3.妖精の名前と揺り籠の名前
女神の揺り籠というのは、創生の女神の夢を育む神器の総称で、その形状は様々だと言う。
「失われずに現存している物は、剣と天秤で、どちらも持ち運びができるくらいの大きさだな。こんな揺り籠は聞いたことがない」
キッチンカーを見た案内妖精は静かに目を見張って、ぱたりと光の粉を纏う翅を震わせる。その仕草が、彼の驚きと高揚を現していた。
「あの、案内妖精……さん? 私、運転免許持ってないんですけど」
迷いつつ呼びかけたサチカを振り返り、案内妖精は思い掛けず無垢な仕草で首を傾げた。
「運転免許って何だ?」
「ええと、勉強して技術を身に付けた人が貰える車を動かす許可証みたいな」
「なるほど、免状か。その運転ってのは、俺ができるようにするから問題ない。あと、名前はお前が決めてくれ」
「名前? キッチンカーの名前、ですか?」
「いや、俺の」
「案内妖精さんの名前!?」
「そ。俺はお前の案内妖精だからな。個体名は主人が決めることになってる」
案内妖精というのは種族名で、ひとりひとりの名は、その主人が付けるものらしい。
「創世の女神から何も聞いてないのか?」
「ええと、聞いたかも? しれません」
明け方に見た夢のようにふわりとした記憶には、女神との会話が確かに残っていた。
サチカは思い出そうと眉根を寄せるが、記憶の断片はゆらりゆらりと風にそよぐ細い糸を手繰り寄せるような不安定さで、なかなか捕まらない。
「クレープが食べたいって言われたのはしっかり覚えてるんだけど、あとは……案内の者がいるからって、あ!」
「その案内の者が俺だな。……それにしても、思ったより前情報が少なそうだな」
「う、ごめんなさい」
「いや、お前のせいじゃないから気にすんな。この世界のことを一気に教えてやることもできるけどーー」
驚きに目を丸くするサチカを見て、案内妖精は小さく笑う。
おそらく、女神の夢を共有して得た知識がサチカの許容を超える情報量だったせいで、思い出せないよう守護がかかっているのだろう。
そう目星をつけた案内妖精の本分は、サチカの歩みを補助するものだ。
「その様子じゃ、多分無理だからゆっくりな」
これからよろしく、と出された小さな手。
サチカは人形のように繊細なそれを傷つけないようそっと握った。
「こっちこそ、よろしくお願いします!」
今更ながらの挨拶の後、サチカはキッチンカーを調査する案内妖精を眺めながら彼の名前を考えていた。
水色の髪は艶やかに木漏れ日の光を弾いて天使の輪を作り、怜悧な光を浮かべた鮮やかな金緑の瞳は宝石のよう。
少しばかり偉そうな態度も彼の魅力のひとつで、見つめているだけでほぅと息を吐きたくなるような美少年だ。
御伽噺に出てくるような美少年妖精の名前を付けるなんて責任重大なことだった。名前は一生のもの、両親から子どもへの最初の贈り物……サチカは親ではないが案内妖精の主人として、彼に似合う名前を考えなければならない。
気合いを入れたサチカはううんと考えて口の中で小さく呟いた。
「なー君」
音も良いし、親しみやすく、何より可愛い。
満足の案に笑顔を浮かべたサチカに、案内妖精が注意を促してきた。
「ふざけた名前を付けたら、案内しないぞ」
低い声で脅され、ヒェと息を飲む。
「えっ、なー君可愛いのに?」
金緑の瞳が冷え冷えとした光を放ち、辺りの気温も下げてきてる気がして、慌てて次の案を提示した。
「えと、そしたら、ナビィでどうですか?」
進行役とか航海士の意味があるナビゲーターから取ったもので、サチカは心の中ではなー君と呼ぼうと考える。
ちなみにキッチンカーの名前は、揺り籠のゆーちゃんに決めていた。
「まぁ、いいぜ」
瞳を緩めた案内妖精ーーナビィは、ひとつ頷くと半透明のディスプレイを取り出して、ぽんと指先でタップをした。
風を受けた湖面の様に細波立つディスプレイは案内魔法のひとつで、この系統の魔法に特化した案内妖精でもなかなか持ち得ない程の高位魔法であるらしい。
世界の枠を視認化して、そこから欲しい情報を得ることができ、また新たな情報を登録することも可能だという。
例えば異世界からの転移者であるサチカの情報、これはナビィが主人として登録して厳重に保護をかけたので他者に奪われることはなくなっていた。
「情報が奪われちゃうと、どうなるんですか?」
結果がもたらす面倒なあれこれを思い浮かべて眉をしかめたナビィは、不安そうにするサチカに気づいて肩を竦める。
「ま、色々だな」
誤魔化す言葉が更に恐怖を煽り、サチカは目を見張って青ざめた。
「迷宮は物騒な場所ではあるが、安全性はこの揺り籠があるから大丈夫って言っただろ?」
「そういえば……はい」
「あと、敬語はいらないから」
ナビィはさっきから気になってたんだけどな、と前置いて言った。
「俺はお前に使わないし、だからお前もいらないからな」
金緑の瞳でじっと見られ、押しに弱いサチカは思わず頷く。
「わかりまし……わかった」
「異世界産の揺り籠か、どんな操作か……腕が鳴るぜ」
唇の端を持ち上げ挑戦的に笑うナビィの隣で、サチカは本当に腕が鳴っちゃうのかな、と彼の細い腕を見る。
もしも知らない音が出ても、不思議な生き物の生態なのだから、あまり驚きすぎないよう気を付けようと心掛けた。
ナビィと共に乗り込んだキッチンカーの座席は、その可愛らしい外観に合わせた優しいベージュ色の革製で、ふんわりと体を包み込む高級ソファのような座り心地だ。
恐る恐る座ったサチカは、眠りを誘うような素晴らしいクッション具合に、ほうと溜息を吐く。
しかし、自動車の運転免許を持っていないサチカが助手席に収まるのは当然としても、小さな妖精が運転席に立っているのは違和感しかない。
そもそも体長四十センチのナビィの手はハンドルに届かないし、アクセルにもブレーキにも足が付かない。座ってしまえば前が見えないだろう。
安全のためにはチャイルドシートもしくはシートベルト装着ができる小動物用キャリーバッグが必要だが、慣れた手つきで手持ちのディスプレイと比較しながらあれこれ確認しているナビィの堂々とした振る舞いを見れば、異世界の妖精の運転事情はサチカの知るものとは大分異なるようだった。
シートベルトを締めながら何度も隣の席を確かめ、その分手元の方が注意不足となってベルトの固定に失敗していると、よく気付く案内妖精がサチカの手からベルトを引き取ってカチャリとはめてくれた。
「きつくはないか?」
しゅるりと体に沿ったベルトの状態を見て尋ねるのは、サチカの心配だけではなく、好奇心が混ざっているようだった。
そういえば、先程ドアを開けて閉めてくれたのもナビィで、彼の自然なエスコートを思い出して慣れない扱いに面映くなる。
「ありがとうございま……ありがとう、大丈夫」
「ん。今、操作方法を確認するから、ちょっと待ってろ」
そのまま座っているようにと指示すると、ナビィはどこか楽しそうな様子で運転席の計器類を見て回る作業に戻った。
その間に、サチカはこれからのことを考える。
(……私がやることは、クレープを作ること)
思い出した女神のお願い事は、ありがたいことにサチカの得意分野だ。
そしてこの話は、アルバイト先のクレープハウスが閉店し、学費を稼ぐための職場を失ったサチカにとって、渡り船でもあったのだ。
鈴の音のような可憐な女神の声を思い出し、どんなクレープが好きなのかを想像してみる。
卵の優しい風味が広がるカスタードだろうか? 少しビターなチョコレートに焼き目のついた甘い甘いバナナを合わせたり、生クリームをたっぷり敷いて薄切りにした苺を花びらのように飾ったものも良いかもしれない。
いつか雑誌で見たことがある小さな花束のようなクレープは、サチカが勤めてたクレープハウスにはなかった憧れのメニューで、思い描いた美しい姿に胸が高鳴るようだった。
「よし、わかった」
たった数分で異世界産キッチンカー仕様の揺り籠の性能と操作方法を把握したナビィは、美少年顔に得意気な笑みを浮かべてサチカを振り返る。
「早速出発できるけど、最初の食材はどんなのが良いんだ?」
「まずは基本から。生地用の新鮮な卵をお願いします」
キリリと顔を上げたサチカの声を合図に、キッチンカーが走り出す。
「よし、卵の木だな」
「たまごの……き??」
迷宮の卵は、どうやら木の枝に成るらしい。
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