第1章 昭和17年秋

第2話 昭和17年秋 

 昭和17年の9月、全国の高等学校で卒業式がおこなわれた。戦時措置によって修業年限が短縮されたことによる、異例な時期での卒業式だった。中国との戦争は泥沼と化し、収束へのあてがないまま6年目に入っていた。アメリカとの戦争は9カ月を経て、その先行きには暗雲がひろがりつつあった。

 松江高校を卒業した森山良太と岡忠之は、大学へ進むために東京へ向かった。良太が選んだ学部は法学部であり、忠之は同じ大学の工学部であった。

良太と忠之は出雲の同じ村に生れた。ふたりは小学生のころから親密であったが、村での立場は異なっていた。良太は小作農家の長男であり、忠之は地主の家の長男だった。

 良太と忠之は互いに競い、励ましあって努めた結果、ともに大学への進学をはたした。中学校から大学に至るまで、良太は忠之の父親から学資の援助を受けることになったが、大学を無事に卒業できさえすれば、返済に苦労することはないはずだった。


 良太はお茶の水駅の近くに下宿をきめた。部屋は狭かったけれども、寝起をするには充分だった。ふとんの枕元にはまだゆとりがあって、寝床に入ってからも読書ができた。

 忠之が選んだ下宿は本郷の浅井家だった。1年前に当主を亡くした浅井家では、5人の家族が大きな家の階下でくらし、ふたりの大学生を2階に住まわせることにしていた。

 入学式の前日、良太はお茶の水から歩いて忠之を訪ねた。

 戦時下での学生生活を論じていると、若い女の声が聞こえた。

「岡さん、お茶を持ってきましたけど」

 良太が振り返ると、入口に立っていた少女が笑顔で会釈した。

「ありがとう、チヅさん。せっかくだから紹介するよ」と忠之が標準語で言った。

「こいつは森山良太といって、小学校からの友達なんだ」

「森山です、よろしく。忠之の・・・・岡の幼友達です」と良太も標準語を口にした。

 チヅと呼ばれた少女が、「千鶴といいます。よろしくお願いします」と言った。

「薬専の1年生で、将来は薬剤師さんだ。洋子ちゃんがいなければ、俺が名乗りをあげるところだが、俺には浮気心というものがないからな」

 千鶴が盆をおき、「岡さんにはお好きな方がいらっしゃるんですか」と言った。

「ほんとは、まだ片想いみたいなもんだけど、こいつの妹なんだ。応援してくれるんだよな、良太」

「わかってるよ、忠之。がんばってくれ」

 千鶴にすすめられ、良太は湯飲み茶碗に手をのばした。

 良太が茶を啜ると、千鶴は「失礼します」と言いながら立ち、部屋から出ていった。

「あの千鶴さんのこと、どげなふうに感じた。よさげなひとだろが」と忠之が言った。

「挨拶をしただけだからな、どげ思うかと言われても、答えようがないよ。感じのいい人だとは思ったども」

「俺の見るところでは、お前にぴったりの人だよ。保証してもいいくらいだ」

「保証するって、俺とあのひとの仲をとりもつ気か」

「そげなことせんでも、お前らはいい仲になるような気がするんだ」と忠之が言った。


 10月1日に入学式があり、それから間もなく講義が始まった。

 少しばかり回り道をすれば浅井家に立ち寄れたので、良太は大学からの帰りにときおり忠之を訪ねた。

 数日ぶりに立ち寄ると、忠之は漱石の〈こころ〉を読んでいた。

「お前は漱石をほとんど読んだじゃないか、高校に入ってすぐの頃に」

「この家には漱石のものが揃っていると聞いて、千鶴さんからこれを借りたんだ。いいもんだぞ、小説を読みなおしてみるのも」

「小説もいいけど、ほどほどにしておけよ。軍事教練に時間をとられるうえに、年限を短縮して卒業させられるんだから」

「俺には小説が薬になるけどな、頭を柔らかくしておくための」

「薬もほどほどがいいんだよ、過ぎると毒になるから」

 心待ちにしていた千鶴の足音が、部屋の前の階段から聞こえた。

 いつものように、千鶴はふたり分のお茶をもち、にこやかな笑顔で入ってきた。

「浅井さんに頼みたいことがあるんだ」と良太は言った。「忠之が小説を読み過ぎないように監視してくれないか。小説に誘惑されると意志薄弱になるんだよ、忠之は」

 千鶴が声にだして笑った。「どうしましょうか、岡さん。私でよければ監視役をお引き受けしますけど」

「わかったよ、ご両人。小説は勉強の息抜になるけど、月に1冊くらいにしておくよ。それくらいは許可してくれよな、千鶴さん」

「あのね、森山さん」と千鶴が言った。「岡さんから千鶴と呼ばれて、森山さんからは浅井と呼ばれるのって、おかしな感じですから、これからは千鶴と呼んでください」

 意外なその言葉を良太は嬉しく聞いた。

「そう言われても、ちょっと気がひけるな」

「千鶴さんはお前のことを、これからは良太さんと呼ぶそうだぞ。お前が遠慮したら、かえっておかしいじゃないか」

「そうですよね、そのほうが呼びやすくていいわね」と千鶴が言った「岡さんは、忠之さんと呼ぶより岡さんの方が呼びやすいから、今までと同じにしましょうか」

「わかっただろ、良太。手順と方法が正しければ、何事もうまくゆく、というわけだ」

 口を開きかけた良太をさえぎるように、忠之が「あのな、良太、ここにはトーマス・マンやロマン・ロランもあれば、ヘーゲルだってあるんだ。お前が読みたいような本もあると思うぞ」と言った。

「大学の図書館を利用できるんだから、遠慮しておくよ」

「遠慮なさらないで。よかったら書斎に案内しますけど。隣の部屋の隣ですから」

 良太の知るかぎりでは、書斎のある家はなかった。書斎というものを見物できる、得がたい機会がいきなり訪れた。

 案内された書斎は、8畳ほどの広さで板敷だった。部屋の北側は一面の書棚になっており、個人の蔵書と思えないほどの書籍があった。その部屋は千鶴と妹の勉強部屋として使われているということで、東側の窓際に机がふたつ置かれていた。

「この通りだよ、良太。相当なもんだろう」と忠之が言った。

「父が集めたんですよ、これをみんな。私と妹があまり読まないものだから、この本たちが、読んでほしい読んでほしいと言ってるみたいです。岡さんや森山さんが・・・・良太さんが読んでくださったら本が喜びますよ、きっと」

 書棚にはさまざまな分野の書物があった。忠之が黙って指を触れた書物には、資本論という文字が見られた。

 書棚をひととおり眺めてから、良太は資本論に関わる書物をぬきだした。マルクス主義は国から敵視され、弾圧されていたけれども、一部の人たちからは強く支持されているらしかった。そのことに高校時代から興味を抱いていた良太は、好奇心にかられるままに、その書物を借りることにした。


 良太は忠之の下宿を頻繁に訪ねた。忠之が不在で会えないこともあったが、むしろそのほうが良かった。読書を名目に訪れていながら、それにましての楽しみは、書斎で過ごす千鶴とのひとときだった。ときには千鶴に求められるまま、良太は生れ育った出雲の風物や暮らしぶりを語った。千鶴から故郷のことを聞かれるたびに、良太は喜びを感じた。

 年末が近づいた日の夕方、ふたりが書斎にいると、外出していた忠之が戻ってきた。

「お邪魔してもいいだろ」と忠之が言った。「嫌われるようなことはしたくないけど」

「勘ちがいするなよ、忠之。俺たちはそんな仲じゃないぞ」

「岡さんにはそんなふうに見えるらしいですけど」千鶴が良太に笑顔を向けた。「良太さんには迷惑かしら」

 その声と笑顔を嬉しく思いながら、良太は「迷惑どころか光栄だよ」と言った。

「光栄だなんて・・・・はずかしいけど嬉しいわ、そんなふうに言われると」

 良太が胸を躍らせながら言葉を探していると、おどけた口調で忠之が言った。「嬉しいじゃないかよ、良太さん。俺の予感があたったじゃないか」

「いいかげんにしないか」良太は苦笑しながらも強い口調で言った。「飲んでいるようだな。どうしたんだ」

「じつはな」と忠之が話し始めた。

 その日、忠之は叔父の乗艦が帰港している横須賀へ行き、叔父と食事を共にした。

「久しぶりに叔父と飲んだけど、ちょっと気になることがあるんだ」と忠之が言った。

 勝ち続けている戦況について聞きたかったのだが、戦争に関わることはすべて機密事項とのことで、叔父からは何も聞けなかった。叔父は笑顔を絶やさなかったけれども、その笑顔には、連勝している海軍の軍人とは思えない暗さがあった。そのような叔父を見ているうちに、忠之は疑念を抱いた。新聞やラジオは日本の有利な戦況を報じているが、大本営が発表する戦果というものを、素直に信じてよいのだろうか。

 忠之の話を聞いて良太は言った。「おぼえてるだろ、忠之、東京へ出てくる前に、オニカンノンと戦争の話をしたこと」

「米英との戦争が長引いたら大変なことになる、とオニカンノンが話したことか」

「工業生産力に差があるうえに、石油も鉄も向こうの方が圧倒的に有利だからな」

「オニカンノンって、誰ですか」

「俺と忠之の先生。ふだんは観音さまみたいに優しいけど、叱られるときには、鬼みたいにこわいからオニカンノン」

「戦争が長引けば危ないということは、もしかすると、アメリカとの戦争は、すぐに終わると考えていたのかしら、日本は」

「信じがたいことだけど、軍部のえらい奴等はそんなつもりだったんだろうな」

「軍部のばか者たちに国を任せたからだ、支那やアメリカとの戦争を始めて、こんな苦労をするはめになったのは。良太や俺にだって予想できたのにな、緒戦でどんなに叩かれようと、アメリカが講和に応じることはないだろうと」

「支那事変だって、もう5年になるのに、終わりそうな感じがしないわね」

「あのな、忠之・・・・淳蔵さんが支那で戦死した。俺もおとつい知ったばかりだ、親父からの手紙で」

「そうか・・・・・・戦死したのか淳蔵さんは。おれ達より学年がみっつ上だったから、まだ満で22か3じゃないか」

「たとえ敵でも、殺すことなどできそうにない人だよ、淳蔵さんは。どんな気持で死んだんだろうな」

「出征するときの壮行式では、淳蔵さん、威勢のいい挨拶をしていたけど、前の日に会ったときには、戦死をあんなに惧れていた。俺たちには励ますことしかできなかったけど」

「俺たちだから本心をさらけ出したんだと思うよ、あのひとは」

「俺たちが卒業するまでには終わってほしいよな、この戦争。戦死した淳蔵さんには申し訳ないけど、こんなくだらない戦争で死にたくはないからな」

「名誉の戦死だから、戦死は喜ぶべきだと言うひとがいるでしょ。身内のものが戦死したとき、そんなことを言われたら、もっと悲しくなると思うけど」

「戦争に駆り出す側の奴らは勝手なことを言うんだよ。俺の叔父は職業軍人だが、みんなでいつも安全を祈願している」

「ここで話されたこと、世間の人に聞かれたら誤解されますよね、きっと」

「おれ達の場合にはな、良太、オニカンノンみたいな先生を囲んで議論していたから、世間とは多少ちがった見方ができるわけだけど」

「ずいぶん違っていると思うぞ。お前も俺も支那事変を聖戦だと思ったことがないわけだし、アメリカとの戦争に勝てるとも思っていないんだから」

「あのな千鶴さん、ここで話したこと、誰にもしゃべらないでな、家のひとたちにも」

「大丈夫、誰にも話しませんから」

 千鶴の家族にかぎらず、良太と忠之が口にした言葉を耳にしたなら、それを非国民的なものと受け取り、不安や反発をおぼえるに違いなかった。

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