第47話 ダカン平原の会戦⑦
剣を握る手が汗ばみ、震える。
男たちの怒号と悲鳴に囲まれて、ロイは自らが置かれた状況に心を合わせるように努めた。
ほんのしばらく前までは考えられなかった光景だ。
地方の片田舎で役人をしていたころには、このような状況に自らが身を投じることになるなど考えもしなかった。考える必要もなかった。
敵兵が突き出す槍が頬をかすめる。
冷たい金属の温度を感じると、すぐにじんわりとした熱が広がっていく。
ロイは咄嗟に叫び声を上げると剣を突きおろし、敵兵の首にそれを刺し入れた。
戦況は芳しくない。しかしカルティエを中心とした自軍の兵たちは予想外の健闘をしている。
それだけではない。ランドルフから預かった直隷の護衛たちも、将校のランゲに率いられてカルティエらに負けない働きを示している。
ロイはまるで熱された金属のように自身の身体が熱くなっているのを感じていた。
その熱が冷めるのは一瞬だった。
「摂政閣下! 伝令が!」
将校のランゲが戦闘の中で伝令から報告を受け取り叫んだ。
その内容は戦いの熱にあてられたロイを震撼させるに十分な内容だった。
バルディーニ大公、戦死。
「フィアット軍は潰走せず戦闘を続けていますが、破られるのは時間の問題かと」
ロイは呼吸が一気に苦しくなるのを感じた。
このままでは本陣左翼、つまり脇腹を敵に突かれる。そうなれば、もう。
「摂政閣下、諦めなさるな」
そうロイに声をかけたのは、そばに駆けつけてきたアミアン勢を率いる降将カルティエだった。
「戦いに不測の事態は付き物。それにこちらの将軍はまだ誰一人として負けていません」
「……ありがとう。カルティエ」
ロイはカルティエの言葉に気持ちを救われた。
そうだ、大公が討たれたとはいえフィアットは今だ敗走してはおらず、そして何よりナプスブルク軍の部隊はただ一隊として今だ破れてはいないのだ。
ロイは一度大きく息を吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出す。
ふと風を切る音が聞こえた。
その音の先を見るように、ロイはカルティエへ目を向ける。
カルティエの首を一本の矢が貫いていた。
「カルティエ!」
ロイが叫ぶ。
カルティエは驚いた顔を浮かべて自らの首に深々と刺さったそれを手で触れる。
そしてくぐもった声を口から漏らしながら、ロイの方を見た。
申し訳ありません、閣下。その目はそう語ってた。
カルティエが落馬すると、兵士たちにどよめきが起こった。
その絶好の隙をセラステレナ軍は見逃さなかった。
彼らは率いる将軍の号令の下、混乱し始めたナプスブルク軍本陣への攻勢を強める。
ロイの脳裏に撤退の文字がかすめる。いや、それすらも最早手遅れではないのか。
アビゲイル、すまない──。
その時、戦場に大きな音が響いた。
「角笛……?」
ロイは聞き覚えの無い角笛の音に振り返った。
背後の丘に一軍の姿が見える。
先頭の騎馬が掲げるその軍旗に見覚えがある者が、ロイの傍らで叫んだ。
「ロッドミンスター王家の旗だ……!」
「ロッドミンスターだと。まさかウルフレッドか」
ロイは丘の上に並ぶ騎兵隊の姿を驚愕と共に見つめた。
***
「どうやら、間に合ったようです」
グレーナーは眼下に広がる戦闘を見下ろしながらウルフレッドに言った。
「これでお前は主君の窮地を救った能臣ということになるな、グレーナー。そして私はナプスブルクの忠実なる同盟者ということになる」
「全ては陛下のお力添えあってのことです」
「グレーナー。これは取引だ、忘れるなよ」
「わかっております。これは陛下と私の間だけの密約。必ずや」
「……」
ウルフレッドはグレーナーの返事に沈黙で返すと、右手を掲げ、それを振り下ろした。
「全軍、突撃」
傍らに控えていたジドゥーバル率いる重騎兵団が雄叫びを上げて戦場に突入した。
***
戦況は突如現れた予想外の戦力によって一変した。
ロッドミンスター王国軍本隊およそ五千は、三つの部隊に分かれ混戦中の戦場へと強引に割り込んだ。
「雑魚ども、どけえ!」
戦場中央に突入したジドゥーバル隊は、ロイとライルのいる本陣周辺の敵兵をまたたく間に蹴散らすと、ランドルフ隊の下にまで戦線を押し上げた。
馬上のジドゥーバルの目に、血まみれのランドルフの姿が映る。
「……返り血か。相変わらず化けもんだな、ナプスブルクの白鬼」
「……」
「俺はこれから敵本陣に突っ込むが、あんたはここで俺のケツでも眺めてるか?」
「安い挑発はよせ」
ジドゥーバルは「はっ」と笑い声を上げると馬の横腹を蹴った。
ランドルフは斧槍を一振りしてこびりついた血を払うと、それを追う。
***
今だ。今しかない。
ロイは額の汗を拭い、突如として訪れた好機を逃すまいとした。
ランドルフとロッドミンスターの援軍が正面の戦線を押し上げている。
だが、このままでは足らない。
ランドルフたちが敵本陣にたどり着くまでに、奴は、クリフトアスは必ず逃走する。
それはつまりアビゲイルを救う機会を完全に失うということだった。
だから、今しかない。
「血鳥団!」
ロイは天に向かってその名を叫びあげた。
***
「……どうやら、勝負あったようだ」
クリフトアスはその本陣の丘から眼下に広がる光景を見て、つぶやいた。
セラステレナ軍の正面は破られ、敵の騎兵を中心とした部隊がこちらに接近していた。
クリフトアスは考えた。
これほど周到に策を巡らせても、破られるときは一瞬なのだ。それが戦なのだとはいえ、やはり嫌気がさしてくる。
このまま本国に戻れば処刑か、あるいは最下層への降格は免れない。
だが敵に捕まればさらし首が関の山。降伏はありえない。
「逃げるとしよう。他国に亡命すればまだやりようがある」
クリフトアスは傍らおいていた少女を見つめて言った。
「さ、お嬢ちゃんも行こうか」
「どこに行くの?」
「楽しいところへ。血なまぐさいのはおじさんもう懲り懲りだよ」
「うん、わかった」
「聞き分けのいい子だ。偉いぞ、アビゲイルちゃん」
「ねえ、おじさん」
アビゲイルはそう言ってクリフトアス手をちょいちょいと引いた。
「うん?」
クリフトアスは思わずしゃがんでアビゲイルが何を言おうとしているのか聞こうと、顔を近づけた。
「!」
アビゲイルが突如として口を寄せ、キスをしたのでクリフトアスは驚いた。
困るなお嬢ちゃん、そういうのは──大好きだけど人前じゃ。
そう言おうとしてクリフトアスは口を開いたが、その言葉を言えないことに驚いた。
声が出ない。そればかりか、身体が硬直して動かない。
「クリフトアス様、右方に敵! 敵の奇襲部隊と思われます!」
そう部下が叫んだが、クリフトアスはその首を声の方へ回すこともできなかった。
ただ目線の先に不気味に微笑む少女の姿があり、そこから目をそらすことも、目をつむることもできないでいる。
「クリフトアス様! いったいどうすれば……お早く!」
風を切る音と共に数名の兵士たちが斃れる。その身体にはクロスボウの矢が刺さっている。
「突入! 敵の大将は生かして捕まえろよ。いいか、絶対に殺すなとの命令だ!」
奇襲部隊の指揮官と思われる男の声が聞こえてもなお、クリフトアスは身動き一つできずにいた。
クリフトアスの頬を冷たい汗が伝う。
この少女は、いったい。
アビゲイルが再び彼に顔を近づけて、静かに呟く。
「……あとでゆっくり、楽しみましょう?」
味方の兵たちの悲鳴がクリフトアスの耳に聞こえた。
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