笑顔をやめて、ただ嗤ってほしかった

椎名ロビン

笑顔をやめて、ただ嗤ってほしかった


「どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの」


ベッドで眠る貴女の髪を撫でながら、ぽつりと呟く。

長年ずっと胸に抱いていた言葉は、誰の耳にも届かない。


空調が効きすぎており、ホテルの部屋は随分と寒い。

だというのに、貴女も私も一糸も纏わず同じベッドに横たわっている。

貴女の胸に手を這わせると、空調に晒され続けているためか、ひんやりとした感覚が掌へと伝わってきた。

豊満な胸を凝視しながら、貴女の笑顔に想いをはせる。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


初めて出会ったときから、貴女は笑顔を振りまいていた。

クラスの男子は貴女を取り囲んだし、大人達は貴女のことを褒め称える。

天使と称されるに相応しい笑顔で、貴女は人々を魅了し続けた。


私も、そんな貴女に惹かれた人間の一人だった。

放課後の教室で、貴女に告白した日のことを、今も覚えている。

ごめんなさいと告げる貴女は、やはり天使のように笑顔を浮かべていた。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


中学生にもなると、何も知らない幼い子供だった頃と違い、世間の目というものを意識するようになった。

一人孤立することが嫌で、何とか愛想笑いを浮かべてはみたけれど、上手く友達が作れなかった。

クラスで流行しているものに触れてはみたけど、ちっちも面白くなかったし、自然な笑顔で語らうことができなかった。


だから、また、貴女に惹かれた。

自然な笑顔を誰にでも向け、友達に囲まれている貴女に。

興味がない話題であっても、笑顔を絶やさず楽しそうに会話が出来ている貴女に。

そして、スクールカーストの頂点に居ながらも、私なんかにも笑顔を向けてくれる貴女に。

もっとも、女の子同士の恋愛がどういう目で見られるのか思い知らされる経験を経ていた私は、すぐにその想いをしまい込んだのだけれど。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


高校生になると、頂点にいたはずの貴女は、最下層へと追いやられていた。

誰からも好かれたその笑顔は『媚びている』のレッテルを貼られ、数多の悪意に晒されていた。

それなのに、貴女は笑顔を絶やさなかった。どれだけ無視しても、傷つけられても、笑顔だった。


私は、それを見ているだけだった。

カースト底辺にいながらも、友達ができていた私には、目を背けることしか出来なかった。

やっと見つけた居場所を失うリスクを背負える程、強くはなれなかったのだ。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


たった一度だけ、笑顔以外の貴女を見かけたことがある。

ある冬の日、全身水に濡れていた貴女は、ほんの一瞬、下唇を噛んだ。

怒りか、悲しみか、嘆きか、それとも絶望か――とにかく、いつでも笑顔の貴女が、一瞬とは言え、顔を歪めた。

もっともすぐに諦めたような笑顔を浮かべていたし、私がそこに居ると気が付いてからは、いつものような天使の笑みで挨拶をしてきたのだけど。


とにかく、その時、私の心は三度奪われたのだ。

いつでも笑顔を浮かべる貴女が、一人っきりの時についに見せた、素の表情。

それが、私の心を捉えて離さなかった。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


それ以来、貴女のことをまた目で追う日が始まったが、笑顔の仮面は剥がれなかった。

いや、仮面という表現は、適切ではないかもしれない。

彼女は場面に応じた笑顔を浮かべており、感情表現もきちんとしている。

試験中は口元に微笑みを浮かべるだけであったし、誰かに注意を行うときは諭すような微笑みをたたえていた。

卒業式の最中はどこか寂しそうな笑顔で、式のあと二度目の告白をして断られた時はちょっと困ったような笑みだった。


交際を拒絶されてからも、貴女のことが頭から離れなかった。

進学先こそ違えど、二人共地元の大学であり、実家から通学していた。

同じ学区に暮らす幼馴染であるため、家の場所も知っている。

貴女の素顔が見たくて、毎日貴女の家の周りを散歩した。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


恐ろしいことに、貴女は一人きりの時でも、笑顔を絶やさなかった。

人に向けるそれと比べれば幾分控えめではあるものの、それでも口元は常に笑顔を形作っている。

今思うと、厳しい両親により、常に笑顔を浮かべるよう躾けられていたのかもしれない。

本当は声をかけたかったけど、そうするといつもの笑顔を浮かべられてしまうので、それから数年、眺めるだけに終始した。


久々に声をかけたのは、貴女の顔に痣を見つけた時だ。

あの時は思わず、駆け寄ってしまった。

貴女は少しだけ目を丸くしたけれど、口元は笑みを作っていた。

でもそれは、これまで見てきた自然な笑顔などではなく、無理矢理口元に笑みを貼り付け続けているだけのように思えた。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


顔の痣について何でもないと誤魔化した時も、とうとう恋人に殴られて出来た痣であり日常的に暴力を振るわれていると告白してくれた時も。

恋人の元に乗り込もうとする私を宥めすかした時も、私なら貴女を幸せにするからと三度目の告白をした時も。

とうとう私を受け入れてくれた日も、見せたくなどないであろう傷だらけの裸体を晒してくれた時も。

思わずたじろいてしまった時も、その後激しく身体を求めた時も。


貴女は、ずっと、笑っていた。

わざとらしく。困ったように。必死に。驚きを孕んで。どこか穏やかに。死刑宣告でも待つかのように。とうの昔に諦めていたかのように。何かを忘れるように――

とにかく貴女は、ありとあらゆる状況で、多種多様な笑みを浮かべ続けていた。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


純粋な疑問から始まったその想いは、好意から来る想いを経て、次第に怒りが伴うようになってきた。

どうして貴女は、それ以外の表情を見せてくれないの。

どうして、怒りや悲しみを共有してくれないの。

どうして、本当の顔を、見せてくれないの。

私は貴女の恋人で、貴女のためなら何だってしたいと思っているのに。


怒りのあまり貴女の頬を張り、腹の底に溜まってきていた黒いドロドロを吐き出した。

理不尽で手前勝手な言葉なのに、それでも、貴女は、笑っていて。

それが余計に、私の心をかき乱す。


どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――


拳が痛くなるほど殴打をしても、貴女は笑顔を浮かべ続けていた。

その二の腕に元恋人が煙草で火傷痕を作った時も、どうせ笑って許しを乞うていたのだろう。


乱暴に身体を弄び敢えて傷つける前をしても、空虚な笑顔で嵐が去るのを待つだけだった。

多くは語ってくれないけれど、きっと父親を前に同じような表情を浮かべていたのだろう。


とっくに傷だらけになっていた彼女の腿に刃物を突き立てたときもそうだ。

一瞬だけ痛みに顔を歪めたものの、すぐまた笑顔を貼り付けて、どうしたのと、なんてのたまう。


さらなる痛みを与えれば、笑顔以外の表情をもっと引きずり出せるかもしれない。

そう思ったのに、貴女はちっとも笑顔をやめてくれなかった。

むしろ、諦めたような笑顔が顔に貼り付いてしまい、ただひたすら、ごめんねと言うだけだった。


それならば、今まで誰もやったことのない痛みを与えれば、誰も見たことのない顔を見せてくれるかもしれない。

そう思ったのに、無駄だった。全てを賭けても、意味なんてなかった。

とうとう貴女は命乞いをすることもなく、穏やかな笑顔で瞼を閉じた。


怒りもしない。悲しみもしない。裏切られて絶望もしない。

私は貴女を愛しているのに、貴女にとって、私はなんだったというの。


「どうして貴女はいつも笑顔を浮かべているの――」


腹を割って話したかった。

だけども貴女は、ちっとも本音をくれなくて。


胸の内を見たかった。

だけども貴女は、笑顔で全てを覆い隠して。


「ねえ、どうして――――」


返事はない。

ひんやりと冷たい胸は、もう上下運動をしなかった。

無理矢理割ってみた腹からも、無理矢理覗いた胸の内からも、知りたかった疑問の答えは見つからなかった。


「どうして、こんなことになっちゃったの……?」


私はただ、貴女の本音が知りたかっただけなのに。

負の感情だろうと、ぶつけあいたかっただけなのに。


貴女を抱きしめ、滂沱の涙をこぼす。

しゃくり上げて泣いているとも、狂気を孕んで笑っているとも取れる声が、いつまでも響いていた。

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