僕は彼女の命

青りんご

僕は彼女の命

僕と彼女

 携帯のアラームが鳴り、僕は目を覚ます。いつもより早起きなので、少し眠かった。時計を見るとちょうど七時を指していた。顔を洗って服を着替える。鏡の前で身だしなみをチェックし、扇風機と電気を消して「行ってきます」とだれもいない部屋に声と鍵をかけた。


駅前の公園に向かい待ち合わせ場所近くのベンチに座った。時計を見ると七時五十二分、待ち合わせで時刻まで十分近くある。僕はカバンから本を取り出し、時間まで読んでいることにした。六ページくらい読み進めた頃、僕の隣に誰かが座った。

「おはよう、快人」

女性らしい高めの声がした。僕の待っていた彼女の声だ。

「おはよう、紗夜」

僕も彼女にあいさつを返し立ち上がった。「快人」とは「新藤快人」、僕のことだ。そして僕はどこにでもいる普通の大学院生である。「紗夜」とは「赤城紗夜」、僕の彼女だ。ひいき目でなくても、とても整った顔立ちをしていると思う。彼女は「癌」であり、今は入院をしていて病院で生活をしている。心臓の切除の難しい場所に肉腫ができていて、今は抗癌剤で治療を受けているが短くてあと二年、長くてもあと三年しか生きられないそうだ。

「今日はどこに行くの?」

「紗夜の行きたいところ」

「快人の行きたいところならどこでも」

そういわれると困るが、

「ショッピングモールに行くか」

僕はそう言って駅に向かった。

「うんっ」

紗夜は短い返事をして僕の後についてきた。



最近の近況報告をしながら、僕達はショッピングモールに向かった。ペットショップや洋服・雑貨屋など紗夜の行きたがった店をまわった。お昼もモール内のファストフード店ですませた。二時間くらい店をまわったのだが、紗夜が

「水族館に行かない?」

と言い出したので近くにある水族館に行くことにした。

ショッピングモールから歩いて十分くらいのところにある水族館に行った。入ってみると平日であるせいか人はそこまで多くなかったので、ゆっくり見ることができた。僕が水槽の中をじっくり見ていると紗夜は

「快人おそーい」

と言い出しっぺとは思えない発言をして、水族館の中で僕を引っ張りまわした。僕らはこれまでもデートをしてきたのだが、二年近くこんな感じだったのでそろそろ僕がリードするデートもしてみたいと思った。


水族館を出るころには日も沈み始めていて、時間を確認すると、すでに五時をまわっていた。駅に向かおうと交差点で信号を待っていると、一台の車が猛スピードでこちら側に向かってくるのがわかった。僕は彼女の手を引いて逃げようとした。しかし、彼女は動かない。いや、動けないのだ。体が震えているのがわかる。だが、もう車はそこまで来ていた。僕はとっさに彼女をその場から突き飛ばした。彼女を助けることはできた。でも、間に合わなかった。僕は車にはねられた。そのまま僕は宙を舞い、アスファルトの上に落下した。頭部を打って「即死」だった。気づいたときには、僕は自分の死体の隣に立っていた。しばらくすると、救急車がやってきて僕の体と紗夜を乗せて病院まで向かった。紗夜はずっと僕の名前を呼んでいた、僕はその声に答えてあげることができなかった。僕は、

「ごめん、紗夜」

とつぶやいたが、彼女からの返事はなかった。


彼女の想い

 病院に運ばれた僕の体と紗夜。僕は紗夜の隣にいたが、認識されていないようだった。僕の体は手術室まで運ばれたが、生き返ることはなかった。

医者は病室の前で紗夜にその事実を伝えた。

「残念ですが、新藤さんはお亡くなりになられました。」

「そうですか。」

紗夜は力なく答える。

「こんな時に聞くのも何ですが、あなたは『癌』を患っているとお伺いしましたが。」

「はい、その通りですけど」

「彼の持ち物の中からこのカードが出てきたのですが。」

そう言って医者が出したのは、「ドナーカード」だった。確かに僕はそれを持ち歩いていた。医者は彼女にカードを渡し話を続けた。


「君の心臓と彼の心臓を入れ替えることで、君の肉腫を無くすことができます」

「私の心臓と、彼の心臓を?」

「そうです、君の肉腫は取りにくいところにある。だから、心臓そのものを入れ替えないと治ることは無いんです」

「でも、私は‥‥‥」

「返事は今じゃなくてもいいです。ただ、彼の体を保存できるのは最長で二十四時間、一日が限界です。だから、明日の昼までに返事をください。君を守るために死んだ彼のこともよく考えて自分で決めてください」

そう言って医者は病室から出て行った。

紗夜はその後、自分の病室のベッドの上で一人泣いていた。

「なんで私が助かっているんだろう。私のせいで……。ごめんね、快人」

何度も何度も紗夜は僕に謝っていた。僕は彼女のとなりに座って、彼女が「ごめんね」を言うたびに、僕は「大丈夫だよ」と言った。届くことは無いと分かっていても、僕はずっと「大丈夫」を言い続けた。


気が付けば午後の八時を過ぎていた。彼女はずっと僕に謝っていた。

「紗夜、入るよ」

ノックと同時にこの病室に入ってきたのは紗夜の母親であった。急な来室に驚いたのか、紗夜は母親の方を見ていた。

「母さん、なんで」

紗夜の母親は、彼女のベッドそばの椅子に座って答えた。

「私ね、今快人くんの両親と電話で話をしてきたの。それで、彼の両親から伝言を頼まれたわ」

僕の両親はここからかなり離れた場所にいる。だから、彼女の母親に伝言を頼んだのだろう。

「伝言……」

そう紗夜はそう呟き、視線を膝元まで落とした。紗夜の母親は、紗夜の隣に座りなおして話を続けた。

「彼の父親がね、『うちの息子のしたことなので私は気にしていません。息子は紗夜ちゃんを守るために自ら飛び出していきました。だから、何も言うことは無いんです。もし紗夜ちゃんが責任を感じているのなら、快人のことだからきっと紗夜ちゃんの近くで「大丈夫」と言ってますよ』っていってたわ」

僕は涙を流していた。父さんが自分の気持ちをそのまま言葉にしてくれたことへの感謝と父さんに会いたいという気持ちがこみ上げてきた。でも、紗夜は自分のことを責め続けた。

「私は、あの時動けなかったの。そして、彼は私を助けるために死んだ。私が、私が彼を殺したのと同じなんだよ?」

そう言いながら紗夜は涙を流した。

「違うよ、紗夜」

紗夜の母親は静かに、はっきりと否定した。

「もし、紗夜のせいだったら彼の父親は怒っていたと思う。でも、彼の父親は紗夜を心配していたんだよ。だから、紗夜のせいじゃないよ」

そう言って右手で紗夜の手を握って、左手で彼女の頭を撫でた。紗夜は母親に体をあずけてずっと泣いていた。

「母親からの伝言、『息子をよろしくお願いします』だってさ。この意味わかるでしょ?」

「うん」

紗夜は短く答えた。とても小さい声だったが、はっきりと言った。

夜九時を回ろうとしているころ、紗夜は医者に電話をかけた。

「私、手術を受けます」

その一言が彼女の病室に響いた。


手のぬくもりに込められた思い出

僕が死んでから一晩が過ぎた。彼女は、今日の昼に手術を受けるらしい。朝から、彼女は手術の準備で忙しそうだった。そんな彼女に不安の様子はない。だから、ぼくも心配しないことにした。本当はとても心配だったのだが、なるべく気にしないようにしていた。

昼になって、紗夜は手術室まで運ばれた。その前に僕の体も中に運ばれて行くのを見た。外には僕の両親と紗夜の両親が座っていた。紗夜の両親が何度もお礼とを言っていたが僕の両親は「気になさらないでください」とずっと言っていた。手術が始まるころ、僕の体の手を彼女が握ったのだろうか。僕の左手に温かい手の感触が伝わってきた。僕はその手を握り返して、ありったけの想いと感謝を込めた。

「ありがとう紗夜。これからもよろしく」

この声だけは彼女に届いた。僕はそう確信した。


出会いと誓い

 二年前の夏、僕たちは友人の紹介で知り合った。彼女を最初見たとき、僕は「いいな」と思った。何に対して「いいな」と思ったのかわからない。ただ、紗夜のことをそう思った。僕は、紗夜の連絡先を友達からもらいメールをした。

『こんにちは。このあいだお会いした新藤です。連絡先を頂いたので、確認のメールをさせていただきました。紗夜さんの携帯であっていますか?』

思っていたより返信のメールは早かった。

『こんにちは、赤城です。私の携帯であっています。またお会いすることがあればよろしくお願いします』

今思えばこんなメールを送る必要なんてなかったと思う。でも僕はメールを送らなければならない気がした。多分、このころには彼女のことを好きだったと今なら分かる。それから僕たちは友人と一緒ではあるが、たまに飲みに行ったりしていた。連絡先をもらって三ヶ月ぐらいたったころ、僕は彼女に1通のメールを送った。

『こんばんは。新藤です。紗夜さんがこの間飲みに行ったときに言っていた映画のチケットが手に入ったのですが一緒に見に行きませんか』

かなり強引な言い訳だったと思う。でも、そのころには僕は紗夜のことが「好き」ということを自覚していたので、どんな文章を送ればいいのか悩んだ結果こうなったのだ。その日、メールは返ってこなかった。僕は、彼女は忙しいのだろう、などいろんなことを考えた。

翌朝、携帯を見ると返事がきていた。僕は急いで携帯を開いてメールを確認した。

『大丈夫です』

その一言だけ書かれていた。僕はそれが嬉しかった。その後僕は彼女に待ち合わせの時間と場所を送った。彼女からの返信がすぐに送られてきて

『了解です。楽しみですね』

と書いてあった。僕は

「『はい、楽しみです』」

と声に出しながらメールを返していた。


約束の日、クリスマスの一週間前であった。公園の前で僕は彼女を待っていた。女性と映画を見に行くことが数年ぶりだったので、とても緊張していたことを今でも覚えている。今日の予定を確認していると後ろから声がした。

「こんにちは」

僕は顔を上げ声のするほうを向いた。そこには紗夜がいた。今までとは雰囲気が違う気がした。僕は何と返そうか一瞬迷ったが、

「こんにちは、紗夜さん。今日はよろしくお願いします」

と意外にも自然に返すことができた。僕たちはそのまま映画館へ向かった。僕はあまり映画を見に行くことは無いのだが、よくある恋愛もの映画ということだけは分かった。紗夜はその映画に満足したらしく、とてもうれしそうだった。映画館の帰り道に僕たちは街中を歩くことにした。街はクリスマスの準備が終わっていて、陽の落ち始めたころになるとイルミネーションがとてもきれいだった。かなり暗くなってきたので僕は紗夜を家に送るといって、二人で紗夜の家まで行くことにした。駅から十五分ほど歩いたところに彼女の家はあった。家の前まで来ると紗夜は少し悲しそうな顔をして冷えた声でいった。

「私と関わること、やめたほうがいいよ」

「え?」

僕は思わず声を上げた。

「何でですか?。僕は今日一日だけだったけど、楽しかったですよ」

「私と関わるとあとで辛くなるだけだから」

彼女はそう言って僕に背中を向けて玄関へと向かった。

「待ってください」

僕は、無意識に声を出していた。

「何でなんですか。僕は今日1日、紗夜さんと居ることができて楽しかったです。だからそんなことを言わないでください」

彼女は、それでも振り向かず部屋の鍵を開けた。僕は、彼女が部屋に入る前に携帯を取り出した。これが彼女との初電話だったが、僕はそのことも忘れて彼女の携帯に電話をかけた。彼女は電話に気づき僕のほうを見て驚いた。目の前にいる人から電話がかかってきたら、僕だって驚く。彼女は電話に出た。

「何ですか?。もう関わらないでと、言ったはずです」

「僕はまだ、理由を聞いていません。何で関わったらいけないんですか?」

彼女の目を見ながら言った。

「なんで、電話ですか」

彼女が僕に問う。

「いつもは顔を合わせずにメールをしているので、顔を見ないほうが話しやすいと思って」

「なら、メールでもいいじゃないですか」

「紗夜さんから、紗夜さんの言葉で伝えてほしかったから」

僕は彼女の問いにすべて答えた。数秒の間僕たちは沈黙した。

「何でですか」

沈黙を破ったのは僕だ。彼女は答えない。

「何でですか」

僕はもう一度彼女に問う。

「何で、紗夜さんと一緒にいたらいけないのですか」

僕は彼女が答えるまで問うつもりでいた。すると、彼女は声をふるわせながら言った。

「はぁー。分かった、教えてあげる。私ね、癌なの。この間検査したときに、肉腫が心臓の切除しにくいところあるって、あと五、六年しか生きられないって言われたの。君が私に、好意を持ってくれていることは分かった。けど、私を好きになると、あなたが、辛い思いをすることになるんだよ」

僕は、何と言ったらいいのか、分からなかった。でも、彼女は僕のことを思って言ってくれていることは伝わった。でも、本当にそれでいいのだろうか。このままだと彼女はずっと一人になるのではないか。そんなことを思た。僕たちの間に再び沈黙が訪れた。僕は彼女に何と言おうか考えた。でも何一つかけるべき言葉は出てこなかった。言いたいことはたくさんあるのに僕はそれを言葉にすることができなかった。

「これで話は終わりよ。理由はちゃんと伝えたわ」

そう言って彼女は電話を切ろうとした。

「待って」

僕はまた無意識のうちに声を出していた。電話ではなく彼女に直接届くように言った。

「紗夜さんはそれでいいんですか。僕は紗夜さんと一緒にいたいだけなんです。僕はあなたといることができるなら、それでいいんです。紗夜さんが良かったって思えるほど、いい人に僕はなります。だからもっと、ずっと、紗夜さんの隣にいさせてください」

僕は頭の中でバラバラだった想いを言葉にした。ちゃんと言葉になったか分からないが紗夜に伝わることを強く願いながら。

「本当に、一緒にいてくれるの?」

紗夜は電話口から静かに問う。

「残りの寿命を忘れるほどいい日々にします。だから、僕と付き合ってください」

今思い出すととても恥ずかしいが、自分ではなかなかいい告白だったと思う。

「はい、よろしくお願いします」

彼女からの返事を電話から聞いたのか、直接聞いたのか、どちらか分からなかったが確かに僕はOKという返事をもらった。その日家に帰った後、サンタさんからプレゼントをもらった子供のようにはしゃいだことは秘密である。

 

それから、僕たちは週に一回は必ず会った。僕の部屋に彼女が来たり、僕が彼女の部屋に行ったり、僕が彼女の実家に連れていかれたこともあった。そして僕たちが付き合い始めてから一年がたとうとするころ、彼女の癌が悪化したことを知らされた。僕はすぐに病院にかけこんだ。病室に入ると紗夜は

「ごめんね、心配かけて。でも、私は大丈夫だから」

作りきれてない笑顔で僕に心配させないようにしていた。そんな彼女を見て僕は涙をこぼした。

「何で、泣いてるの?」

紗夜は心配そうに聞いてきた。

「ごめん。今になって、君が死ぬことが怖くなってきた」

「大丈夫だよ、私はまだ死なないよ。こんな泣き虫を置いて死ねるわけないじゃん」

彼女は僕を慰めてくれた。彼女自身も怖いはずなのに僕のことを気遣ってくれる。そんな彼女をいつか失うことは、僕には耐えきれないだろう。

「ごめん、もう大丈夫」

何が大丈夫なのか自分でもわからない。それでも、紗夜を安心させるため僕はそう言った。


医者の話によるとあと長くて二、三年らしい。僕はその二、三年を今までよりも彼女を笑顔にしてあげようと誓った。それから僕は、ほとんど毎日彼女の病院に通った。彼女を笑顔にするために。

半年ほどすると彼女は外出を許可されるほど良くなった。僕たちは週に1度紗夜の外出許可が下りた日に必ず外に出かけることにした。そして今に至る。



別れ

 僕の握られた手が消えかかっていた。彼女の意識が戻るのだろう。気が付けば僕自身も消えかかっていた。言わば「霊体」のようなこの体も、彼女の中で生き続ける僕には必要がないものだ。僕は、彼女の手を強く握りなおした。すると、僕の「霊体」は光に包まれて溶けるように散っていった。僕だった光の欠片は紗夜の手術の成功を聞き届け、彼女の中へと入ってゆく。僕の意識とともに。

「ありがとう、快人」

そんな声を最期に聞いた気がした。

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