第31話 猫と鷲とリス
何度目かのパッサン卿の研究室を前にして、そろそろ緊張することもなく私はドアをノックした。返事はない。
「また居留守でしょうか」
「そうね。それでは、これを」
お嬢様は手紙を取り出すとドアの隙間に挟んだ。話を聞いてもらえない以上、こうして手紙を送ることしかできないのだ。
しかし、今日はどうやら居留守ではなかったらしい。
「またお前たちか」
驚いて振り返ると、本を抱えたパッサン卿が廊下に立っていた。お嬢様はあらと声をあげる。
「てっきりお部屋にいらっしゃるものかと。外に出ていらっしゃったのですね」
「いつでも部屋にいるわけではないわ。わしも、たまには自分で本を探しに行くことだってある。エマなら一階だ。いつもあやつと話をしているのだろう。早く失せるがいい」
そう言いながら、パッサン卿は重そうに本を抱えている。しゃんと伸びた背筋のせいで高齢という印象は薄いが、いささか体には厳しいだろう。
私は走り寄って手を差し出した。
「お手伝いいたします」
「いらん」
そう言い放つと、ドアの前に立つマリーをみて片眉を吊り上げた。
「誰だ」
「メイドのマリーですわ」
「また勝手に連れてきおって――。帰れ」
パッサン卿に睨まれたマリーは、びくりと全身を震わせた。警戒する猫のようだ。パッサン卿はがちゃがちゃと鍵を開けると中に入り、豪快な音を立てながらドアを閉めた。
「すごく怖そうな方ですね。びっくりしました」
「これでもよく会話をしてくれるようになったわ。まだまだ本題には入れていないけれどね」
お嬢様は困ったように笑って、ドレスの裾を翻した。
「エマが待っているようだし、行きましょう」
一階の閲覧フロアを探していると、椅子に座って本を読むエマを見つけた。エマはこちらに気づくと、ぱっと顔を綻ばせる。しかし私たちの後ろにいるマリーをみると、不思議そうな顔をして黒縁眼鏡を押し上げた。
「メイドのマリーよ」
マリーが猫、ここにくる途中の街であった少年が犬、となるとエマはリスだ。ぴょこぴょこと揺れる髪がリスの尻尾みたいで愛らしい。
私たちは挨拶もそこそこに図書館の外に移動した。お嬢様とエマがベンチに座るのをみて、私とマリーは少し離れた場所で控える。
閲覧スペースで話していると周りに迷惑だろうと、こうして外で話をすることが多い。あの本はどうだの、あの理論は興味深いだの、およそ私には理解ができない会話が飛び交う。
それはマリーにも同じようで、すっかり頭の中がクエスチョンマークで埋まっているようだ。
「あのお二人、いつもこんな感じなんですか?」
「ええ」
「凄いですね、私にはさっぱり何を話しているのか分かりません」
「私にも分からないわ。でも、お嬢様はずっと話し相手がほしかったんでしょうし、ここは邪魔せずに見守っておきましょう」
エマと話すようになって、お嬢様は生き生きとしていると思う。少し悔しいが、私ではお嬢様の話に付き合うことはできなかったし、エマに感謝すべきだろう。
「――そういえば街で会ったあの女の子、リンちゃんでしたっけ。怪我大丈夫ですかね」
お嬢様たちの観察にも飽きたようで、マリーは思いだしたようにそう言った。
「そうね。安静にしておけば酷くはならないでしょうけど、子どもはすぐ遊びにいってしまうから心配だわ。きちんと休んでくれればいいのだけど」
しみじみとそう言えば、マリーはふふっと笑った。
「リーフさん、やっぱりおばあちゃんみたいです。昔いた施設のシスターも、よくそうやって言っていましたよ。ほっぺに手をあてて、困ったわねーって」
マリーは実際に頬に手をあてて、シスターの真似をした。
「シスターは優しくて、時々厳しくて、あったかい人でした。やっぱりリーフさんに似ていますね」
そう言って、にこにこと微笑む。
マリーはもともと街の孤児院で育った娘だ。レイチェルお嬢様の母親である奥様は時々施設から子どもを雇っていた。マリーもそうしてバルド家のメイドに迎えられたのだ。
「シスターとは今も連絡を取っているのよね」
「はい。シスターはまだまだ現役で、子どもたちを世話しているんですよ。私はたまにお休みをもらって帰ることもありますし。リーフさんはどうなんですか?」
あまりご実家には帰っていないですよね、と言われて私はうーんと唸った。
「実家に帰るよりも、お嬢様のお側にいる方が好きなのよね」
「きっと実家の皆さん、寂しく思っていますよ」
「そうね――まあ、そのうちに帰るわ」
実家のことを思い出しながら、私は曖昧に返事をした。
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