第2話 『エアコンの恩恵は望めない』
夏。妖怪も人間も裸足で逃げ出すような、焼き殺す勢いで照りつける日差しが憎らしい。
そもすれば人類の英知たるエアコンなんてモノは、砂漠の中のオアシスにも匹敵するほどの天国と言っても過言じゃないはずだ。
だっていうのに、今エアコンが効いたこの一室は居心地が悪くて仕方がない。オマケに俺の頰には汗────世の中はこれを冷や汗と言う────が伝い、エアコンの恩恵なんてものは到底得られているとは思えなかった。
状況を整理しよう。
今俺がいるのはお世辞にも広いとは言えない一室。俺を挟み込むように左右の壁には威圧的な本棚が鎮座していて、正面の壁には日差しが入り込む大きな窓。窓の右上ではエアコンが俺のことを見下ろしており、助けを求めたところで冷たい息を吐き出してくれるだけ。
とりあえずこの場から救ってくれる誰かを探すのは辞めにして。目の前に視線を向けると、これはこれは不機嫌そうに顔面を歪めるジャージ姿の男が見える。
上下セットの赤ジャージと、首から下げたホイッスル。右手にはジッポーライターが握られていて、机の上に置かれた紙束をこつ、こつ、なんてリズム良く小突いている。もう四十にもなるというのに、洒落っ気付いて髪を茶色に染めていることを指摘したら『
「…………なあ、
そんなしかめっ面のジャージの男、
正直ここで返答はしたくない。これは説教されるパターンだとわかりきっているし。
「……な、なんスかね先生」
しかしここで返事をしてしまうのは俺のメンタルが弱いからである。
だってここで返事をしなければもっっっとめんどくさいことになるのはわかりきってるし。極力めんどくさくない方を選択するのは当たり前だろう。
「今七月の何日だ?」
「十三日の月曜日ですね……」
スマートフォンを取り出しながら日付と曜日を確認すると、先生はこれまた大きなため息を吐き出された。
ついでに机の上に置かれていたタバコの箱に手を伸ばすとその一本を口に咥え、キン、なんて甲高い音を立てながらジッポーの蓋を跳ね上げ火をつけて、最初のひと口を目一杯に吐き出しては、
「で、澄人先生の超大作たる『反省文』はこれで今月何本目だ」
「……六本目です」
「あのなァ。いい加減学んで欲しいんだよ俺は。二日に一本ペースで反省文とかマジで手前反省文でエッセイでも書くつもりか?」
ただでさえ強面だというのにガンを飛ばすばかりか睨みつけてくる。怖い。正直怖い。
いやしかし。しかしだよ。俺にだって言い分はあるってもんだ。
反論を挟もうと思わず前のめり。煙が目にしみて涙目になった。だがここで止まるわけにはいくまいて。
「でも俺だって学習しててさあ!! 今回だって被害は抑えめだろ!?」
「相手の奥歯六本へし折って更に右腕骨折は〝抑えめ〟とは言わねェ!! 相手がいくら犯罪者とは言え俺たち
「いっでえ!!」
拳が頭に飛んできた。凄まじい速度で。そのままの勢いでソファに無理やり戻され、ソファは優しく俺を包み込んでくれる。この場で俺に優しいのはソファだけだった。なんか悲しくなってきた。
とはいえ、加減したのは事実だ。俺だって好きで足繁く生徒指導室に通ってるわけでもなければ、反省文を書いてるわけでもない。その度もう二度とこんなめんどくさいもん書くもんかと意気込んでいるし反省もしている。だというのに結果がついてきてくれないだけだと主張したい。
「俺だってな、好きで手前を叱ってるんじゃないんだよ。こんな狭い部屋で男と二人向き合って四、五十分だんまりってのも嫌だ。その後反省文に目を通すってのも苦痛で仕方ない」
「じゃあ反省文なんて制度を無くすってのは……」
「それじゃ生徒が前に進めない。難しい話なんだよコレが。わかるか? 白髪だって増える。誰だってそうなる」
ああだから髪染めてたのか……それは確かに俺のせいかもしれない。悪いことをした。
そして突然部屋に満ちる沈黙。空気が空気な手前、茶化す気にもなれず先生に倣うように黙り込むしかない。
そのまま五分程経っただろうか。吸い殻を携帯灰皿に押し込んで、先生は改めて俺に視線をくれる。今度は割と真面目な雰囲気で、その視線が『茶化すなよ』と威圧をかけてきているように見えた。
「あのな、人間ってのは手前らが思ってる以上に脆い。それは理解してるか?」
「……してる。だからその、加減もしたい」
「その気持ちは理解できてんよ、一応。だからこうやって見捨てず毎回付き合ってるワケだし」
……こうやって急に優しくなるものだから、この先生は憎めない。真摯に俺なんかに向き合ってくれる人が少ないから、尚のこと。
なんともいえない空気だった。思わず口元が複雑な感情に歪む。なんと言葉を返していいのかわからない。
「………………まあ教師としては説教しなきゃいけねーところだが。俺としては、別にゆっくりでもいいんじゃねェかなとは思ってるよ。しっかり前に進めてれば、それでいい」
「……うす。ありがとうございます」
またもや気まずい沈黙。どうやり過ごすべきか迷っていると、丁度ノックの乾いた音が響いた。
先生が「どーぞー」なんて気怠げな声を上げると、引き戸がゆっくりと開く。
部屋に入ってきたのは俺のチームメイトである
天音は部屋に入るなりわかりやすいほど顔をしかめて、
「……先生、生徒の前でタバコを吸うのはどうかと」
「許可はちゃんと取ってるって」
なあ? と俺に戯けた様子で問いを投げる先生。まあ俺は大してタバコを吸うことに関しては気にしないし。小さく頷きを返しておく。
「……まあ良いです。反省文も終わったようですし」
若干天音は不服な様子。天音の気持ちもわからなくはない。なまじ俺たちは鼻が効くのだ。タバコだとか香辛料だとか、匂いが強いものには度々顔をしかめることもある。
「そういや天音、どうしたんだ? わざわざお出迎えなんて。いつもは俺のことなんて、待つコトすらしないだろ」
閑話休題。とりあえず視線を先生から天音に向けて問いを投げておく。
さっきまでの流れからわかる通り、俺が反省文を書かされるのはいつものことだ。呆れ切った天音はだいたい先に帰っていて、俺の反省文の完成なんて待っててくれやしない。
何か悪いことでもあったんだろうか。そんな思いを込めて問いを投げたのだが、天音はというと俺の心配とは裏腹に、満面の笑みを咲かせてみせた。
「そう、そうでした。とうとう私たちに〝指定依頼〟が入ったんです!」
「マジでか! やったな!!」
「────、…………」
その場で勢いよく飛び跳ねてみせる天音。俺も釣られるように勢いよくソファから立ち上がり、天音と思わずハイタッチ。しかしこの場でたったひとり、温度差を感じる反応を示すのは先生である。
先生は引きつった笑みを浮かべると、そのまま机に突っ伏して。なにやら正気のない笑いをひとしきりあげた後、ここにきて今日一番の大きなため息を吐き出した。
「………………手前らの担当教師として喜ぶのが正解なんだろーが。胃痛の気配がする」
……今日だけでどれだけの先生の幸せが逃げていったのだろう。
そんな茶々を入れる間も無く突っ伏した先生の頭頂部を見つめていると、勢いよく。それこそ漫画であればその横に『バッ』なんて効果音がつきそうな勢いで顔を上げる先生。
「頼むから問題を起こしてくれるなよ。起こしそうなら止めろよ天野」
思わず視線を逸らしたのは言うまでもない。俺はできない約束はしない主義なのである。ついでに視界の隅で天音まで顔ごと目をそらすのが見えた。
「……………………善処します」
「それは行ければ行く的なニュアンスだと思うんだけど」
「善処するわ」
「目一杯善処しろよ手前ら!! 絶対だからな!!」
担当教師。ともなれば、俺たちが問題を起こせば先生が白い目で見られるのも当然な話で。
先生の短い悲鳴を背中に聞きながら、ぴしゃりと。生徒指導室の戸を閉めた。
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