【百合】君のとなり
汐 ユウ
第1話 当然
青のとなりにはいつもあやめがいた。いつもと言うのは生まれてからずっとだ。あやめは絵に描いたようなお嬢様で、性格まで漫画に出てきそうな外面はいいわがまま娘だ。
いつだって青の行動はあやめを起点としており、自分自身が存在する理由も彼女のためだけにあるのだと最近は錯覚を起こすくらい、彼女しか青の中には存在していない。
「青! ……青!」
返事をする間も大して与えずに名前を二度呼ばれる。
「何ですか?」
面倒くさそうに顔を出すと、パジャマ姿のお姉さんがベッドの縁に腰かけていた。
「着替え」
「はいはい」
今年で十八になった彼女は、なんでも完璧にこなすがなんでもかんでも青にやらせる。それがたとえ着替えであっても、その場に青がいるのであれば青の役目となる。
「自分で着替えた方が早くないですか?」
文句を言いつつも、小指の爪ほどのボタンを一つ一つ外していく。キャミソールの端から見える紺色の下着が青い瞳に一瞬映った。
「変態」
ボタンを全て外し終え、上の服を脱がせながら、
「そんなこと言うなら自分で着替えてください」
「見たいくせに」
煽るように長い脚を上げてくる。爪先が目先まできそうになり、思わず後ろに下がろうとしたところで顎を軽く蹴られた。
「ほら。早く」
「爪、切った方がいいですよ」
「じゃあ帰ってきたらよろしく」
今年の春、やっと同じになった制服を手に取る。二人とも体格はあまり変わらないのでサイズも一緒。唯一違うのはタイの色。
「毎日わたしがやってますけど、ちゃんと体育の時とか着替えられてます?」
「もちろん。私にできないことなんてないもの」
「そうですね」
青色のタイを結び終わったところで着替えは終了。立ち上がる前に青い瞳は目の前の主人の顔を眺める。
「はい。ご苦労様」
音を立てずに上から柔らかい唇が降ってきた。
「青の唇、乾燥してる」
「すみません。あとでリップクリーム塗っときます」
「いいわよ。塗ってあげる」
制服の胸ポケットから、ドラッグストアでは取り扱っていない高級ブランドのリップクリームを取り出し、気にする素振りもなく青の薄い唇の上を走らせた。
「ありがとうございます」
続いてはあやめの髪をセットして、朝食を食べさせなければならない。あまりゆっくりしていると登校時間に間に合わなくなってしまうから、彼女を椅子に促す。
「今日の朝ごはんは?」
「フレンチトーストでしたよ」
朝から夕方まではお手伝いさんがいるため、食事はなんの準備をしなくても出てくる。
「えぇ」
「と言うと思って、ベーコンも焼いてもらいました。紅茶の準備もできてます」
「ご飯も青の作ったものがいい」
「無茶言わないでください。三食毎日バランスよく用意していたら、わたしの睡眠時間がなくなります」
「寝なければいいじゃない」
「朝ごはんの目玉焼きが黒焦げになってもいいならいいですけど」
お嬢様ではあるが、天気が特別悪くなければ徒歩で学園まで向かう。もちろん荷物は全て青が持つ。
「今日一段と鞄重いんですけど……」
教科書の類いの重さではない気がする。辞書も電子のものを使用しているし、何がここまで重力に引かれるのか。
「ダンベル入ってるから。そりゃ重いわよ」
「何でダンベル!?」
「あなたのその顔を見たかったから」
意地悪に――嬉しそうにあやめは笑って歩道橋を上がっていく。
「早くしないと置いていくわよ」
「わたしを置いて行ったら荷物も置き去りですからね」
「そんなの許すわけないじゃない」
理不尽で傲慢な幼馴染は、早くと身軽な身体で急かしてくる。
――重たい……。
逆光で見辛い彼女も、鞄も、気持ちも重たい。
「待ってください……」
「嫌」
昔から学校というものはなぜか高台に位置している。どうしても行きの道のりはきつい。
「京条さん、おはよう」
「おはようございます」
「京条さんー! おはー!」
「はい、おはようございます」
学園の近くまで来ると同じ制服の学生があちこちに点在し、青いタイの先輩たちが次々とあやめに声をかけてくる。青に対する態度はともかく、彼女の外面はとてもよい。
「あやちゃんって、わたしにあんな風に接してくれたことないよね」
「青なんだから当たり前でしょ」
昇降口まで、教室まで、毎日それはまちまちだが今日はいたずらのおかげで鞄が鉄のように重かったから三年の教室まで送ることになった。歳だけで言えばたった二年早く生まれただけの人たちなのに、そこにたった一人放り込まれるだけで不安になる。
「青ちゃん、今日も一緒なの? 仲良しだねー」
名目上あやめの友達である同級生たちがちやほやしてはくれるものの、視線が気になって逃げるようにして教室を出た。
「緊張しちゃって可愛いね。ね、京条さん」
「緊張ねー……」
細められた目は一年生の校舎の方に向けられる。今頃廊下を走っているのだろう。
「やっぱ昇降口までかなー」
家に帰ってから一番にすることは、彼女のためにお菓子を作ることだ。夕飯もあるのであまり時間がかかるものは作れないから、大体パンケーキやクッキーになる。
「ねぇ、青」
珍しく自分で制服を脱いだと思えば、ホットケーキミックスをかき混ぜている青に後ろから半裸で腕を回してきた。
「ちょっと邪魔です」
「少し寒いの」
「それなら上を着てください」
「面倒くさい。着させてくれないならこのままでいる」
「……出来上がるの遅くなっても文句言わないでくださいよ」
ボウルと泡立て器を一度置いて、彼女の片腕を伝うようにして振り返る。真っ黒な日本人らしい瞳がこちらを向いている。
「……何でキャミソールまで脱いじゃったんですか」
「照れてる?」
「照れてない」
「顔、赤いよ」
「着替えますよ。風邪ひいたらどうするんですか」
「青に移す」
「そしたら看病しませんからね」
外に出掛けるわけでも、お手伝いさんがいるわけでもないので青のぶかぶかな部屋着を被せた。
「青の服は着ていて楽だねー」
「お嬢様の服に比べたらスウェットは楽でしょうね。ではホットケーキ焼いてきちゃいますよ」
「待って」
シャツの袖を掴まれ、思い出したように青は目を閉じた。
「朝よりは乾燥してないね」
「お高いリップクリームのおかげですかね」
今日は休み時間になる度にドラッグストアの安売りセールで買ったリップクリームを塗っていたからかもしれない。
「ホットケーキ、すぐ焼きますね」
「チョコシロップつけて」
「はいはい」
注文住宅の風呂場は広い。もちろん大人が二人入っても十分な広さだ。
普段眼鏡をかけないとほとんど何も見えない視力も、この時ばかりはありがたいものに感じられる。
「私も洗ってあげようか?」
自分は洗ってもらい終えて湯船につかっているあやめが本気かわからないトーンで聞いてくる。
「下僕の分際でおこがましいんでやめときます」
「生まれた時から一緒なのに今さら恥ずかしい?」
「生まれた時から対等じゃないのに、今さら横には並べないよ」
シャワーでトリートメントを流していく。
「私も青みたいな髪がよかったな」
一緒に湯船には入らず、バスタオルで色素の薄い髪を拭く。
「こんな日本人離れした髪より、あやちゃんの綺麗な黒髪の方がいいよ」
自分の髪をまとめたら次はあやめだ。髪も身体も拭いて、服を着させて、化粧水と保湿液を塗って、そこでやっと自分が服を着られる。
「寒くないの?」
「寒いですけど、あやちゃんが風邪ひいても困るんで。はい、足上げて」
自分の身体を犠牲にして十五年とちょっと。しかしあまり身体を壊したことはない。
「ヘアオイル塗ります?」
「お願い」
しっとりとした綺麗な黒髪は、強欲なくらいオイルも吸いとっていく。
「そろそろこのオイルも飽きちゃったなー」
「また次探しましょうか」
「一緒に探しに行こうよ」
「あやちゃんが使っているやつはそこらへんにぽんぽん売ってないんですけど」
「デパートまで出掛ければいいじゃない」
「行ったら人混み嫌だって言いません?」
「言う。デパート貸し切りになんないかな」
「微妙に実現できそうだから嫌ですね」
やることをやって、冷め始めた肌にやっと布を被せることができた。あやめの髪を少し蒸らしている間に自分の髪を急いで乾かしてしまう。毎度この時間は読書タイムらしいが、気分が乗らない時は青にちょっかいをかけてくる。
「ねぇ、私が乾かしてあげる」
「だから下僕の分際で、」
「私がやりたいの。やってみたいだけ。命令ね、ここ座って」
保湿パックを剥がし、華奢な腕で青の襟元を引っ張った。
「私だってできるのよ」
「そりゃ天下無敵のあやちゃんならこれくらいできるでしょ」
「なにそれ。嫌味?」
「半分は事実」
無理矢理椅子に座らされ、温まったドライヤーは乱暴に引ったくられた。
「下僕って言うわりには生意気」
「素直に生きてるんです」
青の言葉を吹き飛ばすように、前触れなく温風がうなじのあたりに当たってきた。
「青の髪ほっそいね」
「そうですか?」
人に髪を乾かしてもらうなんていつぶりだろうか。人工的な風がこんなにも心地よいものだなんて知らなかった。同じドライヤーなのに、何がこんなにも変わるのだろうか。ひょっとしてあやめの使い方が上手いだけなのだろうか。
「痒いところありますかー?」
「それってシャンプーする時に聞くもんじゃないんですか」
「……そうかも。でも痒いところあるなら爪立ててあげる」
「ないです」
意図せぬ方向に流れていく茶色い糸が鼻先をくすぐってくる。
「はい、おしまい」
「ありがとうございます」
熱くなったドライヤーを受け取り、席を変わろうとするが、
「私も働いたでしょ? ちゃんとちょうだい」
お風呂上がりでも温度が低い手が青の頬に触れる。
「やってみたいだけって言ったのにずるいね」
彼女の手を伝いながらゆっくり立ち上がり、軽く口づけをした。
「あやちゃんの髪も乾かしますよ。座ってください」
「青にはムードってものがないよね」
「ただの代価でしょ。なくて当たり前です」
ドライヤーのスイッチを入れる。
彼女も心地よいと感じてくれているのだろうか。彼女にとっては当たり前のことで、そんなこと考えたことはないのだろうか。
「当たり前か」
「ん? 何か言った?」
「何も言ってないですよ。前を向いていてください」
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