第2話
翌朝。都会のど真ん中とは思えないほど立派に育った大木を見上げ、雫は目を細めていた。そのまま振り返れば、まず目に飛び込んでくるのは石造りの寺院。小さな池、苔の生えた趣のある灯籠、敷き詰められた小石。
――逢魔寺。酷いネーミングセンスだが、都内では珍しく「厄除け・除霊」に特化しているということもあり、平日でもそこそこ人が訪れる寺院である。
とはいえまだ朝が早く、一見したところ参拝者はまばらだ。寺院を通り抜けた雫は、これまた人の少ない、併設されている墓地へとやって来た。
手桶と柄杓、線香と花を両手に持ち、奥に設置されている小さな墓の前で立ち止まる。『小野川家』と刻んである墓石をしばらく眺め、それを水で清めてから、線香と花を供えて両手を合わせた。
しばらくそのまま目を閉じていた雫だったが、やがて手を下ろし、ゆっくりと踵を返す。
毎日、目覚めたら両親の墓参りをする。それが彼の日課だった。
「……あいつ、また寝坊だな」
そう小さくぼやいてから寺に戻ってきた彼は、爽やかな朝に相応しい鳥のさえずりを聞きながら、本堂の横を通り抜け、奥にある庫裏――寺の住職などが暮らす建物――へと入った。やや重ためな印象のある黒髪を揺らし、廊下の奥の居間へと続く襖を開ける。
「んあ? って、お前か。相変わらず早起きだなあ」
「お前が寝過ぎなんだよ」
そこでは、日向が未だ寝ぼけたような顔でちゃぶ台に突っ伏していた。欠伸をしてまぶたを擦っている彼は、隣に座ってきた雫をちらりと見るが、すぐにまたうつ伏せになってしまう。どうやらまだ寝たりないらしい。
机の上には、湯気の上る味噌汁と玄米、焼き魚が三人分用意されていた。果たしてこれを準備してくれたのであろう人はどこに行ったのかと、雫が周囲を見回したと同時、目の前の襖が開く。
「おや、雫。もしかしたらまだお墓にいるのかと思ったが、早かったね」
「おはようございます、おじさん」
藍色の作務衣を着た初老の男性が、にこにこと穏やかな笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。頭は坊主にしており、いかにも僧侶といった出で立ちである。
するとその物音に反応したのか、日向が顔を上げ、ぱっと顔を輝かせた。整えきれていない茶髪がぴょこぴょことはねていて、犬を彷彿とさせる。
「おっちゃん! 早く食おうぜ、腹減った!」
「いやあ、待たせてすまないねえ」
苦笑を浮かべながら二人の前に座った男――名を桂慈圓という――は、両手を合わせて目を閉じた。いただきます、と声が三重に響く。この時ばかりは普段うるさく騒いでいる日向ですら静かにしているのが面白い、と頭の片隅で考えてから、雫は玄米を一口食べた。
「そういえば、二人とも昨日はご苦労様。ジバクが成仏したおかげで、従業員の体調不良が治ったって依頼人からお礼の電話がきていたよ」
「……そういえば何だったんだっけ、あれ。男にフラれて自殺とか?」
その桂の言葉に、焼き魚を頬張りながら日向が尋ねる。味噌汁を飲みつつ、雫も昨日の仕事を思い出していた。路地裏の奥に潜んでいた女。最期までここから離れたくないと叫びながら消えていった、あの瞬間。
「まあ、そんなところかな。交際していた男性と別れたとある女性が、精神的に参ってしまったようでね……衝動的にあそこのビルの屋上から飛び降りた。しかし気持ちの整理ができていないまま死んでしまったから、ジバクとなり、あの地に留まっていたんだとか」
そう説明しながら、桂もご飯を食べている。対する日向は「なるほどねえ」と頷き、もぐもぐと口を動かしていた。口の端にご飯粒がついている。それを呆れたような視線でしばらく眺めていると、日向が眉間に皺を寄せ、何だよ、とぶっきらぼうに言った。
ジバク――現世への未練が残り、成仏しないまま特定の場所や建物に留まってしまう幽霊を、自分達はそう呼んでいる。
彼らの強い残留思念は、その場所に悪影響を及ぼすことが多い。例えば、今回のように、現場に隣接するホテルでポルターガイストが多発したり、従業員が謎の体調不良で何人も寝込んだり。
それを解決するため、ジバクを成仏させるのが雫と日向の仕事だ。
「なんつーか、ちょっと可哀想だな。まあ思い切りバットで殴ろうとしたんだけどさ」
味噌汁をすすり、日向がぽつりと声を漏らす。彼を見つめる桂は、変わらずに優しげな顔で黙っていた。
日向と雫、そして桂は、ジバクを視ることができるだけでなく、彼らを成仏させる能力を持っている。否――少し表現が違うか。正確には、「ジバクが視える日向と雫」が、「ジバクを祓う力を持つ桂」の力を借りて成仏させていると言うべきだろう。
日向は、物心ついた時にはすでにジバクが視えていたらしい。一方の雫は、中学生の頃、事故によって生死の境を彷徨った後から視えるようになった。未だにジバクが視えるようになるメカニズムは不明だが、とにかく二人には本来見えないはずのものが視えている。
そして、桂が祈祷して作った札の力を借りて、ジバクを成仏させているのだ。
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