ねぇ。
狐火
前編
「ねぇ、聞いてる?」
今まで眠るのに心地よいほど穏やかだった口調は途切れ、低くうねるような声が私の鼓膜にゆっくりと響いた。
「え、うん」
そうは答えたものの、私は彼の話を全く聞いていなかった。顎にできたニキビに触れ、昨夜食したチョコレートによって噛み締めた幸せを私は思い出していたのだ。彼を見ると、彼にしては珍しく疑いのまなざしを私に向けていた。
彼は人を疑うことをあまりしない人だ。私の口から出る全てのことを、ああそうなの。と無関心に流す。もしかしたら疑う必要もなく嘘か誠かの区別をつけることに彼が非常に長けているだけかもしれないが。
私という人間に呆れているのかもな、と彼を見ていると感じることがあった。それはだらしない自分への負い目から私が勝手に感じているのかもしれない。年上で社会的地位も私より高い彼は私のことをすべて理解しているような顔をして生きている。そんな彼の隣にいると私は彼のことを何も理解できていないように錯覚してしまう。彼という存在の0から100まで全て、理由も根拠もない冗談のようなものである気がしてならない。
「そっか。」
彼は何とも言えない顔をして私から目をそらした。このデートの待ち合わせに5分遅刻してきた私を彼は咎めなかったが、私のニキビを一目見て彼は顕著に不快感を表情にあらわにしていた。五分の遅刻を許して顎のニキビを許さない彼は、ニキビができる食生活を行った私という存在そのものを軽蔑している。
けれど私からしてみればこのニキビは昨日のたった数粒のチョコレートが原因でできたもので、今日数分寝坊したことで5分遅刻した失敗と何ら変わりは無いような気がした。けれど彼に女として存在することを求められている私は、遅刻は許されてもニキビは許されないらしい。
彼と一緒にいると不思議と言葉では伝えきれない、生きている者の闇を感じることがあった。その闇は重くて粘り気が強く、どんなものでも丸呑みしてしまい私なんかには到底扱えるものではない。けれど彼と付き合ったばかりの時、私は彼がその闇を見せてくれることが嬉しく、その闇にのめり込み窒息死でもしてしまいたいと思っていた。
しかしそれは恋にて錯覚した、自分の許容範囲の見当違いというものだった。しかし月日が経つにつれてその闇が一思いには私を殺してくれないことを知った。じわじわと私に苦しみを与え、背後からチクチクと針のようなもので私を痛めつける。その闇は悪意というものかもしれないし、はたまたもっと末恐ろしいものかもしれない。
たまに現れるその闇は彼の一部でしかない私は思っていたが、どうやら彼の本質のような気さえ最近している。私はその闇が私の味方だと無意識に思い込んでいたが、決してそんなことはなかったのだ。闇を吐き出し代わりに私から生まれた幸福も不幸もおいしそうに飲み込んだ彼は、私にそんな苦しみを与えていないよと言うかのように穏やかな顔をして生きていた。
まるでその闇は私自身が勝手に作り上げているかのように見せ、彼は私を洗脳していった。私は彼の被害者なのだと信じたかった。けれどそれは彼にも世間にも通用はしない。
いつか母は私に「女の人生は一緒にいる男で決まる」と私に言ったことがあった。当時の私は自分が女であることに非常に価値を置いていて、自分の人生は男なんかに左右されないと思い込んでいた。
しかしここ数年、彼と出会ってからはその言葉がこの世の縮図の核心をついている気がしてならない。悔しいけれど、女は男に左右されてしまう。実際私の言動や行動や付加価値は彼に左右され、彼は私なんかにはちっとも左右されていない。彼の人生に何の影響力も持てない事実は悲しいものだ、もしかしたら叶わぬ恋よりも悲劇かもしれない。
「お昼ご飯は何にする?」
彼は優しく私に聞いた。すると途端に私は昨日食べた美味しいチョコレートを思い出し、その事を彼に話したくなった。今話すべきことではないのは分かっていた。けれど私は自分の衝動を抑えられない。思い出したことで私の中でさらに膨らんだチョコレートの記憶が横隔膜付近にある自制心を押しつぶし、赤ん坊の唇よりも柔らかい私の口から容易にあふれ出る。
「昨日食べたチョコ、美味しかったの」
彼は何も言わず私を見た。そして段々彼の目線は私の顎のニキビに移る。小馬鹿にしたように歪む彼の口元を見て、私の中にある女性としての像がなぎ倒された様な気がした。言わなければよかった、そんな単純な後悔では気持ちはこの悲哀の気持ちは表現できない。今までもこんな後悔を私は何十回も経験して、その度に後悔の味の苦さを噛み締める。しかしその苦さで昨日のチョコレートの甘さが恋しくなってしまうほど私には学習能力がない。
「俺のチョコレートはないの?」
彼がそういうと、少しだけ私はほっとした。触れられたくない女としてのプライドをズタズタに切り裂かれるかと私は危惧していたのだ。
それは、束の間の安堵。
しかし彼を見れば私のことをすべて見透かしたかのような笑顔を浮かべていた。弄ばれている、手に平に乗せられ転がされるこの屈辱よりも、慈愛を授けたと彼に思われることが何よりの屈辱だった。
その辱めによって悔しい、妬ましい、彼を苦しめたいとまで思い始める私。けれど今度こそ彼に呆れられて捨てられてしまうかもしれないと彼に捨てられることを恐れる私は、その屈辱を忘れるほどに彼のその言葉で蟻地獄から抜け出したような開放感を授かるのだ。
「家にあるよ」
そう言って私はハッとした。これでは、そんなつもりは無かったがまるで私が家に誘う口実を作るためにチョコレートの話をしたように彼には聞こえてしまう。案の定彼は私の口実に乗ってあげる振りをし始める。
「じゃあ、行くよ。」
違うの、本当にチョコレートが美味しかっただけなの。貴方を誘うためにこの話をしたかった訳では無いの。そんな言葉は当然私の口から出ていく勇気もない。彼の中で私への誤解が生まれてしまった。彼の目に私が計算高い女に見えてしまうのは凄く嫌だった。それは私ばかりが彼を好きで、彼に好きでいてくれと頼んでいるように思えるからだった。
「お昼ご飯はどうする?」
また優しく彼は私に聞いた。その優しさは計算高く彼を家に招き入れる嫌な女である私を包み込んで愛してあげる優しい彼氏を演出しているようで、反吐が出そうだった。
「何でも、いいよ」
ご飯は食べたくない。チョコレートが食べたくて仕方なかった。今私の脳内はほとんどチョコレートで埋め尽くされている。
「美羽がこの間食べたいって言っていたお店、ここら辺だよ」
そう言って彼はスマホを取り出して検索し始める。私は何を食べたがっていたっけ?必死に脳内を駆け巡り思い出そうとするが脳内どこを走ってもチョコレートばっかりだ。
「あった、あった」
彼は私に自分のスマホの画面を見せた。きれいな店内に見合う大きな皿にちょこんとパスタがのせられていた。そのお店は、胃の容量の半分も満たされないのに財布だけは軽率に軽くなるようなお店だった。
「こっちだ」
私の手を引いて彼はスマホの地図を見ながら歩き始める。
「何食べる?トマトパスタが美味しいお店だって言っていたよね」
彼は目的地が決まるといつも歩みが早くなる。今も目的地を目指し私の腕をぐいぐい引っ張って少しも私を振り返らない。
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