最終章 越えるんだ

 二〇一九年

 佐治ケ江優 二十五歳



     1

「あー、つっかれたあ。筋肉痛で死ぬう」


 板で仕切られている、小さな扉で身体を隠すだけのシャワールーム。先ほどから隣では、そんな情けないぼやき声が繰り返されていた。


 筋肉痛じゃ死なないですよ、などといってあげるまで続くのだろうか。いわゆる突っ込みなるものを、こちらが切り出すまで延々と聞かされるのだろうか。


 などとゆうは真面目に考えてしまっていた。真面目にもなにも、人生で一度もふざけでものを考えたりしたことはないのだが。


「でもほんま、先輩とこうして一緒になるなんて思いもしませんでした」


 結局、突っ込みを期待されている空気に耐えられず、優は自分から話題を変えた。


「そりゃあたしもだよ」


 隣から、仕切りに手をかけたたかが、ぐいっと顔を覗かせてきた。

 優は、びくりと肩をすくめて身体を捻りながら胸を隠していた。同性相手に裸を見られただけであるが、なまじ扉で身体が隠されて個室のようになっているだけに、上から急に覗かれてつい反射的に。


「ああ、ごめん」


 梨乃は顔を引っ込めた。


 ここはフットサル女子日本代表合宿練習施設の、シャワールームだ。


 優は二年振り三回目の代表召集を受けた。

 初日である今日、はるばる札幌から訪れた優を、大いに驚かす出来事があった。

 集まった代表候補メンバーの中に、高校時代の先輩で人生の恩人と仰いでいる高木梨乃の姿があったのである。


 確か先日発表されたメンバーの中には、入っていなかったはずなのに。


 本人から聞いてみたところでは、なんでも優と同様に今回三回目の召集を受けたはるが一身上の都合で辞退。そのために追加召集を受けたとのことであった。


 この話は、優をさらに驚かせた。

 高木梨乃と野木春江が、旧知の仲だということに。


 聞けば、中学生の頃にダラダラと惰性で陸上部を続けているだけだった梨乃が、春江と出会ったことからフットサルという競技を知り、のめり込むことになったというのだ。

 野木春江は梨乃にとって、フットサルに限らず人生色々な面での、師匠的存在なのだそうな。


 優は、野木春江と会ったのは一度きり。

 この前に召集を受けた時だ。

 いつの間にかいいポジションにいて、いつの間にかボールを奪われて、なんだか掴みどころを探りかねている間にいつの間にかやられてしまっている。でも味方の側になれば、それはこちらが心地好く感じられるようなプレーでチーム全体を引き上げてくれる。そんな選手であった。


 そんな野木春江にプレーを色々と褒められて、優は嬉しく思ったことを覚えている。


 春江がいたから梨乃先輩はフットサルを始め、

 梨乃先輩にフットサルの楽しさを教えられて、自分はこうしてここにいる。


 優は運命論者ではないが、世の中にはなにか一連の法則のようなものがあるのかも知れないなどと思わずにはいられないことであった。


 なお初日より開始された合宿のトレーニングであるが、それはハードなものであった。

 インターバルトレーニングで身体を追い込み、持久走と乳酸値計測、ボールトレーニング、紅白戦、筋トレ。

 すっかりバテバテのヘトヘトになり、こうして長めのシャワーで心身の疲れを落としているというわけである。


「でもさ、いきなりサジと一対一をやれっていわれた時はびっくりしたよ」


 シャワー室の仕切りの向こうから、梨乃の声。


「あたしもです」


 ボール奪取の戦術練習の途中、二人は突然に監督から名指しで声をかけられ、みんなが見守る中でボールの取り合いをさせられたのだ。


 奪って奪われの繰り返しであり、勝敗のあるものではないが、奪った回数やキープする時間などからあえて勝敗をつけるのであれば誰がどう見ても梨乃の圧勝という結果であった。


 その結果を生んだ大きな理由としては、優がトレーニングで体力を使い切ってへとへとになっていたことに加え、梨乃が優の動きの癖を熟知していたから、などが挙げられるだろうか。

 その証拠に、その後にながれやまほたるという技術力ある選手が優の相手をしたのであるが、優は苦しそうな表情でぜいはあと息を切らせながらもほとんどボールを相手に触れさせることなく所定の時間を守り抜いてしまったのであるから。


「監督、うちがいた大学のフットサル部でコーチをやっていたことがあるけえ。一昨年に臨時で半年間だけ、じゃけえ面識はなかったんじゃけど」

「ああ、それであたしらが対戦した記録を見て興味を持ったってことなのかな」

「きっとほうじゃと思います」


 優のいたがわ女子大学と、梨乃のいたしゆうめいいん大学は、地域のリーグ戦覇者の集まる大会にて中国と関東それぞれの代表として対戦したことがある。

 それぞれのフットサル部には詳細な記録が残っているであろうし、一度興味を持てばフットサル関係者ならば誰であろうと試合の動画くらい入手は容易だろう。


「なるほどね。あれ、そういえばサジさあ、高校の頃は標準語喋ってたよね」

「ああ、やっぱり梨乃先輩も気になりますか? 地元に誇りを持ちたくて、というよりも忘れたくなくて、意識してそうしとるんです」

「そうなんだ。いいね、そういう考え。でも変わってるよな。関西人は経験上どこでも意地でも絶対に関西弁って感じだけど、それ以外の地方の人ってよそに行くと自分の地元の言葉を話さなくなる気がするけど」

「はい。ほじゃけえ最初は恥ずかしかったけど、慣れるとちょっと気持ちええですよ」

「サジ、変わったね」

「ほうですか?」

「さすが王子に会うたび一発ギャグ無理矢理いわされて鍛えられているだけあるな」

「一度もいったことないですよ! 確かに王子はいわせようとしてきますけど。ほうじゃからって王子のいうこと真に受けないで下さい」

「王子が既定事実にしてしまおうとしてただけか。いや、なんか、ちょっとだけおかしいとは思ってたんだよな」

「本当にちょっとだけと思ってたんなら、梨乃先輩の方がおかしいと思います」


 一体、どこまでの大嘘を王子は吹聴したのだろうか。梨乃先輩以外にもこんな出鱈目を広げたりしていないだろうな。


 知らないところで自分の知らない佐治ケ江優像が出来上がってないだろうかと、ちょっと不安になる優であった。


「いや、ごめん。サジもいうようになったね。話変わるけどさあ、今日の先輩方、なんか裏の顔が凄かったねえ」

「大きな声で話すと聞こえますって!」


 優はびっくりして、こそこそっとした小さな声で怒鳴った。


 裏の顔とは、優も以前に受けたことのある新人への洗礼のことである。

 前回の合宿では、初召集のともえかずのうまいの二人にターゲットが移り、そして今回、梨乃の番になったのだ。


 梨乃は既婚で子供が二人いるということと、野木春江の辞退による追加召集であったために、そこを執拗に突かれていじめられた。


「まあ、あたしはあんまり気にしてなかったけど。だから結構のびのびした気分でやっちゃったけど、それが余計にイラつかせちゃったのかな。でも大学の時なんか、あれより遥かに理不尽な目にあってたからね」

「そういう気持ちの強さ、羨ましいです。あたしなんかてんでダメで……ほやから、あたしは梨乃先輩にいつまでも勝てないんじゃろなって思うんです」

「ただ鈍感なだけだよ。というか、いつまでも勝てないってなんだよ? 今日の一対一のことなら、別にあたし勝ったなんて思ってないけど」

「いえ、あたしの負けです。……悔しいですけど」

「よく分からないけど……。でもやっぱりサジ、変わった。悔しいだなんて、面と向かっていうような性格じゃなかったよ。それどころか、悔しいという感情自体がなかったというか」

「一人でボール蹴っとりたいだけじゃのに。ってずっと思ってましたからね」

「まあ正直いうとあたしは今日もね、絶対に負けてたまるかと思ったし、負けないでよかったという気持ちもあった。勝ったなんて本当に思ってはいないけど、とりあえず負けなくてよかった安心感というかなんというか。……でもね、それももう終わりな気がするんだよね。あたしは敗北感という悔しさがすなわち達成感という奇妙な精神状態で、この合宿を去ることになるような気がする。で、それがサジの率いる日本代表を強くするんだ」

「なにをいっているのか、よく分からないんですが」


 よく分からないだけならまだいいが、ちょっと悲しくなるような、そんな梨乃の台詞であった。


「あたしも分かってないよ。ただ今日ね、サジと勝負をさせられているうちに、なんとなく漠然とそんな考えが浮かんだんだ。ま、なにが起きてもいいように、とにかく残りの日も頑張って充実したものにしよう。それじゃお先に」


 きいと扉が開く音がした。

 梨乃が鼻歌交じりにシャワー室を後にしたのである。


     2

 ゆうはスペイン代表の5番と向き合ったまま目をそらすことなく、後ろにいる味方からのボールを踵で受けていた。


 優は足を上げて相手にボールを見せた。足の裏で踏み付けようかというその瞬間、踵でこんと押すように右と蹴り、追うように自身も右へと動いていた。


 長いリーチの脚が槍のように鋭い勢いで優へと伸びてきたが、その足先は虚しく空を切っただけでなにも捉えることは出来なかった。


 逆? いや……

 と焦る5番をもてあそぶかのように、その長い脚の上をひょいとボールが、続いて優の身体が飛び越えていた。

 背後に受けたボールをちらりと相手に見せた瞬間から、佐治ケ江流のフェイントが始まっていたのである。

 スペイン代表の5番は、ボール位置から優がどちらへ突破をはかろうとしているか読み取って自信を持ってカットに入ったわけだが、しかしそこにボールはなく、混乱しながらも逆へと意識を向けた。というその一瞬を狙って、優は両の踵に挟み込んだボールを跳ね上げるという器用なボールリフティングでもって5番の脚の上を通したというわけである。


 フットサルは選手間の距離が近く、ドリブルするスペースのあまりない窮屈な競技である。だが優は個人技による突破からスペースを作り出して、ゴール前までドリブルし、ゴレイロのタイミングをずらすようにシュートを打ち放った。

 ゴレイロの胸に当たり、ブロックされた。


 だが床に落ちたボールをゴレイロが拾おうと腰を屈めた瞬間、後ろから駆け上がってきていたおかが詰め寄り押し込んでいた。

 ゴールネットが揺れた。


 だが、日本代表の得点は認められなかった。

 走りながらシュートを打った茂岡真理花であるが、勢い余ってゴレイロにぶつかって転ばせてしまい、ファールを取られたのである。


 世界ランキングからすれば同格の相手であるが、この試合においては現在のところ日本の時間帯であった。

 立ち上がりに連係ミスを突かれたこともあり、スコアは1-2とリードを許しているが、いつ追い付き逆転してもおかしくないくらいに日本代表が攻め続けていた。


 合宿の三日目。

 現在、今日のメインとなるスペイン代表との練習試合が行われていた。


 三セットマッチである。

 一、二セットがそれぞれ十五分、三セット目が五分というバランスがいびつな時間配分だ。


 いまは第二セット目だ。

 日本代表は、主力組がピッチに立っている。じまうめ、茂岡真理花、佐治ケ江優、ばりむろてるの五人だ。


 昨日は一人別メニューで調整させられたおかげか、佐治ケ江優の調子はすこぶるよかった。

 現在ピッチに立つ四人の、いやスペイン代表も合わせて八人のFPの中、攻守両面で一番といって過言でないほどの活躍を見せていた。


 追加召集を受けて合宿参加することになったたかは、監督や他の十五人ほどの選手たちと一緒にベンチに座って試合の行方を見つめていた。


 この人数だ。練習試合といえども、初招集の梨乃が出場する可能性は低いだろう。もしも出られるとしても、終わりも近付いた頃に監督の気が向けば試してみる、という程度だろうか。


 もちろん日本代表として参加している自覚はあり、しっかりと考えながら試合を見ているはずだ。


 チームコンセプトを理解することは当然で、あとは味方に助言出来ることや、自分が出たらするべきことを探す。外国との戦い方をとにかく目で脳へ叩き込む。底上げという言葉がある通り、底辺が必死の努力を見せることにより、日本代表全体のレベルが上がって行くのだから。


 ……などと、高木梨乃本人が思っていたかどうかまでは分からないが、とにかく彼女は若干前のめりになって、ぎろり凝視するような表情で試合を見続けていた。

 それほど夢中になっていたのか高木梨乃は、先ほどから監督に何度も声をかけられていることにもまるで気が付かない。


「つんぼか、てめえ!」


 頭をぼかんと殴られた梨乃は、はっとしたように目を見開いて監督を見上げた。


「タカ、出るぞ」

「へ、タカ? ああ、は、はい!」


 初めてそんな呼ばれ方をされたようで、梨乃は顔に疑問符を浮かべながらも、出番であることを認識し、立ち上がり、膝屈伸、その場ダッシュ、そして交代ゾーンへ。

 日本代表 第二セットが始まってから初めての選手交代である。


 毛針奈津子 アウト

 高木梨乃 イン


「せいぜい頑張んな、おばさん」


 入れ代わる際、梨乃は毛針奈津子に思い切り背中を叩かれた。


 毛針奈津子は三十二歳。

 梨乃の方が遥かに年下だ。

 でも梨乃は二人の子持ちであるため、代表の先輩たちにはこのようにおばさんなどと呼ばれからかわれていたのである。


 自分たちは色々なものを捨ててここまで来たというのに、なに一つとして捨ててきた物のない主婦の分際で代表なんかに選ばれやがって。と、嫌われているのだ。


 とにかく、こうして高木梨乃はピッチに入った。

 練習試合ではあるものの、これが高木梨乃の日本代表として初めての、そして最後の対外試合であった。


     3

 能島梅子が6番へと身体を突っ込ませた。6番は背中を使ってキープしようとしたが間に合わず、二人の間に挟まれてボールが高く上がった。

 放物線を描いてスペインゴールの方へ。梨乃は走り寄り、開いた腿を高く上げて受けた。


 しかし落ちたところを横から伸びてきた長い足に、奪われていた。


 ベンチからしっかりと観察していたはずだが見るのとやるのではまったく違っていた、ということであろうか。梨乃はあきらかに戸惑ったような表情で、とにかく8番の背中を追った。


「違うよタカ。そうなったら全体逆周りにしてマークを一個ずつずらすんだっていったろ!」


 監督の怒鳴り声。


「そうだった。素でうっかりしていた」


 ボールは8番からピヴォの9番へ繋げられ、ゴール前でゴレイロとの一対一を作られてしまったが、シュートを打たれる寸前に佐治ケ江優が横から滑り込んでブロックした。


 優は自分の身体に当たって宙へ上がったボールを、滑りながら高く上げた足を大きく振ってクリアした。


 あまり飛ばず、7番に拾われてしまうが、梨乃が上手に身体を入れて奪い取った。

 だがそこへ、すかさず8番がプレスをかけてきた。


 梨乃はサイドライン際で、相手に背を向けてラインを使ってボールをキープ。すっと首を回してパスを出せる味方を確認しようとしたところ、


「おばさん邪魔!」


 能島梅子が梨乃へ激しく肩をぶつけてきた。よろめかせて、その隙に味方である梨乃から強引にボールを奪い取っていた。仲間割れのような光景に半ば唖然としている8番を、毛針奈津子とのワンツーで突破、斜めに切り込んでゴール前へと向かう。


 正面から迫ってくる5番の姿に、能島梅子はドリブルの速度を少し落とした。


 決めるか、

 回すか、

 持つか、

 などと考えている能島梅子の背後から、全力で疾走してくる者がいた。


 高木梨乃であった。

 彼女は疾風のように能島梅子の横を駆け抜け、追い越した。


 ゴールへ向かってゆっくりドリブルをしていた能島梅子は、足元に違和感を覚えたかのようにはっと目を見開いた。あるはずのボールがないのだ。


 梨乃が追い抜きざまにちょっと足を伸ばして、ボールを奪い取っていたのである。

 そのまま梨乃はS字を描くように走り、5番を抜いた。


 いや、横から伸びた足に転ばされていた。

 抜かれたらピンチというスペインの5番が、強引にボールを奪い取ろうとして足を引っ掛けてしまったのだ。


「なにすんだよ!」


 怒鳴り声。

 それは転ばされた梨乃ではなく、梨乃からボールを掻っ攫われた能島梅子の声であった。


「すみません、チャンスだと思ったんで」


 梨乃はそういうと立ち上がった。

 そして、ぼそりと呟いた。


「自分がされた時だけ怒るんかよ」


 とにかくこうして梨乃が倒されたことで日本代表はFKを得たわけであるが、キッカー茂岡真理花の転がしたボールは意表を突き過ぎたか味方の誰にも合わずにゴールラインを割った。

 スペイン代表ゴレイロのゴールクリアランス。軽く助走し、放り投げた。


 スペイン5番の選手が胸で受けようとするが、横から梨乃が跳躍しながら掻っ攫った。

 床に落ちたボールをすぐさま右足で押さえ付け、背後に5番を背負ったまま周囲の様子をうかがった。


「こっち!」


 左後ろからの佐治ケ江優の声に反応し、梨乃はくるり振り向くと、自分に密着していた5番を抜きにかかる振りをし、ボールを引き戻しつつ靴のアウトサイドでちょんと押し出し、股の間を通した。

 相手のリーチが長いことを利用した股抜きパスであるが、残念ながら繋がらなかった。優が受け取ろうとする寸前に、読んでいた7番がダッシュで軌道へ入り込み、インターセプトしたのだ。


 7番はゴレイロの位置を見て、遠目から冷静に右足を振り抜いた。

 ゴレイロの小室照江は、驚いた表情をしながらも咄嗟に伸ばした腕でボールを弾き上げた。

 落ちてくるところを自分でキャッチした。


「ナイスセーブ、照江さん!」


 梨乃は、大きな声で小室照江のプレーを褒めた。と、その時である。後ろから、背中をどんと激しく押されていた。


「あんまりさあ、ふざけんなよな、おばさん」


 能島梅子が、梨乃の耳元で囁いた。


「ごめん、耳悪くてよく聞こえない」


 梨乃はニヤニヤ笑みを浮かべながら、人差し指で耳の穴をほじくる真似をした。


「ウメ、交代!」


 監督の声に能島梅子は舌打ちしつつも、指示に従って交代ゾーンへ向かった。

 その交代ゾーンに、はやしばらかなえが立って能島梅子が来るのを待ち構えている。


「梅子さん、はやくっ、はやくっ、はやくっ」


 林原かなえは早くプレーしたくてうずうず、ジョギングポーズで腿上げしている。


「うるせえバカ!」


 梨乃におちょくられた能島梅子は、イライラの矛先を林原かなえに向け、ボカンと頭を殴った。


「いったあ!」

「うるさい、いいから早く入れよ」

「はーい」


 日本代表、第二セット二人目の選手交代。

 林原かなえがピッチに入った。


「ビューーーン」


 林原かなえはピッチに入るなり、両腕を横に広げて子供のような無邪気な笑顔で走った。


「頂きっ」


 そして、早速と見せ場を作った。茂岡真理花と7番の衝突によりぽとりと落ちたボール、それをまさに予測していたかのように走り抜けながら拾ったのだ。


「師匠!」


 素早いドリブルにより自分でパスコースを作り出し、優へと送った。


 なお彼女のいう師匠とは、佐治ケ江優のことである。

 林原かなえは高校時代に佐治ケ江優と対戦したことがある。その試合で、自分は誰にも負けないというプライドを優によってボロボロに粉砕された。

 そのショックから立ち直り、上には上がいることを知って普段の練習にもしっかりと身を入れるようになり、そして優よりも早く代表に呼ばれるようになった。

 精神的に強くなった彼女は、佐治ケ江優とのことを受け入れて、師匠と呼んで慕っているというわけだ。


 かなえからのパスが、優に繋がった。

 そこへ猛然と9番がプレスをかけてきたが、優はパスを受けたと同時に踵で斜め後ろへと転がしていた。


 そこへ、梨乃が駆け上がって受けた。

 予期せぬパスに驚きながらも反射的に動いてボールを受けた梨乃であるが、5番と7番が優へと引き付けられていることを瞬時に認識すると、一気に速度を上げてゴール前へと迫った。


 目の前にはゴレイロだけ。

 梨乃は横へちらりと視線を向けたその瞬間、右足を振り抜いていた。


 パスを出すかも知れないという単純なフェイントにゴレイロは引っ掛かることなく、梨乃のシュートは両手でしっかりとキャッチされた。


 いや、掴みきれず落としていた。

 梨乃は加速しそこへ自らを突っ込ませると、足をちょこんと出してボールを蹴り上げた。


 ゴレイロが慌てて屈み込むようにして手を伸ばしブロックしようとしたが、既にそこにボールはなく、ゴールネットは揺れていた。


 2-2

 日本代表は、高木梨乃のゴールにより同点に追い付いた。


 スペイン代表の選手たちは悔しそうな表情を隠さず床を蹴ったり、自虐的な笑みを浮かべている。ゴレイロなどはよほど悔しかったのか、味方を糾弾するような怒鳴り声を張り上げていた。


 悔しさという面では統一されているスペイン代表の反応、反対に日本代表の側は感情雑多のようであった。

 スタッフや多くの選手は日本のゴールに歓声を上げたが、何人か、苦虫かみつぶしたような顔の選手がいたのである。

 要するに梨乃を嫌うその何人かにとって、このゴールは面白くなかったのである。

 だが彼女らのそうした感情や反応は、拍子抜けするほどにあっさりと終息することになった。


「おばさん、やるじゃん」


 日本代表主将のはたなかこうが、梨乃に後ろから近寄り、どんと肩をぶつけてきた。一見、普段通りの新人いじめのようにも見えた。だが彼女は、梨乃の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回すと、にっと微笑んだのである。


 これまで新人への洗礼が初召集の合宿のうちに収まることなどなく、他の選手たちは少し戸惑っているようであるが、梨乃に一番憎々しげな視線を送っていた主将がそのような態度を取った以上はそれに倣うしかなかった。


「どうも」


 フットサル女子日本代表におけるいじめの歴史を塗り替えたという自分の成し遂げた快挙を知ることなく、梨乃は淡々とした口調でそういうと、唇の端をきゅっと釣り上げて笑みを返した。


     4

 スペイン代表のキックオフで試合再開。


 開始してすぐに、これまでとは誰の目にも明らかなほどの違いがピッチ上に生じていた。


 なにがというと、高木梨乃の動きが明らかに良くなっていたのである。

 先ほどは優のフォローと強引な個人技だけで得点を上げた梨乃であるが、段々と代表での動きのコツを掴んできており、外国人選手との戦い方にも慣れ、そしてこれが一番の理由かも知れないが、優以外の味方選手も梨乃を使ったり使われたり、すっかり窮屈さが抜けて本来の自分を出せるようになっていたのだ。


 梨乃の代表初得点(練習試合であるが)から一分後。また梨乃が関わっての逆転弾が生まれた。

 それは次のようなものであった。


 優からのパスを茂岡真理花がスルーし、逆サイドで梨乃が受けた。

 だが、茂岡真理花についていたはずの7番が、既に梨乃へと迫っていた。どちらにもつける絶妙なポジショニングを取っていたのだ。7番は、元々梨乃のマーカーであった8番と挟撃してボールを取り返そうとした。

 梨乃は迷わず7番へ身体を突っ込ませていた。

 抜き去る、と見せて反対方向へ浮き球のパスを出していた。

 ボールは大きな弧を描いて、ゴール斜め前六メートルほどのところでドライブがかかってすとんと落ちた。

 そこに合わせる味方は誰もおらず。

 いや、林原かなえが小さな身体を風のように疾走させ、飛び込んでいた。

 その走り出しを瞬時に察知したからこそ、梨乃はそこへとパスを出していたのだろう。

 林原かなえは小さく跳躍し、落ちてくるボールに上手く右足を合わせた。


 こうして、梨乃のパスからゴールネットが揺れたのである。

 こうして、日本代表は試合をひっくり返したのである。


「美し過ぎるゴールきたああ。さすがかなえちゃん! 我孫子市天王台4丁目が生んだ世界に羽ばたくスーパースター!」

「お前な、調子に乗ってると、また昔みたいに戻るぞ」


 自画自賛に飛び跳ね騒ぐかなえの鼻を、主将の畑中香子がぎゅっと摘んだ。


「すみましぇえん」


 かなえは小さい身体をより縮こませて、さっと高木梨乃の背中に隠れた。

 昔というのはもう何年も前、初の代表初召集時のこと。林原かなえも、やはり相当に激しくいじめられたのだ。

 彼女はキャラがあまりに突出しているため、昔どころか毎年のようにいじめられているともいえたが。


「ナイスゴール、かなえちゃん。さすが師匠の弟子っ!」


 高木梨乃は、自分の背中に小さくなって隠れている林原かなえに、背中越しに賞賛の言葉を投げ掛けた。

 しばし反応がなく無言であったかなえであったが、やがて、


「ナイスアシスト。……さっすが師匠の師匠っ!」


 林原かなえは、梨乃のお尻をばしんと思い切り叩いた。

 初日と昨日と、いがみあっていた二人であったが、良い交流が生まれ始めていた。

 だが連係の見せ場なく、ほどなくして第二セット終了の笛が鳴った。


     5

 残るは第三セットを残すのみである。


 ここで高木梨乃は、監督から妙な命令を受けた。

 スペイン代表側と話し合っていた監督であるが、戻ってくるなり梨乃にこういったのである。


「タカ、お前三セット目はスペイン側に入れや」


 と。


 なんのために?

 それは梨乃だけでなく、周囲の誰をも驚かすに足るものであった。


 もちろん、優も。


     6

 くっきりとした対比の連続。

 優が、自分のこれまでの人生を一言で述べるのであれば、そのようなものであったのかも知れない。


 ゆうと、どうじまのぶ


 佐治ケ江優と、遠藤(山野)山野裕子。


 佐治ケ江優と、たかむら


 佐治ケ江優と、とおやま


 ベクトルもコントラストもまるで異なる誰かと常に向き合ってきた、そんな人生だった。

 自分の心境としてもそうであったこと間違いないし、客観的に実際の出来事を振り返ってもそうであったはずだ。

 そしてそれは、間違いなく自分を成長させてくれた。


 真剣に向き合った回数の一番多いのは、高木梨乃であろうか。

 人生で三度、向き合っている。その度に、自分は成長してきた。


 一度目は、高校時代に梨乃がフットサル部の部長であった期間。

 おせっかいでちょっと乱暴なところのある梨乃先輩と、優は向き合った。

 そして、閉じこもっていた自己の殻を打ち破る力を貰った。


 二度目は、大学時代。

 敵として、梨乃と戦った。

 敗北したものの、自分の限界を越える力を生み出す術を知り、学んだ。


 三度目はこの代表合宿。

 といってもいまのこの時点でまだ優は分かっていなかったが、思い返せばこれが再び訪れた、梨乃先輩と魂と魂で真剣に向き合う時であったのだ。

 この合宿で優は、本当の意味で自分の殻を破り、人は限界を越えられるということを学んだのである。


 とはいえ現在の優は、これから戦うこととなった梨乃の存在に、ただただ不安なだけであったが。


 もうすぐスペイン代表との練習試合の最終セットが開始される。

 しかし、日本代表の選手たちは、みななんだかだらけてしまっていた。


 第二セットが終わってから二十分にはなろうかというのに、いっこうに第三セットが始まらないのだ。


「長えなあ」


 主将のはたなかこうがぼやいた。

 第一と第二セットの間はメンバー変更を指示された程度で試合自体はすぐに始まったというのに、たかだか五分という短いセットのために、何故そこまでの時間がかかるのであろうか。


 スペイン代表がまだ作戦会議中だから始まらないのだというのは分かるが、何故そこまで話し合いが続くのかが、誰にも理解出来なかった。


 話し合いは、高木梨乃を中心に行われていた。

 もちろん通訳を通してである。


 彼女、高木梨乃は、急遽スペイン代表に入るよう指示されたが、それどころかゲームキャプテンまで任されてしまっていたのである。


 このように選手を交換することなど本来予定にはなかったが、監督がスペイン代表側に頼んだのだ。

 たかだか五分間であり、クールダウンに丁度よいと思ったか、向こうの監督から承諾はあっさりと下りた。


 というわけで、高木梨乃は通訳を交えてスペイン代表と向き合い、ホワイトボードと磁石を使ってなにやらかりそめのチームメートと話し合いを続けていたのである。


 日本代表の選手からすれば、なんとも不気味に思える光景であったが、誰よりもその思いを強く持っているのは佐治ケ江優であろう。


 話しながら時折梨乃が優の方へと視線を向ける。それが優にはたまらなく怖かった。


 でも梨乃先輩は、日本代表の弱点や攻略方法などきっと知らないだろう。サッカー男子の代表などと違い、フットサルしかも女子代表ともなると、ほとんど外部に出ている情報がないからだ。この合宿でほんの少し戦術練習をしたくらいで、そこまで深くを見抜けるはずもないし。

 だから、大丈夫だ。

 なにが出来るはずもない。


 いや……

 ということはつまり……


 わたしだけを徹底的に潰す方法、それをいま話し合っているということなのだろうか。


 あの、大学で対戦した時のように。

 まさか……


 たかだか合宿中の練習試合だというのに、何故ここまで不安になるのだろう。

 決まっている。

 相手が梨乃先輩だからだ。


 皮をバリバリ剥かれて押し広げられ、内面を暴かれ食い入るように舐められるような、そんな気持ちになるからだ。

 これほど自分をよく知る人は他になく、それで実際に完膚なきまでにたたきのめされているのだから。大学時代にも、そしてこの合宿の初日でも。


 いや……やはりわたし一人を潰すなどと、そんなことではなく、先輩は既に日本代表の弱点を見抜いていてその攻略法を伝えているのかも知れない。

 戦術理解力はわたしなど比較にならないくらいに優れている先輩だ、有り得ない話ではないだろう。


 不気味。

 また、優の頭にその三文字が浮かんでいた。


 いまミーティングでどんなことを話しているのか、梨乃先輩はチームになにをさせようとしているのか、個人としてどう動こうと思っているのか。これを不気味といわずに、なにをそういおうか。


「……匠、ねえ師匠っ!」


 耳元に吹きかけられるこそこそっとした囁き声が、段々と荒くなっていた。優がいつまでも考え事をしたまま突っ立っていたため、呼び掛ける林原かなえの声がイラついて大きくなっていたのだ。


「え、あ、なに?」

「もう! 主将が睨んでますよ」


 かなえはまた小さな声に戻して、畑中主将の方へちらりと流すように視線をやった。


「あ……」

「お前さあ、全然話を聞いてなかったろ」


 主将が、優が気付いたことに気付いたようで、ゆっくり大股で近付いてきた。


「すみません」

「あいつのことばっかり見てたな」


 主将のいうとは、高木梨乃のことであろう。


「いえ、そんなことは……」


 優はそういいかけたところで、口ごもった。

 確かに梨乃先輩を意識していたことに間違いはないからだ。


 優は梨乃先輩に対して、負け犬根性というほどではないかもしれないけれど、どこか負けて当然という気持ちを持っていることを自覚している。これまでそう意識したことなどなかったが、先日、一対一に負けた時に漠然とそう思うようになった。

 負けて当然というよりも、苦手というべきか。


 内面を暴かれ、鏡に映されて見させられているかのような、なんともいえない気持ちになる。畏縮する。


 蛇に睨まれた蛙とでもいえばいいだろうか。


 梨乃先輩は、きっと心で笑っているのだろう。

 こんな、だらしのないわたしのことを。


 優がそう思っていると、


「またぼーっとしてる!」


 両耳を、主将にぎうゅっと強くつままれ、痛みに顔を歪めた。


「特に大事なことは一つもいってないよお! あちらさんようやくミーティング終りそうだから、改めていっただけだよお、別段なんもせずに普段通りをしっかりやって練習試合を締めるぞって。分かった? 聞こえないなら、よく音拾えるように耳でっかくしてみっか?」


 主将はつまんだ優の両耳を、ちぎらんばかりに思い切り引っ張った。


「いたい! 分かりました!」


 つねられねじられる痛みに、優は甲高い悲鳴のような大声を上げた。

 その声を、向こうのベンチからの大声が掻き消した。


「遅くなりましたー、こっち準備オッケーなんで、始めましょうか!」


 それは高木梨乃の声であった。


「ほんとおせーよバカ!」


 主将が梨乃を睨み付けた。


「どうもすみませんね」


 梨乃は特段気にせずけろりとした表情。

 こうして、三十分近いミーティングの後、改めて選手たちがピッチに入っていった。


「いつもの通りにやれよ」


 監督が、指示というかまるで気弱な小学生にかけるような言葉で、日本代表の選手たちをピッチに送り出した。


 両代表の選手十人が、ピッチに散らばった。


 佐治ケ江優の心臓は、音が自分の耳に届きそうなくらいにどきどきと大きく鼓動していた。


「まさか、あの時と同じようなことはしてこんと思うけど」


 優にしては珍しく独り言を呟いていた。


     7

 あの時とは、大学時代に対戦したことである。優のいたがわ女子大学と、梨乃のいたしゆうめいいん大学が。


 梨乃は二年生でいわゆる平部員であったが、佐治ケ江優をよく知る者として四年生の主将から急遽主将代行を任された。

 習明院大学は主将イコール監督であり、梨乃は試合の全権を委ねられたのである。


 そこで取った梨乃の策とは、奇策というより単なる変質的な、異常とも思えるほどの佐治ケ江優対策であった。


 ゴール前をガラ空きにして、ゴレイロを上がらせた。

 いわゆるパワープレーであるが、攻撃力ではなく守備力を上げるため。ゴレイロとフィクソの二人掛かりで、優を封じ込めにかかったのである。


 なんと習明院大学が失点をしても、なおその戦法を継続させた。

 それはつまり、守るというだけでなく、優の体力を剥ぎ取るという側面もあったためである。


 続いて梨乃がピッチに入り、優に一対一でついた。

 しかし習明院大学のゴール前は相変わらずガラ空きのまま。背水の陣という緊張感を継続しつつ、いびつな数的優位を使って習明院大学は反撃に出たのである。


 梨乃の粘っこい密着マークで優の体力は完全にこそぎ取られており、優頼みの瀬野川女子に打つ手なく、試合が終わってみれば4点取られての大敗であった。


     8

 とはいえ、やはりあれは奇策というより博打の範疇だ。

 策士である梨乃先輩が、また同じことをしてくるなどとても思えない。


 でも、それならば次は一体なにをしてくる?

 梨乃先輩……


 ピッチ外で通訳と一緒に立つ高木梨乃の顔を優がちらりと見た瞬間、笛の音が鳴り響いた。


 キックオフ。

 こうして日本代表とスペイン代表とにおける練習試合の、最終セットが始まった。


 たかだか五分間のゲームである。

 しかし、これが後々にまで語り継がれることになる伝説の試合になるなどとは、ことを画策した監督ですら思いもしないことだった。


     9

 キックオフと同時にづくえわかがちょんと前に蹴り、すぐさま横へパスを出した。

 走りながらゆうがそれを受けた。


 スペイン代表2番の激しいプレス、優はそれを引き付けかわし、抜いた。

 だが、伸ばした2番の足にボールを引っ掛けられていた。


 ボールだけ残って、跳ね上がった。

 優は前へよろけたが、すっと後ろへ脚を伸ばし、2番が収めるよりも前に踵でボールを蹴り上げていた。


 放物線を描いて自身の頭上を飛び越えたボールを、ダイレクトに蹴り上げて前線へと送った。


 ゴール斜め前、飛び込んだ小机若菜が落下してくるボールに上手く合わせた。

 ボレーシュートはバーの上部を叩き、ゴールラインを割った。


 スペイン代表のゴールクリアランスだ。サッカーでいうところのゴールキックで、蹴る代わりに投げるのだ。


 第一第二セットとかわらず、日本代表が押し気味にゲームを進めることになるのであろうか。開始直後にしてそう思わせるようなシーンが生まれたわけだが、優はまったくそう思っていないどころか、むしろ嫌な予感がしていた。


 優の目が見開かれた。

 予感が、早速的中してしまったようであった。


 開始早々にして、スペイン代表に選手交代。ゴレイロに代わって、ゴレイロユニフォームを上から着込んだFPが入ったのである。


 そして、ゴレイロに代わって入ったFPは、当然ながらペナルティーエリアを遥かに飛び出して、攻め上がって来たのである。


 まさか、あの時とまったく同じことをしてくるとは。

 あの、大学の時と同じことを。


 あの時は、先輩としては勝つための最善の策をとっただけかも知れない。急に指揮権を任されたわけで、戦術を浸透させる暇もなかっただろうし。

 でも、この試合でこのようなことをしてくるとは。


 一人を露骨な方法で徹底的に潰そうとするなど、これが大人の試合か?

 これは国を代表する選手の戦いで、なおかつ練習試合なのに。

 試合に勝つためというよりは、単に自分に私闘を挑んできているだけではないか? そうとしか考えられない。


 梨乃先輩、一体なにを考えているのか。

 なにをしたいのか。


 それともそれは梨乃先輩の考えではなく、監督の指示によるものなのか。

 だって、梨乃先輩をスペイン代表に組み入れる提案をしたのは監督ではないか。


 分からない。

 なにがなんなのか。


 考えながらも、優はみずいねからのボールを足裏でトラップしていた。


 スペイン代表、3番と、ゴレイロと交代で入ったばかりの4番が、二人掛かりで優へとついてパスコースを塞ぎにかかった。


 優は様子をうかがいながら、撫でるように足裏でボールを転がした。その瞬間、大胆かつ繊細な動きで一気に二人の間を抜け出していた。


 ゴール斜め前五メートル、構えるゴレイロをよく見てシュートを放った。


 タイミングは完璧であったが、しかし狙い過ぎた。ポストに当たって、ゴールラインを割った。


 スペイン代表通訳が大声を張り上げ、まるで自身が監督にでもなったかのように身振り手振りで選手たちに指示を出している。すぐ隣にいるたか、彼女の言葉を通訳しているようである。


     10

 ふと優は、先日のシャワールームでの梨乃との会話を思い出していた。

 梨乃に負けたことを悔しいと感じた、そんな思いを伝えた。


 果たして本当にそうだったのだろうか。

 本当に悔しいと思っていたのだろうか。


 昔の自分には皆無だった悔しいと感じる気持ち、それが心の中に芽生えてきていたことは間違いない。

 でも梨乃先輩に対してだけは、負けて当然だと心のどこかで思ってなかっただろうか。


 それは、梨乃先輩が自分をよく知っているから?

 世話になった先輩だから?

 だから畏縮し、遠慮してしまう?


 たまたま何度か結果的に負けて、そのいいわけをしているだけ? 自分をよく知り研究している梨乃先輩に負けても当然だと。


 どれも違う……

 いや、違くはないかも知れないけど、でも、少なくともフットサルは関係ない気がする。


 そうだ。自分の殻を破るという、自信を持たせてくれたのは梨乃先輩。お節介なまでにわたしに構ってくれ、時には叱咤し時には励ましてくれた。

 わたしは、そんな恩人との関係を壊すことを怖れているのかも知れない。確証はないけれど。


 単にこうして梨乃先輩と戦うことで、周囲に自分の内面をさらされることが恐怖なだけなのかも知れない。


 また、見てる……

 梨乃先輩、また、こっちを見ている。

 どうして……

 なんそがいな顔でこっち見よるんじゃ!


 優は、心の中で怒鳴り声を張り上げていた。

 そんなふうに思われていることを知ってか知らずか、梨乃は通訳と話しながらも時折ちらりちらりと優へと視線を向け、そしてその都度薄笑いを浮かべていた。

 それがますます優の平常心を奪っていった。


 優がはっと我に返ったのは、鋭く空気をつんざいた笛の音のためであった。

 審判の高く掲げるイエローカード。


 それはなんと、優に対して向けられていた。

 突破をはかるスペイン代表2番の背中を、引っ張って倒してしまったのだ。


 優はこれまでのフットサル人生において、ほとんど警告を受けたことがない。これまで貰った数少ない警告も、ほとんどが審判の勘違いによるもの。しかし今回は、どのような見方をしようとも警告は免れまいと思われるものであった。むしろ退場にならなかっただけ運が良いというような。


 優は自分のしてしまった行為に、立ち尽くしたまま小さく口を開いてただ呆然となっていた。


「おい、しっかりしろ」


 主将が寄ってきて、優の背中を叩いた。


「あ……はい、すみません」


 集中しなければ。

 気を引きめた。いや、引き締めるよう、努力をしようとした。

 でも、集中など出来るはずがなかった。何故ならば……


 スペイン代表、選手交代。

 高木梨乃が、ピッチに入って来たからである。優の動揺をすべて理解した上で、追い打ちをかけるかのように。


 梨乃に続いてさらに選手交代。正ゴレイロが再び入り、ゴール前に立った。


 梨乃が、無言で優へと近寄ってきて、マークについた。


 あの時と、まったく同じだ……


 優の背筋に冷たい戦慄が走った。

 守備的パワープレーに、梨乃との一対一、じよ時代に対戦した時とまったく同じであった。


 あの時は、それによって優の体力は削り取られて瀬野川女子はなす術なく大敗した。


 でも、あの時はうちを中心とするチーム作りじゃったから、そうするのも当然じゃったかも知れん……

 一発勝負のトーナメントじゃったんだから、当然かも知れん。

 ほじゃけど、いまそれをやることに、なんの意味がある?

 別に代表はうち中心のチームなんかじゃないというのに。

 どうしてそこまでして、わたしを潰そうとする?

 同じ日本代表に選ばれた者同士じゃというのに。

 先輩と後輩じゃというのに。

 どうして……

 先輩がなにを考えとるのか、さっぱり分からん!


     11

 などとすっかり集中の乱れているところを、梨乃にボールを奪われて軽く抜き去られていた。

 優は、はっと我に返り全力で背中を追うが、梨乃と2番との単純なワンツーで翻弄されてなにも出来なかった。


「サイドへ追い込むだけでいいっていってんだろ!」


 チームの約束事をすっかり忘れてしまっている優へ、主将の怒鳴り声が飛んだ。


「は、はい!」


 優はびくりと肩を震わせた。

 梨乃の視線に気づいた。


 梨乃先輩、笑っている?

 いや……なんだか怒っているような気がする。

 どうして?

 本当に、先輩がなにを考えているのかまったく分からない。


 先ほど怒鳴られたばかりだというのに優は相変わらず集中出来ておらず、せっかく仲間から受けたボールをまた高木梨乃に簡単に奪われ簡単に抜かれていた。


「佐治ケ江、お前、真面目にやれえ! 佐治ケ江ブーって呼ぶぞ!」


 またまた主将の怒鳴り声。


「すみません」


 優は頭を下げた。

 この日、何度目のすみませんだろうか。


 でも、わたしは真面目にやっている。

 当たり前だ。

 当たり前だけど、でも主将が怒るのも当たり前だ。

 だって……


 ボールが転がって来た。ばりのインターセプトからのパスだ。

 なんでもないボールであったが、優は気づくのに遅れて慌て、トラップにもたついてしまう。


 その時であった、

 優どころかこの場にいる誰にとっても目を疑いたくなるような、そんな光景の生まれたのは。


 優の身体は、どうんと下から突き上げられるかのように宙に浮いていた。

 受け身も取れずに肩から落ちて、ゴロゴロと転がった。


 場内がざわついた。


 苦痛に歯を食いしばり肩を押さえる優の、すぐそばに高木梨乃が立っている。

 梨乃が、優の斜め後ろから勢いよく突っ込んで体当たりをしたのだ。


 ただ相手を傷つけるためだけの著しく危険なプレー。審判は、迷わずレッドカードを出し、高く掲げた。


「いや、ちょっと待ってくれ! 練習なんで、それはちょっと無しにして下さいよ!」


 監督が、慌てて審判に駆け寄った。

 審判は、渋々と了承した。スペイン代表、つまりファールを与えたからのお願いならば突っぱねていたかも知れないが。


 こうして、退場処分を受けるはずだった梨乃は、警告一回に変更されてそのままプレーを続けることになった。


「監督がなに考えてんのか知らないけど、もうちょっと気をつけろよお前、永久処分もののプレーだぞ」


 主将の畑中香子が、敵チームである梨乃を睨みつけた。


「ああ、ごめんなさい。あまりにこの人がこっちを舐めくさっていたんで、ちょっと頭に血が上っちゃって」


 梨乃は淡々といいながら、ゆっくり起き上がろうとしているへと冷やかな視線を向けた。


 その態度は、優の精神状態を絶望に追い込むに充分であった。


 なんで、そんな酷いことをいうのか。

 自分の心がそんなに強くないこと、梨乃先輩ならよく知っているはずじゃないか。

 それを頑張って、ここまで来たんだ。

 なにも分からず、そんなことをいうなんて。

 舐めているのは、そっちじゃないのか。

 なにが不満なのか知らないけど、ここは、そういう気持ちを晴らす場じゃないだろう。

 もしかしたら梨乃先輩は追加召集ということで、わたしに敵意を向けているのだろうか。

 もしそうならそれは勘違いもいいところだ。自分だって、次にこの場にいるかなど分からない。ただ全力でやっているだけだ。自信がないからこそ、全力で頑張っているんだ。


 優は梨乃へと睨みつけるような表情を見せた。

 でもそれはほんの一瞬。

 梨乃の気持ちがまったく分からなかったから、恨むことも出来なかったのだ。


 それは結局、優柔不断なプレーを続けるだけだった。


 それは結局、爆発を招くだけであった。

 優が、ではない。


「本気出せ、てめえ!」


 高木梨乃が、腹の底から怒鳴り声を張り上げていた。


     12

 また簡単にボールを奪われバランスを崩して倒れてしまった優に、梨乃が怒りを爆発させたのである。


「甘いんだよ! バーカ!」


 爪先で蹴り上げたボールを右手に持つと、優の顔面へと力強く投げ付けた。


「痛いか? もう一回食らうか? ああ?」


 足先で転がるボールを引き寄せると、また蹴り上げ右手に持って、思い切り優の顔に投げ付けた。

 すっかり思考が混乱し、涙目になっている優へと、梨乃はさらに投げ付けようとした。


 ピーピーピーピー、審判が笛を細かく激しく吹き鳴らした。


 また場内が騒然となっていた。

 日本人同士のいさかいとはいえ、スペイン代表の監督も選手も混乱してしまっている。


「タカ、お前やりすぎだ!」


 監督がピッチに入り、二人の間に割って入った。


「やりすぎじゃねえよ! てめえが甘いから、こんなどうしようもないのが育つんだよ。邪魔すんな、この加齢臭ジジイ!」


 梨乃はそういうと、監督の服を引っ張って、横へ投げ倒した。

 ずどんと尻餅をついた監督は、痛みにそのまま床に倒れてしまった。


「あーあ」


 主将が苦笑している。


「面白いやつが来たと思ったけど、もうおしまいだな。……あたしの後釜になれるような人材だと思ったのになあ」


 畑中香子は残念そうに、頭を掻いた。

 ここまでのことをしてしまった以上は、今後の代表召集云々といった話どころかフットサル選手としての登録すらも剥奪されるかも知れない。

 梨乃も、充分に覚悟しているような、そんな態度であった。何故そのような行動に出たのか、それ自体は優にはまったく理解できなかったが。


「ああ、一発レッドですよね。邪魔者はこっちでしたね。はいはい、退散します」


 梨乃は冷たい笑顔を作ると、ピッチを後にしようとした。


「待て」


 監督がお尻をさすりながら立ち上がった。


「最後まで、やれよ」


 梨乃の顔を睨みつけた。


「はあ? あ、いや、あたしはいいんですけど、でもその人すっかり弱腰で」


 梨乃はなんだかいやらしい作り笑いを、優へと向けた。


「やります」


 優は立ち上がっていた。

 滲んだ涙を袖でぬぐうと、きっぱりとした表情で梨乃を睨みつけた。


 人を睨むなど、本当はしたくはない。

 でも、ここはこうするべきだと思った。

 梨乃先輩に応えるためにも。


 段々と分かってきていたから。梨乃先輩がなにを考えているのか。


 梨乃は退場を特別免除され、そして試合が再開された。

 再開されたものの、つい先ほどまでのものとはすっかり異質な試合と化していた。


 フットサルは五人対五人の対戦であるというのに、このピッチで行なわれているのは高木梨乃と佐治ケ江優、二人の対決といってなんら過言でないものとなっていた。


 それだけ、梨乃と優があまりにも熱い火花を散らしていたのである。他の八人がその勝負に気を削がれるあまり、自らのプレーがおろそかになっていたのである。


 先ほどまで優の頭の中を埋め尽くしていた不安感は、いつしか完全に払拭されていた。

 梨乃がなにを考えているのかは、本人ではないためはっきりとは分からない。ただ、ぶつかり合っているうちに、そしてこの過剰なまでの態度を見ているうちに、梨乃の並々ならぬ覚悟を感じた。己のすべてを賭けてぶつかってきているような。


 それならば、それに応えなければならない。

 わたしは自分の答えを見つけ、梨乃先輩へと回答しなければならない。


 もう体力の限界も近い中、優はそう考えていた。

 まだ梨乃のことが信用出来なくもあったが、優は必死でそう思い込もうとしていた。


 優の頭の中で漠然としていた思いがはっきりとした形を取ったのは、プレーの途切れた時の主将の耳打ちによるものであった。


「あいつさ、お前のことが大好きなんだぜ、きっと」


 ああ……

 優の中で、なにかがガラガラと音を立てて崩れていた。


 そうだ。

 単に、思い返して見ればよかったのだ。

 これまで梨乃先輩が、自分になにをしてくれたのかを。


 それにより自分がどう変わったのかを。

 そして、あの時のシャワールームで悲しそうに呟いていた先輩の言葉を。


 梨乃先輩は自身を犠牲にしてまで、わたしの中にある甘ったるい気持ちを取り除こうとしているんだ。鍛えてくれているんだ。

 それ以外に考えられない。


 ちょっと、自分の胸に手を当ててみればよかった。

 ただそれだけだったのに。


 優は後悔した。


 いや、まだ遅くない。

 そうだ。

 これからだ。


 梨乃先輩の覚悟、受け止めてやる。

 そしていまこそ、越えるんだ。

 甘かった、自分の心を。


     13

 スペイン代表のキックイン。

 2番が受ける。みずいねをすっとかわすと、前線でボールを要求しながら走るたかへと大きく蹴った。


 ゆうは全力で走り、梨乃を追った。

 がくりと膝が折れたが、咄嗟に床に手をついて転倒をこらえるとなおも走り続けた。


 疲労は限界に近い。

 だけど、新たな力が優の身体を突き動かしていた。


 追う梨乃の背中が段々と近付いてくる。


 だが梨乃は既にゴール前までボールを運んでいた。

 ゴレイロむろてると一対一になった。

 いや、二対一だ。スペイン代表4番が梨乃とは反対サイドから駆け上がってきていたのである。

 梨乃は横へとパスを出した。


 ゴレイロは目の前で行われるパス交換に一人では如何ともすることが出来ず、ただ腰低く構えるしかなかった。


 スペイン4番は爪先でボールを捉え、至近距離からちょんと蹴り込んだ。

 ゴレイロの逆をつき、スペイン代表のゴールが決まり、日本代表は失点した。

 と、誰しもがそう思った瞬間であった。


 横から飛び込んだ佐治ケ江優の足で、シュートはブロックされていた。


 優は立ち上がると、自陣ゴール前だというのにクリアをせずに4番をすっとかわし、ドリブルを開始した。

 づくえわかにちょんと出し、リターンを受けて5番を抜いた。


 高木梨乃が飛び込んでくる。

 どくん、

 優は全身の血液が逆流するかのような、なんとも名状しがたい感覚に襲われていた。


 これはきっと、恐怖なのだろう。

 認めていた。


 本気で挑んで、それでも梨乃先輩に敗れたらどうしよう、という。

 いままで甘えていた、成長を怠っていたそのつけが、一気に来たのだ。


 もう、逃げない。

 そしてこの勝負、絶対に勝つ!


 優が内面に闘志を爆発させたその瞬間、高木梨乃がその闘志を嘲笑うかのようなラフプレーで強引にボールを奪い取った。


 いや、優はバランスを失いながらも梨乃の足の間に自らの足を突き入れて、ねじくるような強引さでもって取り戻した。

 たまらず梨乃は前のめりによろけ、どうと倒れた。


 優は息を切らせながらも飛び込んでくる4番をひらりかわし、大きく空いたスペースをドリブルで進んだ。


 ゴール前でゴレイロと一対一だ。

 ゴレイロが我慢出来ずに飛び出した。そして優の身体ごと弾き飛ばしそうな勢いで、スライディング。


 優はボールを真上に浮かすと同時に自身も跳躍し、宙で蹴っていた。

 ゴレイロの伸ばす手の指先をすり抜けて、ボールは枠へ、ど真ん中へ。


 決まった?

 いや、決まらなかった。


 ゴールに完全に吸い込まれるという直前まさに紙一重の差で、横から身体を滑り込ませた高木梨乃がクリアしたのだ。


 だがクリアは不完全で、ほとんど飛ばずに床に落ちて小さくバウンドした。


 梨乃はすぐさま立ち上がり、走り出し、自分で処理をすべくボールを追った。

 優も、踵を返しボールへと走る。

 二人は肩を並べていた。


 すかさず、梨乃はその肩を優へとぶつけた。

 優は、軽く引いて攻撃をかわしていた。


 ぐらりと梨乃はよろけ、その間に優がボールを拾っていた。


 拾うその瞬間を待っていたかのように、梨乃が後ろから足を突き出して来た。そして薙ぎ払うように勢いよく横に振るった。


 優はなんとかかわしたが、梨乃の動きは素早く、すぐさま攻撃の第二弾が襲って来た。


 梨乃はまた、ラフプレーで優自身を蹴っ飛ばしにかかるかのような仕種を見せたかと思うと、その足でボールを蹴り飛ばしていた。


 いや、蹴る音がしただけであった。

 ボールはぴくりとも動いていなかった。

 優が反対から、自分の足を当てていたのだ。


 小癪な真似を、と梨乃は優を睨みつけると、ぎりぎりと足に力を込めた。

 優ごと吹っ飛ばしてやる。そんな表情で。


 力比べでは、優が絶望的に不利であるはず。

 しかし、

 これはどうしたことか……

 少しずつであるが優が押していた。


 二人は睨み合った。


 優は絶叫した。

 足に全ての力を込め、一気に押し切った。


 梨乃の身体は半回転し、足をもつれさせてどうと倒れた。

 信じられない、という表情で目を見開いた梨乃であったが、気を取り直して素早く立ち上がる。

 優同様に疲労困憊といった表情を隠すことなく、必死の形相で優へと飛び込んだ。優の持っている、そのボールを奪おうと。


 これまでは技術が不足していようとも気迫と、そして優をよく知るということで何度も勝利してきた梨乃であるが、もうその気迫は、優に通用しなかった。


 何故ならばもう既に、気迫においても優が上回っていたからである。

 気迫において優が上回っている以上は、優をよく知るという点も既に梨乃の優位点ではなくなっていた。何故ならば、優も梨乃のことをよく知っていたからである。


 技術でも気迫でもかなわなかろうと、それでも梨乃は動き続けた。

 佐治ケ江優からボールを奪おうと、がむしゃらに挑み続けた。


 死闘。

 これほどその言葉が相応しい試合があるだろうか。


 いつ頭髪が白くなっても不思議のない、疲労困憊の中で限界を超えてぶつかり合う二人を、もう他の選手たちは黙って見ているしかなかった。


 死闘、といっても力量の差は歴然としていた。

 優は保持したボールを、梨乃にかすれさせもしなかった。


 それでも梨乃は、挑み続けた。佐治ケ江優に、食らい付き続けた。

 だが、梨乃のその思いが、意地が、奇跡を生むことはなかった。


 梨乃の膝はぶるぶると大きく震えていた。

 やがて、ぺたんと幼児のおままごとのように座り込んでしまった。

 ぜいはあと息を切らしながら、意地で負けてなるかと優を睨みつけた。

 震える手を床につくと、ゆっくりと身体を起こそうとする。


 長い笛の音が鳴り響いた。

 タイムアップ。

 こうして、二人にとって恐ろしいほどに長く感じた五分間が終わったのである。


 この最終セット、日本代表にもスペイン代表にも、どちらにも点は入らなかった。

 だが高木梨乃と佐治ケ江優、どちらに勝敗があったかといえばそれはもう一目瞭然であった。


 優自身も、はっきりと理解していた。

 代表として上を目指すにあたり、甘えという精神的な障壁となっていた高木梨乃という存在、それに気付いた梨乃自身があえて敵として優の前に立ち塞がった。そして、優はその障害を乗り越えたのだ。


 達成感、

 満足感、

 安堵感、


 そんな気持ちは、優の中にこれっぽっちも沸き上がることはなかった。


 梨乃への感謝、

 尊敬する先輩を踏み越えてしまったなんともいえないもの悲しさ、

 優の頭の中に沸き上がっていた感情は、そのようなものであった。


「梨乃……先輩」


 ふらふらとした足取りで、梨乃のすぐ横に立った。

 喘ぐように大きく呼吸をしている梨乃に、優は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 普段の優からはとても想像のつかないような、絶叫にも似た大きな声であった。


 優は頭を上げた。

 その目には、涙が滲んでいた。

 つ、とこぼれ、頬を伝い落ちた。

 一度そうなると、もう止まらなかった。こらえることが出来なかった。

 あぐっ、としゃくり上げると、続いてぼろぼろと涙がこぼれだした。


 嗚咽の声、

 こぼれる涙、

 梨乃への感謝の念、

 溢れ、溢れ、いつまでも止まる気配を見せなかった。


 ぽかんとした表情で見上げていた梨乃は、ぶるぶると膝を震わせながら、ゆっくりと立ち上がっていた。


 可愛い後輩へと、暖かな笑みを作ろうとした。

 顔面の筋肉まで疲労で硬直してしまったのではないかと思われる、実にギクシャクとした顔の動きで。


 結局梨乃は、笑みを作ることは出来なかった。その前に、表情が大きく崩れてしまっていたのだ。

 梨乃は、優と同じようにしゃくり上げ、泣き出してしまったのである。優と同じように、ぼろぼろと大量の涙をこぼしながら。


「ごめんなさい」


 深く頭を下げて優へ謝った。

 優を徹底的に追い込んでしまったことを、であろうか。


 ふらり、と倒れるように優の柔らかな身体へと抱き着いた。

 数秒の沈黙の後、また梨乃は口を開いた。


「それと、ありがとう」


 その優しい言葉に、優の目からさらに大量の涙がどっと溢れていた。

 ゆっくりと伸ばした腕を背中に回し、梨乃の身体をぎゅっと抱きしめた。

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