17.発酵バターとグラニュー糖

 ひと匙口にして、サチカはがたりと立ち上がった。


「……これは、発酵バター!」


 居ても立ってもいられずに、漆塗りめいた箱に恭しく置かれたその塊へ駆け寄る。

 艶のある淡いクリーム色の水晶が群生しているような不思議な多角形は、上から見ると白詰草の花のようだった。

 見たこともない形だが、近づけば特有の芳醇な香りがはっきりする。まさしく発酵バターに違いない。


「…………」


 箱を持って来た黒髪の魔人は、サチカの勢いに若干引いたのだろうか、感情が浮かばない山葡萄色の目に若干の呆れの色が乗り、黒髪からのぞく猫耳が困惑したように外側を向いた。

 食材に夢中なサチカは、バターの隣りに置かれた瓶を見て目を輝かせる。


「キラキラしてるこっちは何ですか?」

「……糖砂」

「甘い香り……もしかして、グラニュー糖!? ひと口貰ってもいいですか!?」

「…………」


 こくりと頷いて、黒髪の魔人はサチカに瓶を手渡す。

 瓶から数粒を手の甲に乗せると、サチカのよく知るグラニュー糖よりも少し大きめで不揃いな結晶は、丁寧にカッティングされた宝石のように複雑な光を反射させて青や緑に煌めいた。

 ぱくりと口にすれば、舌の上にじんわりと甘さが広がって、サチカの頬が自然と緩む。


「グラニュー、糖……!」


 感動に震えるサチカと、小柄な彼女を見下ろしたまま無表情に佇む黒髪の魔人に、ほうと関心を示したのはカフェラテ色の魔王だった。


「珍しい……これは使えるな」

「え?」

「いや、何でも。それより、食材はお嬢さんのクレープには使えそうかな?」


 振り返って首を傾げたサチカに、魔王はにこりと微笑んで見せる。


「はい! これ、使わせて貰って良いんですか?」

「もちろん。せっかく女神も顕現していることだし、試作品を供物として捧げると良い。ティア、食べていくだろう?」

「えぇ、サチカちゃんのクレープ、ぜひいただくわ!」


 調整された祝福の具合を確かめるための試作だが、クレープ食材を手にしたサチカと女神のテンションはうなぎ登りだ。ふたりは、まるで古くからの親友同士のように目を合わせるだけで互いを理解した。

 共通する思いは、美味しいクレープへの熱望。熱い思いを確かめ合って、ふたりはしっかりと頷き合う。


 カフェラテ色の魔王に命じられて食材を運ぶ黒髪の魔人に付き添われて、サチカはティーテーブルの近くに寄せられたキッチンカーに乗り込む。

 パタンとカウンターを下ろして準備を始めた案内妖精は、その下ろしたばかりの飴色の板にバターとグラニュー糖が乗ったのを見て、金緑の目を見開いた。


「……乳石に、茉莉の糖砂か」


 案内妖精であるナビィには、それらが第一層で得ることができる最も質の高い食材であることがわかる。しかも、第一層とは思えないような難易度の高い場所で採取されるため、探索者の間ではS級の貴重品とされるものだ。

 ナビィが少しの警戒を込めて見上げた先、黒髪の魔人は、仕事を終えれば早々に踵を返していた。


「あ、運んでくれて、ありがとうございました!」


 サチカはその背にお礼を言って、頭を下げる。

 立ち去る後ろ姿に、尻尾はないんだなあと感想を持った。ついさっき、カウンターに食材を置いて貰った時になって初めて、黒髪の魔人の頭上に三角の耳がついていることに気がついたのだ。


(でも、今はそれよりも……この食材で、どこまでできるか確かめたい!)


 サチカは気合いを入れて案内妖精を振り返った。

「さぁ、なー君。クレープを作るよ、手伝って!」



 靴を脱いでキッチンカーに乗り込み、備え付けられた小さなシンクで手を洗う。

 サチカの目にはいつも通りの両手だが、魔王監修の元で創世の女神が調整を終えたはずの手だ。

 大丈夫、と自分に言い聞かせ、卵の実を割り、クレープ生地を用意する。


 とろりとした液体が鉄板にじゅわりと落ち、サチカの操るロゼルでくるくると撫でられ薄く丸く引き伸ばされた。

 完璧な見極めの焼き加減でぺらりと鉄板から生地が剥がされ、スパチュラに引っ掛けたクレープ生地は裏返しで鉄板に戻される。


 流れるような手捌きに、創世の女神がほうと息を吐いた。


「すごいわ……あんなに薄くできるのね」


 クレープ作りを初めて観るのは黒髪の魔人も同じで、じっとその手元を観察していた。


 ここまでは、初めに焼いて劇物となったクレープ生地と同じもの。

 サチカは、薄く焼き色のついたクレープ生地をほんの一呼吸でもう一度表裏を返してしまうと、譲って貰った発酵バターの結晶を手に取った。

 ほんのりと黄色が透ける乳白色の水晶のようなバターは十センチ程の細長い塊で、持ち手になる部分は直接触れることがないように白い葉が巻かれていた。

 これはサチカから相談を受けたナビィが用意した卵の木の葉で、衛生面だけではなく熱伝導率も低く、熱に弱いバターの摩耗を防いでくれる間に合わせとは思えない優れ物だ。


「うん、なー君、完璧だよ」


 サチカの言葉に、次の作業の用意をしながら、ナビィが得意気に唇を引き上げる。

 にこりと微笑み返して、サチカは発酵バターをクレープ生地に押し当てた。

 満遍なく塗り広げるようにすると、バターはクレープ生地の上でじゅわわと溶けて黄金色のバターオイルになる。

 発酵バターの贅沢な香りが、豊潤な湯気となって漂った。

 くつくつと薄く煮立つバターオイルが生地に染み込むのを見守って、最後の食材であるグラニュー糖を振りかける。


(美味しくなあれ、みんな笑顔になあれ!)


 グラニュー糖は少し多めかなと思うくらいが美味しいので、サチカはおまけのひと匙を忘れない。

 光を反射する甘い結晶が金色の泉のようなバターオイルの上で溶けると、クレープ生地は細かな星が散らばるようにキラキラと輝いて見えた。

 それは今まで何百枚とクレープを焼いてきたサチカにとっても初めて見る美しさで、きっと美味しいに違いないと思わせるものだった。


 スパチュラを使ってパタリパタリと折りたたむ頃、カウンターの前にはお客様が鈴なりに顔を揃えていた。

 これまた案内妖精が準備したワックスペーパーに似たわしゃりとした手触りの紙に包み、扇型にしたクレープをカウンター越しに女神の前に差し出す。



「お待たせしました、バターシュガークレープです」



 両手で受け取った女神は、初めてのクレープを前に子どものように瞳をキラキラと輝かせた。


「これが、クレープなのね……!」


 サチカは次の一枚を焼き始めながら、女神の反応を見守る。

 夢のように美しい女神が食べ歩き用にセットされたファストフード的なクレープを持っている姿は、これじゃない的な違和感がありながらも、どこか可愛らしいものだった。

 発酵バターと甘く溶けたグラニュー糖の香りに誘われてぱくりと一口齧り付いた女神が、その美しい顔に驚きと喜びを浮かべる。


「美味しい……!」


 ほっとしたサチカは、二枚目のクレープ生地に発酵バターを塗りながら微笑んだ。

 小さな口でぱくりぱくりと夢中になってクレープを頬張るお客様の姿は、サチカが今までバイトしていた駅前のクレープ屋さんでも馴染みの光景だ。


 手早い職人技で次のクレープが焼き上げると、今度はカフェラテ色の魔王に手渡す。

 彼はすぐには食べずにくるりと全容を観察して、サチカに合格と言い渡した。


「祝福も調整できてるようだね。多少の進化を促すだろうが、これなら大丈夫」

「わぁ、ほんとですか。よかった……!」

「あぁ、迷宮グランシャリオに店を出して構わないよ」


 大家さんの許可である。

 食べてから目を見開き驚いたのは、単純に美味しかったからのようで、クレープファンが増えた瞬間にも、サチカはにんまりとした。


「ありがとうございます。やったね、なー君、やったよー!」


 嬉しさに万歳と小さく両手を上げて、それでも喜びの表現には足りなくて、隣の案内妖精の手を掴んでぶんぶんと振り回す。


「良かったな……って、うわ、わかった、わかったからちょっと落ち着け!」


「はぁ、美味しかった。クレープは、わたくしが思っていた以上に、素晴らしいものだったわ……」

「女神さ……じゃなくて、ティア。あのね、他にもアレンジメニューが沢山あるの。作れるようになったら、一番最初のクレープはティアに捧げるね」

「ええ、ええ! サチカちゃん、楽しみにしているわ」


 キラキラと光を振り撒き空気も喜びに染めながら微笑む女神は、それからと背後の黒髪の魔人と、そのまた後方で地面にくたりと横たわるミミタマ族の魔人を見た。


「それから、魔王候補の子たちにも今のクレープを作ってあげてくれるかしら?」

「はい、もちろん」

「サチカちゃんのクレープの常連になれば、進化の祝福が育って魔王に育つと思うのよ」

「あぁ、それは助かるなあ。隠居ができる。テラ、そっちのミミタマ族も連れておいで」


 女神の提案に、クレープを食べ終えた魔王がゆったりと微笑んで彼らを手招いた。

 サチカは戸惑いながらも承諾して、案内妖精と目を合わせた。

 ナビィも女神と魔王のコンビには強く出切れないようで、眉根を寄せつつも頷いてみせる。

 クレープで魔王を育てる的な不穏な説明が混ざっていたのは、サチカの気のせいではないらしい。


(この世界で、クレープはどうなっちゃうんだろう?)


 すでに女神への献上品で魔王御用達な辺りに、サチカとしては既に分不相応な気がする。

 けれど、じゅわりと鉄板にクレープ生地を落としてしまえば、未来の不安はクレープ作りへの喜びに取って変わる。サチカは流れる動作でロゼルを手に取った。

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