第7話

 阿藤日向は怒っていた。

 ぶすっとしたふくれ面のまま、前を歩く男の背中を睨みつけている。些細な反抗とばかりに、わざとうるさい音を鳴らしながら金属バットを引きずるが、男は何の反応も見せない。


 ――相変わらずつまんねえの。おせっかいだし。


 舌打ちをして、視線を周囲に巡らせた。繁華街のど真んを突っ切っているせいか、酔っ払いが通りで寝ていたり、明らかに水商売風の服装をした女がこちらに手招きしていたりしている。時刻は既に深夜二時を回っているというのに、この街はいつまでも眠らない。


 今、こちらに背を向けて歩いている男――吽野雫――とは、喧嘩中だ。


 喧嘩、といえるのかは分からないが、少なくとも日向はそう認識している。昨日の仕事の最中に、とあることがきっかけで、自分達は久しぶりに喧嘩をした。いや、喧嘩ならいつもしているのだが、本気の喧嘩、というのは、今までにそう多くはない。

 正直、「自分が悪い」ということなど、日向には分かっていた。普段からあれほど言われていたのにジバクと会話をしてしまったこともそうだし、その後の発言もきっとよくなかった。


 ――けど、あんな言い方しなくたっていいだろ。こっちにはこっちの、色んな事情があるんだよ。


 こっそりとバツが悪そうに顔をしかめる。意地を張って言い返してしまった手前、謝るに謝れない。というか、向こうは手まで上げてきたんだから、あっちから謝るべきだろ。いや、まあ確かにこっちも悪かったかもしれないけど、などと、先ほどからうだうだ考えながら、昨日も訪れたあのビルへ歩を進めていた。


 未だ痛む殴られた頬を擦りながら、日向は幼いジバクの姿を思い出す。お母さんに会いたいと叫んでいた、あの男の子。とても他人事と割り切ることは出来なくて、こっちまで苦しくなりそうだった。

 自分には、親の記憶はほとんどない。父親は初めからいなかったし、母親だって、もうその顔も声もよく思い出せない。ただ唯一覚えているのは、手を繋ぎ、あの施設へ一緒にやって来た母親が、「ここでちょっと待っててね」と言い残したという事実だけだった。日向はその言葉通り、じっと待っていた。お前はもう捨てられたんだと施設の子供に言われても、ずっと待っていた。しかしとうとう母親は現れなかった。


 もし自分があのまま死んでいたら、ジバクになっていなかったと、果たして言い切れるだろうか。昨夜からそんなことばかり考えてしまう。


「……おい」


 突然声を掛けられ、日向は肩を震わせた。前を向けば、そこには怪訝そうな表情の雫が立っている。どうやら何度も声を掛けられていたらしい。


「行くぞ」

「……、分かってる」


 ぶっきらぼうに応えるが、雫は特に気にする素振りも見せず、例のビルへと足を踏み入れた。何だよ、と口を尖らせながら、日向も大人しくその後に続く。

 昨夜と同じく、まずは一階を捜索するがやはり人影はなかった。ならば二階か、と雫が階段を上って部屋の中へと踏み入れる。ジバクが原因のポルターガイストのせいで瓦礫が散乱し荒れていたが、ここにも誰もいないようだ。


「おかしいな」


 雫が首を捻りながら呟いた。そのまま部屋の奥を調べていこうとする彼の後ろ姿をぼんやり眺めていた日向だったが、そこで何かの気配を感じ、背後を振り返る。そこには当然誰もいないのだが、もっと奥――否、もっと上から、呼ばれている気がした。


 ふらり、と、意図せずに足がそちらに向く。部屋の外に向かって歩き、階段を上がる。雫に一言何か声を掛けてからにしないと、と思っているのに、口が動かなかった。

 まるで何かに引っ張られるように、虚ろな表情の日向が三階に辿り着くと、そこには昨日も会ったジバクの男の子が立っている。にこにこと、嬉しそうに、楽しそうに無邪気な笑顔を浮かべている彼は、日向に近づき、その手を取った。


「お兄さん、来てくれたんだ!」


 その声に、日向は何かを応えようとしたが、やはり言葉が出てこない。早くこの子を成仏させなければ、とバットを持ち上げようとするのだが、力が全くと言っていいほど入らず、終いには取り落としてしまう。カラン、と甲高い音が響き、自らの武器が床に転がるのを見つめた日向は、冷や汗が頬を伝うのを感じていた。


 ――ジバクとは決して言葉を交わしてはならない。


 桂から何度となく言われていた言葉。その本当の意味が、今分かったような気がする。


「ね、お兄さんも寂しいんだよね。じゃあ、僕たちきっと友達になれるよね」


 そんなことを言った男の子は、さらに口角を上げて笑みを深くする。それを見た瞬間、日向の意識は暗転し――どさりと、彼はその場に倒れた。

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