行方のない物語

じゆ

溶けて流れるように

目の前に広がる景色に心をさらす。風が、下から吹き上げる。眼下は波が岩を打ち、白波が立っている。

自然が低く唸るような音を出す。あと、一歩大きく足を踏み出せば、僕の体は重力に体を預けることになる。

「まだ、飛ばないの。」

誰もいなかったはずの方から聞こえた声に反射的に振り向く。振り向くと、そこにはあまりにも似合わない服装の少女がいた。きれいに着飾った人形のようだった。飛び上がった心臓はそのまま弾み続けている。

すらっと伸びた黒髪は温かさを孕んだ潮風に揺られている。風で乱れた髪をそっと指で直しながら彼女は言った。

「どうしたの。まさか、ここに景色を見に来たわけじゃないんでしょう。そこから、飛び降りるんでしょう。

 前の人みたいに。」

おしゃれを身にまとった少女からは似つかわしくないような言葉が流れてくる。雨上がりのようにジトジトした声に、それなのに、背筋がぞくぞくするような、冷たく鋭い声に、身震いした。

―――何者だ。こんなところに何でこんな子が……。

いぶかしげな視線を送った。舞踏会が似合いそうな少女のという、現実感がなくて、その成果、さっきまで無駄に弾んでいた心臓が落ち着きを取り戻していた。

「君は、何でこんなところにいるんだ。」

言いながら、愚問だと思った。一人でこんなところに来る理由はそう、多くはない。

「あなたと同じだと思うわ。」

さっきから、貼り付けたような微笑みを崩さず、なおも、感情の読めないような声で続けた。

「あれ、違ったの。そこから、たったの一歩足を進めて、何かに近づこうとする。」

この少女の言葉に恐怖を感じて理解した。もし、彼女の言う通り、彼女がここに来た理由が僕と同じなら自然と浮かんでくる疑問があった。

「どうして。どうして君は……。」

まるで続く言葉を恐れたかのようにのどが詰まった。詰まらせた言葉の続きを理解してるであろうに、彼女は物怖じせずに、飄々としていた。

「どうしてって、うーん。何だろうな。言うなれば,」

そう言って彼女はわざとらしく間を空けてから、かみしめるよう、ゆっくり言った。

「疲れたんだ。そう、疲れた。」

「疲れたって、いったい何に。」

聞いてから、怖くなった。何だろう、生きるのが疲れたとでもいうのだろうか。もし、そうなんだとしたら、そんなことで死のうと考えるなんて、よっぽどなんだな、なんて一人で考えていると、

「今、何で、たかがそんなことでなんて考えたんでしょ。」

見透かしたように言った彼女の声には初めて感情を帯びたようだった。

「そうだよね、『そんなこと』なんだよね。けど、私からしたら、みんな疲れているんだよ。疲れすぎなんだよ。」

「そうかな、学生なんて、特に男子高校生なんてもんは馬鹿で、暇を持て余しているようなもんだが。」

「学生だってだよ。暇だからこそ。皆はいらないことまで考える。考えすぎて言葉に縛られる。

 普通とか、流行とか、それこそ、皆って言葉にさえ。」

彼女は焦って、何かから逃げるように言う。さっきまでの彼女とは別人のようだった。

服装も相まって、人形のような無機質だったものが、必死に何かを伝えようとあがいている。

「普通ってなに。なんのこと。流行ってどれ。誰が決めたの。皆って誰、自分は一体どこなの。

 そんな言葉は辞書を引いても教えてはくれない。きっと、自分で決めている。」

彼女は、体を震わせながら、堰を切ったように

「普通って、言いながら、自分が相手にしてほしいことを押し付けている。

 流行って、言いながら、人とずれないように自分を自分で演じてる。

 皆のため、皆のためって苦しそうに言っていたら、皆に自分は含まれないの。

皆のため、皆のため、って言っているのに、どうして、あの子は悲しいの。」

「周りのせいにして、自分の欲を優先してる。」

彼女は荒ぶった感情を抑えるように、息を整えるように、言葉を切る。

「それって楽しいものなのかな。それって正しいものかな。」

少女の静かで、澄んでいて、もろい叫びは海の中に吸い込まれていくようだった。

「大人なんて、大ウソつきだよ。『正しくいなさい、普通でいなさい、皆に倣いなさい。』って、

 そう言ってる自分が、正しくも、普通でも、皆に倣っているわけでもない。」

彼女の声は、手でつかんだ砂がこぼれていくように、そんな風に自然と、心にしみた。

言葉が出なかった、いや、出せなかった。

「だから、ね。疲れたんだ。もう、そんなことを考えるのは。」

彼女は、感情をなくそうと努めた、が、涙は、止まることを知らない。

「なら、考えなければいいんじゃないか。」

彼女は、あっけにとられたような、僕の言葉が理解できないような表情をしていた。

「何、言ってるの。考えなかったら、わかんないじゃん。できないじゃんか。」

「分からないことを、そのまま、溜めていたらいつかは、いっぱい、いっぱいになっちまう。」

「溜め込むことはない、悩んで、悩んで、それでもわかんなかったら、言ってしまえ。

 嫌だと、きっぱり言ってしまえ。」

彼女は、言葉をゆっくり選びながら、言った。言い訳がましく。

「逃げてるだけじゃんか。皆から与えられたものから、逃げてるだけじゃん。そんなの……。」

「逃げればいい。そんなの気にならないほど、必死に、全速力で、どこまでも遠くに。」

「そんなんじゃ、やっぱり、何も変わってないじゃん、出来てないじゃん。」

「なら、逃げた後、心も体も大きくなって、考えるべき時に考えればいい。今考えず、未来の自分に託せばいい。」

すると、彼女は、さっきから、止まっていない、涙を隠すように俯けていた顔を上げて、微笑んでいった。

「さっきまで、その託すべき未来を手放そうとしていた人に言われても、全然響かないよ。」

そう言いながら、彼女は涙が浮かんでいた目を手でこする。

彼女は、高ぶった感情が静まっていくように、静かに泣いていた。けど、吹っ切れたような笑顔は浮かべたまま。

そうか、彼女はきっと、ここに来るよりも前から死んでいた。

死んでいるのに、生きていた。

生きているのに、死んでいた。

そんな、ジレンマに、放たれて、考えてしまったのだろう。

突然、顔に、冷たい何かが触れた。

「あ、雪。」

彼女の小さな声にこたえるように、空から、白い雪が舞い散っていた。

僕も、彼女も、黙っていた。黙って、曇天から降りしきる雪に思いをはせていた。

「なんだか、雪って、切ないね。せっかく、空から、降ってきたのに、気づいた時には溶けちゃって。」

「そうだな。とても、なんだか、報われてないよな。儚い。けど、その分一層美しい。」

曇天を彩るように、白い雪は降り続ける。振っては溶ける。

けれども、降っても、溶けて消えてしまう雪は、雲の合間から指した光に照らされ、

きらきらと散っていった。

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