契り 〜 さくら
岬
月光 〜 あなた様の全てを覚えておくために
ああ、せめてものお願いです、誰もいないこの場所で……
あなた様のお名前を呼ばせてください……
わかっております
とても、とても口にすることなど叶いませぬ……
ああ……ですのに……ですのに……
その他のどんな
この世の全てが、あなた様のお名前に置き換わればいい……
わたくしのこの腕に抱きしめられるもの全てが……あなた様の一部……
凍りつくような空に、雫が纏わり光る夜の木立の冷たい枝を見上げ……
あなた様もこの空の下のどこかで……この夜の
静かな月明かり……この彩光のほのかな輪……あなた様がお知らせくださる全てが、まるで秘密 耳元の甘いささやきのよう……
ほら、ご覧なさい、と……
心ここに在らずの貴女様よ……しっかりとほら、この風景をご覧になってください。こんなにも綺麗なんですから……
呆れるようなあなた様の声……世界が全てあなた様であればいいのに……
他のどんなものも、もはや目に入りませぬ……柔らかな月光がまるで、そんなふうにわたくしをたしなめるよう……ああ、涙が止まりませぬ
きっとこの月夜を……あなた様もどこかで見ていらっしゃる……
ああ……どんなに素晴らしい美しい景色も、あなた様の前では矢のようにつまらなく過ぎ去るばかり……寝ても覚めても……薄霧の中を彷徨うよう……
今ここがどこなのか……ただただ、優しい月光があなた様の面影のよう……こんなにも遠い、あなた様でありましょう
気づけばお名前を呼んでしまう……
涙が止まりませぬ……この
ああ、ああ、無邪気に微笑むあなた様……この身を焼かれ、路傍に打ち捨てられたわたくしの冷たい亡骸をいつか想ってくださるのでしょうか……
何度お名前を呼ばろうと、きっと届きませぬ……なのになぜ
せめてお名前を呼ばせてください……誰にも聞こえないように……どなたもいらっしゃらない深い夜の森の中を彷徨うように……
夜が明けるまで、一人であなた様の姿をここに探させてください……あなた様はそんなことも一切ご存知ない……わたくしがこんな想いであなた様をただただ
あなた様がいらっしゃらない場所、探させてください……
どんなに探しても、あなた様はいらっしゃらない場所……誰にもご迷惑をかけることもないから……
ああ、この身を投げ出して、一人、夜の冷たい藁の上に倒れこんで霜に濡れるままにするように……
それでようやくこの熱い身が炎に焼かれるのを……引き伸ばしてくださいましょう……この地獄の業火……
冷たく霜の上で、固まるようにわたくしは凍土の一部となりましょう
それでようやく静かに……息をつくことが許されるのでございます……わが身に刺さる静かな尖った空気が、ひたひたと音もなく迫り、わたくしの息の根を順番にせき止めてゆきまする
まるで焼き尽くされる炎が氷の中で静かに息を潜めるみたいに……待つことしかできませぬ
柔らかな温かい葡萄酒の皮袋となり、この身、引き裂かれるままに……
ああ、ああ、どなた様もいらっしゃらないのだから、せめてお名前を……最期にお名前を
わたくしの声が愛しいあなた様を呼んで、せめてその木霊にくらい抱きしめられたい……
苦しい……苦しいです……
早くこの身が焼き尽くされてしまえばいい……
待つ時間が長すぎて……投げ出すこの身が吹雪の下に引きちぎられてしまえばいい……
あなた様の寂しげな奥ゆかしい横顔が……現れては消える……
まるで満月の日の憎らしい薄雲のように……わたくしを照らすあなた様を遮り、翳らせる……ああ
あなた様の元へ……ただ静かな月光よ、連れて行っておくれ……
存じております、それは到底、叶わぬ望み……
ただただ、凍りつくような月光の下、あなた様が照らす
******
貴女様と契りたいのです……
唐突にあなたが遠く離れた場所で、わたくしにそんな事をおっしゃるなど……
どんなにかおしゃべりで気まぐれな小鳥たちが、わたくしにまるきり思い過ごしの
わたくしは耳を疑い、神様にただの空耳である事でしょうと、泣きながら首を振るのでございます
そんな残酷な空耳を……涙なしに聞かれませぬ……
耳をそばだてても、何もかも信じられませぬ………
どうしてそのようなお戯れを……残酷な気まぐれを……
何もかも焼かれて、消え失せるその前に……この柔肌に彫りつける墨のように
気を狂わせる
せめてここに……碑のように、幻のような空耳を……わたくしの気が違ってしまう前に
小刀のように 何度なぞってもきっと
あまりに残酷な
あなた様の今の全てを、覚えておきたいのです
ああ、ああ……
この場所の制約を
狂った蝶になって 炎に焼かれて飛び越えたいのです
死ぬことさえ厭いませぬ 厭いませぬ
さくら
2020年 2月17日 22時 57分
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