第32話 今日、親…帰ってこないんだ…

「行ってきまーす」


 夕方。着替えやらタオルやらを詰め込んだリュックを背負い、私は焦りを覚えながら家を出た。


「やば、早く行かないと」


 エレベーターを使って1階のエントランスまで行き、自宅のマンションを出た。

 電車の時間を気にしながら、早歩きをする。時折空を見れば、見事な黒と赤のグラデーションを描いていた。まるで昼と夜の境目にいるみたいだった。

 涼しくなった空気をかき分けて、歩く。微かに風を感じて。


 ……と。


「あ」


 もうすぐ駅、というところで、目の前に見知った顔がふたつ、現れた。ふたりもこちらに気付いたようで、


「あれ? 赤城?」

「く、黒部さん……と、眞白さん」

「おっす。久しぶり、でもないか」


 軽い感じで絡んでくる黒部さん。眞白さんは、相変わらず会釈をするだけ。


「……ふたりは、練習帰り?」


 制服姿にスポーツバッグ姿を見れば、想像に難くないが、他に話題もないので訊く。


「そーなんだよ。今日はガッツリでさー」

「友里音は攻撃の練習ばっかりするからだよ……」

「いーじゃん。おかげでなんか調子上がってきた気がするし」


 腕をぐるぐる回してみせる。


「そっちはどうよ。練習、してるんでしょ?」

「まあ、ね……」


 そして、黒部さんの声のトーンが一段階、下がる。


「試合、出るんだよな?」

「それは……」


 思わず、逡巡して目を落としそうになる。だけど瞬間、千穂先輩からさっき聞いた言葉がよみがえった。


 相手をちゃんと、見なきゃ。


「うん、出るよ」


 問いに、答える。はっきりと。

 自分の気持ちに、気付いたから。気付かせてくれた人がいるから。


「ふーん……」


 少しだけ、感心したような表情。隣の眞白さんは、相変わらず固いままで、


「負けないから」

「わ、私も……がんば、いや……勝つ、から」


 言葉にして一層、重みが増す。自分に対するプレッシャーがかかる。でも、ここまで来てもう後戻りはできない。するつもりも、ない。


「それじゃあ、私行くから」


 言って、前に進む。私には今、待っている人もいるのだ。


「あーそうだ赤城」

「な、なに?」


 呼び止められる。何か気に障ることをしただろうか、そんな不安が襲ってきたが、黒部さんはいつもの表情だ。


「ひとつ聞いておきたかったんだけど、あの人って一体なんなの?」

「あの、人?」

「あれだよ。ファミレスでいきなり声かけてきた。赤城とダブルス組む奴」


 青原さんのことか。


「卓球経験者っぽいけど、中学の試合会場で見たことなかったからさ。県外からこっち来た感じ?」

「うん、そうだけど」

「ふーん、どんな奴なの、ぶっちゃけ」

「えっ……と」


 答えに窮してしまう。青原さんがどんな人か。卓球が好きで、落ち着いてて……あとは。


 あれ?

 それ以外は?


「……」


 私が答えられないでいると、黒部さんは頭を掻いた。


「赤城も知らないのかよ。ペアのこと知らないなんて、こりゃ勝負はやる前から決まったってことかな?」

「それは……」


 反論、しようとする。だけど言葉は出てこない。


 そこで、気付く。


 私、青原さんのこと、なんにも知らないんだ、と。



 青原さんの家は、いつも降りる最寄り駅と八高までの丁度真ん中の位置関係にあった。


「ここ、だよね」


 閑静な住宅街にたたずむ一軒家は、夕日に照らされてなんだか赤く輝いて見えた。よくあるタイプの家なのかもしれないけど、マンション暮らしの私からしてみれば、一軒家はみんな立派な家に見えた。


 今日、ここに泊まるんだよね。


 ばくばく。心音が大きくなるのがわかる。試合の時と同じように。でも、試合の時とはまた違った種類の緊張のような気がした。


「よし」


 服装のわずかな乱れをなおしてから、すう、と息をひとつ吸い込んでから、インターホンを押す。すると、まるで私が来るのを待ち構えていたかのように、「わっ」間髪入れずに玄関の扉が開いた。


「いらっしゃい」

「お、お邪魔します……」


 おずおずと足を踏み入れる。

 彼女の装いは、白いシャツに水色のカーディガン。そして同じく白いスカートからのぞく細くて、でも健康的な足が彼女のスタイルのよさを物語っていた。


 青原さんの私服、初めて見るけどかわいいなあ。


「遅かったけど、もしかして道、迷った?」

「う、ううん。ちょっと黒部さんたちにばったり会って」

「……大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 目を見て、答えた。心配、してくれてるのかな。この間のファミレスじゃあ私は俯いたままだったし。


「……そう」


 短く言うと、青原さんはしゃがんでスリッパを用意してくれた。瞬間、見えた彼女の口元が弧を描いているように見えた。何かうれしいことでもあったんだろうか。


「遠慮せず、上がって」

「あ、じゃあ改めて」


 靴を脱ぎ、スリッパを履く。


「あ、親御さんは? 泊めてもらうから、挨拶しておかないと」


 家を出る前、お母さんに何回も言われたし。


「今日はいないよ」

「え?」

「だから……今日は親、帰ってこないの」

「……はい?」


 聞き間違いだろうか。青原さんの口から、カップルが家に連れ込んだ時に言いそうなセリフが聞こえた気がする。


「ってことは、今晩はもしかして」

「うん、私と優月だけ」

「……はい?」


 えええええええええ!?


「言ってなかったっけ?」

「は、初耳……」


 まさか、親のいない日を狙って私を家に呼んだんじゃあ……。いやいやいや、いくらダブルスのためとはいえ、仲良くなるためとはいえ、そんな一線を超えるようなのは早すぎないかな?


 それに心の準備が! じゃあ準備できてればいいのかというわけじゃないけども!


 そういえば今日、どんな下着つけてきてたっけ。着替えの下着はどんなだっけ。


「……優月?」

「ひゃいっ!」

「どうしたの?」


 手を伸ばしてきた青原さんから、反射的に距離を取る。もしかしたら卓球してる時よりも素早く動いてたかも。


「なっ、なんでもないよ? ちょっと緊張しちゃって、あはは」


 あさっての方を見ながら言う。さすがにこれから一緒に泊まる相手(それも同性)に対して、「私のこと、そういう目で見てるの?」なんて訊けるわけない。


「……そう」

「う、うん。そうそう」


 大きく首を縦に振る。青原さんは、大したリアクションも見せずに、部屋まで案内すると言って回れ右をした。


 きめ細やかな黒髪が揺れて、思わず目で追う。


『ペアのことも知らないのかよ』


 ついさっき言われたセリフが、頭の片隅から離れないまま、私は後を追った。

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