Clover ~傾国の詩~

赤葉響谷

序章

「ゴボッ!!?」


 全身の痛みと息苦しさ、それに肺に刺すような冷たい感覚が入り込んだ事で僕は目を覚ます。

 気付けば僕は冷たい水の中に浮かんでいた。

 ぼやける視界で確認できるのは、頭上から差し込む光で周りが朱く照らされていることだけ。


 何故僕はこんな所にいるのだろう。


 いや、そもそも


 自分が何者か、ここが何処なのか、そもそも何故こんな事になっているのか、その全ての疑問を解消できる記憶が何も思い出せない。

 必死に何か思い出せないかと思考を続けようと試みるが、息苦しさで次第に霞んでいく意識の中でこれ以上の思考は難しそうだ。


(どうしてこんな事に? このまま、僕は死ぬのかな?)


 先ほどから水面へ上がるため、体を動かそうと試みているが、手足に一切力が入らない。


(こんな、何も解らないまま呆気なく。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない! まだ、何も分からないままで死にたくない!!)


 心に溢れる焦燥と困惑に突き動かされながらも、なんとか体を動かそうと足掻いてみるが、僕の手足からは鈍い痛みの感覚が返って来るだけで一向に動いてくれる気配は無い。

 それどころか、次第にその微かに動いていた手足すらまともに力が入らなくなって来ているように感じる。


 そうこうしているうちに、段々と思考に靄がかかり始める。

 意識を保てない。

 おそらく死が近づいて来たのだろう。


(そん、な。どうして・・・こん・・・な―)


 最後の瞬間まで僕は手足を動かそうと必死に藻掻くものの、やがて体は完全に動きを止めてしまう。


(ああ、ここまで、なのか・・・・・・)


 薄れゆく意識の中、僕は霞んでいく視界でキラキラと朱く光る水の輝きを眺めていた。

 その光は、まるで散りゆく僕の命、その最後の煌めきの如くゆらゆらと幻想的に輝いており、それを眺めていると何も思い出せない僕の心の中を、何かを成し遂げた後のような妙な達成感が溢れてくるようにさえ感じられる。


(確かに、今の僕は何も思い出せない。でも、これだけボロボロの状態でこんな水中に放り出されてるんだ。きっと、何かを成し遂げることが出来たんだと、そう信じて逝くしか無いよね)


 そんな諦めの感情が心を支配し、ゆっくりと瞼を閉じながら次第に意識を失う直前、不意に頭上へ影が差したような気がした。

 そして、その直後に何かが僕に触れたような気がするが、力尽きた僕の意識はそこで途切れてしまった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「―――! ――――――!! ――――――!」


 遠くで何かが聞こえた気がする。


「―――――――――!! ――――! ――――――!!」


 誰かが僕に呼びかけているのだろうか。


「―――い、―をあ――! ―レ―、返――――!!」


 少しずつ、意識が覚醒していくと共に遠くで聞こえていると思っていた声が、思ったよりも近くで発せられている事に気付く。


「お願―、目を―けて―!」


 唇に暖かい感覚を感じると、肺の中が酸素で満たされるのが感じられる。

 徐々に意識が覚醒してきたことで、自分が陸の上の引き上げられていること、そして全身が酷く痛むことを自覚出来た。


「ガハッ、ゴホッ!!」


「っ!? アレン、アレン!? ああ良かった。ごめん、ボクのせいで・・・でも、もう大丈夫、大丈夫だからね!」


 目を開けて最初に目にしたのは量目いっぱいに涙を浮かべた少女の顔だった。

 その少女は10歳前後くらいの幼い顔立ちながらも、紅い瞳と艶やかな黒髪が目を引く美しい少女だった。


「君、は?」


「へ?」


「ごめん。何も、思い出せないんだ」


 力無くそう呟いた僕に、少女は驚きと絶望の表情を浮かべながら掠れた声で言葉を発する。


「冗談、だよね? ボクのこと、本当に解らないの?」


「・・・ごめん」


「そん、な。・・・・・・アリア、ボクはアリアだよ。ほんとにボクのこと、何も思い出せない?」


「・・・ごめん、君のことはおろか、自分が何者かも・・・思い、出せないんだ」


「そう、なんだ・・・・・・」


 僕の言葉に彼女はしばらく呆然とした表情を浮かべていたが、やがて彼女はその瞳に決意の色を宿すと真っ直ぐに僕の目を見つめて告げる。


「君の名前はアレンだよ。何があったのか思い出せないなら無理に思い出す必要なんて無いよ。今度はちゃんとボクが君を守ってみせるから」


「なっ、いったい僕達に何、が・・・」


 急激に襲ってきた疲労感により僕の意識は再び薄れ始める。


「大丈―、ボク―必ず―を――して――るか―。だ――案――――――よ」


 薄れゆく意識の中、最後に彼女が何を告げたのかほとんど聞き取ることは出来なかった。

 だが、最後に見えた彼女の瞳には、まるで覚悟を決めたかのような決意に満ちた光が宿っていたことだけははっきりと認識出来たのだった。

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