもリフレッシュ出来るかと思って、来てみたものの、なぜか海の青に吸い込まれるかのように、自然と足が海へ向かい歩いて行く。
気がつけば腰辺りまで海水に浸かっていた。
波が押し寄せ、顔面に海水を被る。
ハッと我に返った貴史。
「何やってんだ俺?」
岸に戻ろうと振り返ったその時、ドボンッという大きな音と共に、水しぶきが貴史の背中にかかった。
貴史がもう一度沖の方を振り向くと、女性が立っている。
見た目に20代前半といったところだろう。 それだけでも驚いたが、衣服を身につけていなく、胸が丸見えなのだ。
海水は腰までなので上半身しか見えないが、明らかに裸。
おそらく下半身も何も身につけていないだろう。
貴史はなんて声を掛けて良いのか分からず、ただ黙って見惚れていた。
するとその女性は両手を貴史の頬に当て、顔の自由を奪い、貴史の瞳を見つめる。
女性の顔が接近してくる。
貴史は自分の心臓の音が、その女性に聞こえるのかと思えるほどドキドキしていた。
ほどなく女性の唇が、貴史の唇に重なる。
海の中で体温が奪われているはずなのに、すごく温かく、そして柔らかな唇だった。
おそらく貴史は頭の中は欲望に満ちていただろう。
リストラのことなんて当然忘れて、その快楽に酔いしれていた。
「痛い」
急に唇に痛みが走った。
女性は貴史の顔から手を離し、少し離れた。
微笑んでいる。
その笑みが、愛らしくもあり、不気味にも思えた。
「終わりの始まりよ」
「え?」
貴史には何んの事かさっぱりわからない。
なんだろう?急に波が鎮まった。
静かな海。
バジャバシャバシャと音をたて、今度は無数の手だけが海面に現れ、その女性を捕まえ、海中に引きずり込んだ。
貴史は怖くなり慌てて、海から上がり、バイクに乗り、その場を離れた。
色んなことが頭の中で困惑していた。
突然現れた女性、その女性とのキスの気持ち良さ、さらに海面に現れたその彼女を海に引きずり込んだ無数の手。
そして噛みつかれた唇の痛み。
ヒリヒリと痺れ、血が止まらない。
次の三叉路を右折すれば自宅に着く。
その三叉路の手前に見たことのある女が立っている。
あっ……貴史は幼なじみの流美と映画に行く約束をしていたのを忘れていた。
気まずそうな顔をしながら、貴史は流美の前でバイクを停車させた。
「うそつき」
「ごめん、色々あって忘れてたよ」
「女だな?」
流美は幼なじみだけあって、鋭い。
「けど、それだけじゃないよね? お姉さまに言うてみ」
貴史と流美は同い年だが、流美はすぐにお姉さんぶるのである。
「てか、あんた、就職祝いに親に買ってもらったバイク、すごい濡れてるし、シートもベショベショだよ。あんたもずぶ濡れじゃない この寒いのにまさか服着たまま海水浴でもしたとか?」
本当に鋭すぎて、貴史はとりあえず今は流美から離れるべきだと判断した。
「ごめん、この埋め合わせは絶対今度するから」
再びバイクに跨り、自宅へと戻った。
とりあえずシャワーを浴びようと服を脱ぎ、浴室に入った。
温かいシャワーで身体中の海水を流し、シャンプーで、頭を洗い、ボディーソープで体も洗った。シャワーの、温かさで緊張が解け、その場に座り込んだ。
唇の血がまだ止まらない。
「あの女はなんだったんだ」
シャワーを終え、髪を乾かし、着替えを終えた貴史は、流美に誤りに行こうかなと、玄関を出ようとした時、兄の章雄が声をかけてきた。
「お前さ、今日は仕事は?なんでこんな真っ昼間にシャワー浴びてんの?」
なぜだか分からないがその言葉に苛立ちを感じた貴史は、兄の章雄に掴みかかり、肘打ちを顎に当て、そのまま兄を倒し、馬乗りになり、ボッコボッコと拳で滅多打ちにしたのだ。
「痛い やめろ」
章雄は叫んだ。だが家の中、声は誰にも届かないかと思ったが、突然 玄関のドアが開き、現れたのは流美だった。
「貴史やめて」
背後から貴史を抱きしめ押さえつける流美。その声と流美の香りに、ふと正気に戻った。
「俺は何を」
貴史自身も自分に何が起きているのか分からなかった。
だがあまりの気まずさに、無言で家を飛び出し、バイクで走り去った。
章雄は呆然としている。
「あの大人しい貴史が兄の俺に襲いかかるなんて」
「だよね。あの貴史があり得ないよね」
章雄も流美も何がどうなって、貴史がそうなったのか、ただただ考えていた。
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