陰陽

front door

陰陽

 峠には澄んだ春一番が訪れ草木が芽吹き色づく。香る風を感じると、新緑に暖色の彩が添えられる。しかし、その情景ももはや絵空事となってしまった。


 叙情的な語りはもはやそぐわない。今日の峠はまるで生気を失っていて私の落胆を深度をさらに掘り下げた。いつからか始まった、大気汚染と技術革新のいたちごっこ。環境破壊が課題として浮彫になると、政府や企業は代替技術を開発し繁栄の希求との両立を目指し続けた。公害は時代の各場面で顕在化してきた。その度に何かしらの対策が取られて、解決済みとして時代の流れに置き去りにされる。人間は身を切ってまでに繁栄を求める。一つの海が汚されようと、私の故郷が異様な変質を遂げようと、それは必要な対価と納得できるだろうか。


 春が来ると私は、幼馴染の菜緒子を連れ峠に行く。幼少より病を患い、外に出るにも難儀な彼女を峠に連れ出すのは、彼女に良い空気を吸わせてやろうとする厚意と私自身の好意を兼ねていた。しかし、今年はどうも様子が違っていた。彼女の体調は冬に熱を出して以来、どうにも調子の良い日というのも稀になったらしく、そのことを彼女の母から言伝られた。そしてもう一つ、今年の山並みは目に見えて不調の装いであった。その理由であれば街に周知の解が与えられていて、山頂の近くに建設された廃棄物処理工場が原因であった。それは、前年の夏に忽然と姿を現し、住民に幾つかの残酷な変化を突きつけた。まず、川が汚された。8月にそこを泳ぐ少年たちはたちまち体の不調を訴え、怒る大人たちが工場を相手取って訴えを起こした。この件は未だに闘争の渦中にあり、まだ行く末は分からない。さらなる問題は山の木々が次々と枯れてしまったことだ。これに関しても詳しい原因は誰も知らない。理屈ではありえないそうだが、現実に多くの木々が即座に葉を保つ力を失い、秋の紅葉を待たずに枝がむき出しとなった。


 普段は都会に出ているために、私がその実態と直面したのは帰省の3月頭であった。菜緒子とは月毎に連絡を取り合っていたが彼女は一度もそのことに触れなかった。それが、私に故郷の心配をかけまいとの思いであったか、体調の悪さゆえに十分に外を出歩くことができなかったためであるか、いずれにしてもその答えを聞くことなどできない。それ程に異様な街の疲労感を受け取った。両親の説明にもどこか諦めがあり、18年と暮らした故郷の運命を悟った。

 それでも、菜緒子が峠に行きたいと言ってくれるのだから、私は父から車を借りて彼女の家に向かった。半年振りの彼女は一回り痩せていて、不覚にもいろんな本音を顔に出してしまったかもしれない。それでも平静を装って彼女を車に乗せる。近況のの答え合わせをしていたら、いつもの峠まで着いていた。


 峠にはちょっとした公園のような広間があって、私は彼女の手を引きゆっくりと街を見渡せるベンチへと歩いた。重い足取りの最中、私の落胆が手を伝ったかもしれない。例年は、四方が桜に覆われ街の見晴らしも邪魔するほどに季節の色に塗られている。しかし、今年のこの場所は、明るみをすべて失って、真冬のように冷たい空気に満ちていた。ベンチに腰を掛けると彼女が語り掛ける。

 「ここもすっかり変っちゃったね。街の家もみんなはっきり分かっちゃって味気ないね。」

 「そうだね。私も帰った時には驚いたけど、ここに来てはもう寂しいとしか言えないかな。」

 「寂しい気持ちになるだけなのに、ここまで送ってもらってごめんなさい。でも、私はずっと部屋に寝たきりだったから、ここまでくれば何かまだ残ってるんじゃないかなと思って。だけど、みんなの言ってた通り。この山も街もどんどん枯れていってる。こうも景色が変わっちゃうと、心の持ちようも暗くなって然りだよね。」

 彼女は淡々と語った。私は彼女の表情に諦めを感じ取って、慌てて明るい話に切り返そうと思った。しかし、寂寥の空気は重く、どうしても深刻さを逃れられない。

 「しかし、どうなんだろう。街の抗議が上手く行けば、快方に向かうんじゃないか。」

 「そうだね。そうでないと悲しいけど。でも、そんなに単純じゃないのも分かってる。土地が汚されてしまっては、もうそこから新しい芽なんて出てこない。毒を吸い続ける木々も、ただただそれが身を苦しめていくのに耐えるばかり。人間だって同じでしょう。食べ物も水も毒になったとしたら。」

 「随分、悲観的だね。病も気からというから、少しでも明るいことも考えた方が良いんじゃないか。」

 「ごめんね。でも、どうしてもずっとこの街にいると感じちゃうところがあって。」

 「いや、ほとんど、街を出てしまってる私が言うのも無責任さ。まあ、でもきっと次の春には綺麗な桜を見に来れるさ。そう、思っていようじゃないか。」


 そうして私たちは、また次の帰省の折にはここも訪れようと話して、彼女の家まで車を走らせた。菜緒子の病は言うまでもなく悪化していた。途中、咳き込み、ごめんとつぶやく彼女に対して、私は良いんだとだけ答えた。彼女を家まで届けると、お礼にと茶菓子の包みを片手に彼女の母が軒先へ出てきた。彼女の母は小さい声で、彼女がこれより隣町の病院に入院することになっていることと、これまで相手をしてくれてありがとうとの感謝を私に告げた。私は口を挟むこともなくすべてを聞き入れた。

 この一日の感傷で、私の頭は返って冷静であった。菜緒子の理解した運命を、私もまた同様に理解して、次に私と彼女との間に現れた深い溝のことを考えた。私が彼女の問題に同様の深刻さをもって向き合うことはもはや不可能であった。そうして、彼女の方もそれを望んではいない。私は私と彼女との間に存在する二つ目の隔絶に気付き、全てを諦めて追いやった。それは、いかようにも抗うことのできない摂理だった。


 しばらくして、都会に戻ると街明かりがあまりに眩しく思われて、外にでるのもためらわれた。

 こちらでは、街が自らに姿を変える。刻一刻と、文明の進歩を希求するために変化を重ね続けている。無理矢理に脱皮を繰り返した生き物も、己の異形さに気付かずにもがいていた。

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