第1話 お母さんの目覚ましは、正確じゃない

 起きる時間は、少しだけ早くなった。


 それでも新生活が始まって3日、一度も寝坊することなく目を覚ませているあたり、さすが私も高校生になっただけはある。まあ、朝は眠たいことに変わりはないけど。


優月ゆづきー、早く起きなさい。もう7時よー」

「んー」


 扉の向こうから聞こえたお母さんの声に、生返事をするとともに、枕もとのスマホを手にとる。


「って、まだ6時50分じゃん……」


 どうして母親という人種は朝に実際よりも早い時間を伝えてくるのか。世界七不思議のひとつに数えられそうな謎だと思う。残りの6つはなんだろう。トーストを落としたら必ずジャムを塗った面が下になる、とかかな。


 ともあれ、起きなければならない時間であることは間違いない。私は勢いをつけてベッドから身体を起こして、天井に向かって大きく伸びをした。心地よく弛緩する筋肉と、肉体が徐々に目覚めていく感覚。


 そして、壁にかかった制服に着替える。まだ漂ってくる新品特有の香りが少し気になりつつも、私は姿見の前でくるりと回ってみた。

 赤色のチェックスカートに、緑を基調とした鮮やかなブレザー。うまく着こなせているだろうか。おかしいところはないか。正直、不安ではある。その要因のひとつは――


「やっぱりサイズ大きい、かな」


 袖なんかは手首が半分以上隠れてしまっている。


 だけど3年間ほぼ毎日着るのだ。今は多少大きいくらいが丁度いい。


 特に胸のあたりとか。うん。


「そのうち胸のあたりがきつくなって困っちゃったりして……ふふ」


 高校に入ったら胸が大きくなるっていうし。私の成長期はまだ終わってないし。


「ちょっと優月ー? 本当に遅刻するわよー?」

「え? わ、ちょ、やばっ」


 スマホの画面は、気づけば本当に7時を指し示していた。あんまりゆっくりもしていられない。

 昨日のうちに準備しておいたリュックをひっつかんで、私は部屋を出た。



 電車に20分ほど揺られ、そこからさらに歩くこと15分。そこに、県立八条はちじょう高校――通称、八高はちこうがある。

 県内では学力レベルが高い方の学校。もちろん、私も合格するのは容易ではなかった。でもがんばったからこそ、このかわいい制服を着れているという高揚感が身体を包んでいる。


 そろそろ桜、散っちゃうかな……


 校門の脇に鎮座する桜の木に目を奪われながら、私はそこををくぐった。


 すると。


「野球部どうっすかあああー!?」「迷ったら漫研へ! マンガ読み放題!」

「女子テニス部! 楽しいよー!」「ダイエットにも効果的! ぜひダンスサークルへ!」

「吹奏楽! きっと夢中になれるよ!」


 反射的にのけ反ってしまいそうになるほどの、交差するかけ声。


「うわ……」


 それは、昨日まで見た校内の光景とはまるで違った。

 校門から下駄箱までの道を、まるで芸能人を待ち構えるファン集団のように先輩たちがチラシ配りなどで新入生を勧誘していた。その装いは制服だけにとどまらず、ユニフォームから果ては何かよくわからないコスプレをした人までいる。


 これを通り抜けていかないといけないのか……。

 半歩、後ずさり。さっきまで満員電車で体験した人ゴミがフラッシュバックする。


「そういえば今日から部活勧誘が解禁なんだったっけ」


 先手必勝、まだ部活を決めていない新入生をひとりでも多く勧誘しようという目論見だろう。道理でどの部も力が入るわけだ。


 見れば、先を歩いていた新入生のうち何人かは合意――いや強引ともとれる動きで部員たちの中へと引き込まれていく。もはや勧誘というより、ブラックホールか、アリ地獄だ。


 だけど、どのみちここを通過しないことにはどうにもならない。


「……よし」


 リュックを背負い直し、私は覚悟を決める。そして早歩きで、人がごった返す道へと進みだした。


「キミかわいいねー! どう? サッカー部のマネージャーに!」

「新しい自分に出会えるわ! さあ演劇部へ!」

「…………」


 次から次へと自分にかけられる声を、うつむいてスルーする。かわいい、なんて言われた時にはちょっと立ち止まりそうになったけど。


 でも、やっぱり入る部活は、自分でゆっくり決めたい。

 あとは、私の性格を考えた時に力強く勧誘されたら断りきれる自信がない、という理由もある。つまるところ、気になった部に放課後見学に行ってみる、というのが私にとってベターな方法だろう。


 何も焦らなくてもいい。

 私には選択権が与えられている。


「女子卓球部どうですかー? 部員絶賛ぼしゅうちゅうでーっす!」

「!」


 突如、私の身体が岩のように硬直した。ように思えた。


「部員が少ないからレギュラーになれるチャンスもあるかもでーっす!」


 おそらく、いや決して私に対して発せられたものではない。それでも、その声が自分に向かっているような気がして、胸のあたりが重たくなる。


「……」


 一層歩調を速めながら、息を吐いた。卓球部だけは……ない。選択肢にすら入らない。


 だって。


 卓球は、もう私には関係ないのだから。

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