第8話 ほら怖くない


「シマダタカシ、魔物は人の心を読みます。友好的で穏やかな気持ちになるように努めて、彼女とお友達になりたいと考えてください」


「無茶を言わないでくれ、俺はイカとかタコみたいな軟体動物は苦手なんだよ」


ヤースミーンはイカの化け物と言ってもいい形態のクラーケンと仲良くしろとご無体なことを言うが、それは生理的に無理と言っていい話なので貴史は必死に反論する。


森で捕まえた小動物ならともかく、相手は体調が数十メートルという単位できかないくらいの巨大な魔物だ。


吸盤をうごめかせながら触腕の一本がこちらに寄って来るのを見ると、貴史は思わず剣を振り上げていた。


「シマダタカシ戦っちゃだめです!その場面で自らの身体を差し出して、彼女に「ほら怖くない」と言い聞かせてあげるのです」


「そんなこと出来る訳ないだろ!勘弁してくれ!!」


ヤースミーンは再び無理なことを貴史に強いるので貴史は怒鳴り返した。


クラーケンは体の半分以上を水面上に現し、足の付け根にある口の部分も貴史の目に触れる。


大きなくちばしがある口に運ばれたら、人間の身体など瞬時に咬み切られてしまうはずだ。


「ほら怖くない」どころか怖いのは貴史は気持ち悪い上に恐ろしくて鳥肌が立ちそうだ。


「シマダタカシが無理なら私がお手本を見せてあげますよ」


ヤースミーンは矢を装填したままのクロスボウに暴発防止のロックをかけると地面にそっと置いた。


そして貴史の脇をすり抜けると、吸盤の付いた腕の蠢く先端部分の前に自ら進み出ていく。


クラーケンの吸盤は一つが10センチメートルを超える大きさがあり、腕の付け根寄りの太い部分や、獲物を捕らえるための触腕の先端部分では吸盤一つの特恵が30センチメートルほどもある。


それぞれの吸盤には獲物を逃さないためのとげが付いており、人間は吸盤に吸い付かれただけでも重傷を負いかねない。


「ヤースミーン、無理をしないで!魔物と気持ちを通じあえたらいいけど、失敗すれば命を落としかねないわ!」


貴史はアンジェリーナがヤースミーンを止めに入ったことでホッとしたが、クラーケンの足はさらに貴史達に迫っている。


貴史は無意識のうちにヤースミーンとアンジェリーナが立っている位置より前に出て二人を守ろうとしたが、ヤースミーンが戦うなと言っていたために攻撃することができず、中途半端に棒立ちしている状態になってしまった。


クラーケンはそんな状態の貴史を見逃すことはしなかった。


「うわあああああ」


クラーケンの触腕は吸盤のとげを貴史の身体に食い込ませたうえで更に巻き付いて貴史の自由を奪っていく。


貴史は剣を持っている片手がかろうじて自由が利くので、どうにかして剣を持ちなお

し、自分を拘束するクラーケンの触腕に突き刺そうと躍起になった。


その時、貴史の耳にヤースミーンの声が届いた。


「シマダタカシ、怖くないと念じるのです」


貴史はやっとのことで剣を逆手に持って自分に巻き付いたクラーケンの触腕に突き刺そうとしていたが、ヤースミーンの声に動きを止めた。


しかし、眼下には水面下に見え隠れするクラーケンの口の中でカラストンビと呼ばれる巨大な牙とも嘴ともつかない物体二つが開き、その奥には漆黒の闇しか見えない。


このままでは、貴史はカラストンビで切り刻まれてクラーケンの胃袋に収まってしまう可能性が高い。


「今すぐ仲良くなるのはむりだと思う。悪いが脱出させてもらうぜ」


貴史は自分が持った刀を突きさして、活路を開こうとしたが、そのクラーケンの触腕の皮膚がグズグズに崩れていることに気が付いた。


クラーケンを始め、タコやイカの類が脱皮するという話は聞いたことがない。


貴史がクラーケンの身体に目を移すと、貴史を捉えている触腕だけではなく、皮膚が

崩れた領域は広範囲に及んでいるのがわかる。


「シマダタカシ、隙を見て逃げるんだ」


「そうよ。そのままでは食べられてしまう」


タリーとアンジェリーナはヤースミーンとは違って常識的にクラーケンから逃げて身の安全を図るべきだと考えているようだ。


貴史は自分の身体を締め付ける触腕や吸盤から逃れようと身をもがいたので、吸盤のいくつかは千切れて落ちていき、周辺の皮膚はズルズルと剥けていく。


貴史はアンジェリーナが、自分たちの村がクラーケンに襲われた時ララアが強力な冷気の魔法を使ってクラーケンを撃退したと言っていたのを思い出した。


ララアの冷気の魔法は、彼女がガイアレギオンの軍団と戦った時に、大半の兵士を氷漬けの死体にしてしまったほど強力なものだ。


「お前は、ひどい凍傷を負っているのに子供たちを守るために戦おうとしていたんだな」


クラーケンが負った凍傷は、動けば皮膚が崩れてしまうほどひどいものだ。

それなのに無理やり動いて戦えば、ひどい苦痛を感じているのは想像に難くなかった。


「俺は戦うつもりはないから、お前も水の中に戻って休んでくれ」


貴史はクラーケンに向かって呟くと、触腕に突き刺そうとしていた刀を放り出した。


刀は洞窟内のわずかな岩棚の縁に落ちて冷たい金属音を立てる。


「彼は力尽きたみたいよ。魔法を使ってあの腕一本を燃やして助けてあげなさいよ」


アンジェリーナが暗い声で言ったがヤースミーンは反論する。


「違いますよ。クラーケンの動きを見てください」


ヤースミーンの言葉通りに、クラーケンは貴史をゆっくりと陸の上に降ろし、巻き付いた触腕を解き始めた。


壊死していた吸盤のいくつかは触腕から脱落して貴史の身体に残ったままだ。

やがて、クラーケンの身体は水面下に没し、陸上に伸びていた触腕や腕も次第に水中へと戻っていく。


「シマダタカシ、あなたならできると思っていました」


ヤースミーンが貴史に飛びついたので貴史の身体にくっついて残っていた吸盤が数個地面に落ちた。


吸盤のとげが刺さっていた個所からは血がにじんでいたが、貴史は嬉しそうに答えた。


「あのクラーケンはララアと戦った時に重い凍傷を負っていたんだ。それなのに無理をして戦おうとするからあちこちで壊死した皮膚や吸盤が崩れ始めていたので、俺は戦うつもりはないから休んでくれと念じたんだよ」


「それをクラーケンが感じ取ってくれたのね。すごいわ、あなたはきっと辺境一のクラーケン使いになれるわね」


アンジェリーナがうれしそうな声で言うが、貴史は慌てて打ち消す。


「クラーケン使いになんかなりたくないよ」


貴史は慌ててアンジェリーナに言うが、アンジェリーナとタリーは真剣な貴史の顔を見て笑い始めるのだった。

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