第40話 決戦の幕開け

 砦を包囲する兵士たちの動揺が目に見えて大きくなっている。


 ランドルフは配下の将校たちに命じ懸命にそれを鎮めようとしていたが、総司令官であり事実上の主君でもある人物が突然戦場を離れたことに対する不安は大きく、なだめきれるものではなくなりつつある。


 この状況下で唯一平静に見えたのはランドルフに古くから仕えている将校と兵のみであった。彼らには元より摂政ロイに仕えているという自覚はなく、あくまで主君はランドルフ将軍であると考えている。そのことがこの包囲軍の統率をギリギリのところで支えていた。


「……ライル殿、このままもし摂政閣下が戻らなければ」


「……はい、指揮権をバルディーニ大公に譲るほかありません」


「だがそれでも我軍ナプスブルク軍の動揺は治まらぬだろうな」


「……」


 ライルは沈黙し、思考を巡らせた。


 うかつだった。摂政にとって従軍中の娘が弱点になり得ることは感じていた。

 自分の策が想定通りの成果を上げつつあることに慢心していたのか。


 それを敵にうまく突かれた。これからの事の次第によっては致命傷。

 そう、私にとって。


 ライルの額に汗がじわりと浮かぶ。そこへ兵士が駆け寄ってきてこう言った。

 

「お二人方、砦に動きが。門が開けられようとしています!」


 このタイミングで動いたか。ライルの身体に緊張が走る。


 白旗を掲げての開城か、あるいはこちらの動揺を認めての突撃か。後者ならば、今は最悪のタイミングだ。


「将軍、全軍に警戒を。もしものことがあれば、ランドルフ将軍の部隊だけでも敵の突破を阻止しなければ」


「わかった。全隊、敵襲に備えよ!」


 そしてライルとランドルフは砦の門を注視する。


 やがて開かれた門から姿を現したのは多数のアミアン人の兵士と、その指揮官と思われる壮年の男だった。


 そして彼らはそのいずれもが武器を携帯していなかった。


 場を緊張が支配する中、指揮官の男は一人ランドルフの元へ歩み寄るとこうの述べた。


「……我らは降伏いたします。セラステレナ軍と戦うのであれば捨て駒にでもなりましょう。だからどうか、兵士たちの家族を安全な場所へ避難させていただきたい」


 ランドルフは心中を見せないように表情を動かさず、男に答えた。


「……承知した。兵にはあなた方の家族を後方へ誘導するよう伝えよう」


「感謝いたします」


 すると指揮官の男はランドルフの顔を改めて見ると、こう言った。


「その容貌。もしやあなたが”ナプスブルクの白鬼”か」


「……そう呼ぶ者もいる」


「そうであればナプスブルクの新たな摂政、ブラッドフォード卿はいずこに?」


 ランドルフがその問いに答えられずにいると、配下の兵士の一人が声をあげた。


「将軍! 摂政です。摂政閣下が戻られました!」


 まったく、なんというタイミングだ。


 ランドルフは思わず小さくため息を吐き、兵士が指差す先を見た。

 そして目を見開いた。


 馬を駆けてきたロイの姿は、凄まじいものだった。


 左肩は血に染まり、髪は汗で乱れ、その形相はランドルフが見たことがないほどの怒りに満ちている。


 この男がこれほど情を顔に見せたことがこれまであったか。ランドルフはロイの怪我よりも、その顕わにされた感情に驚きを覚えた。


「閣下、お怪我を」


 ランドルフがそう呼びかけるがロイは返事をしない。状況を知った軍医たちがロイに駆け寄るが、ロイはそれを乱暴に振り払った。


 そしてライルや騒ぎを聞きつけた他の将軍らが集まると、ロイは言った。


「セラステレナの軍がまもなくやってくる。間違いなく彼らの全軍だ」


 セラステレナ軍。だがなんという早さだ。ヨハン・クリフトアス、攻めると決めればこうも早く軍を動かすか。

 ランドルフが敵の総大将にそう思いを馳せる。


 軍医たちが再びロイの身体に触れ、その上着を脱がし止血を施し始める。


 ロイは包帯を巻かれながらもまるで怪我の痛みなどないかのように、そしてこれまで発したことのないような雄々しい声を上げてこう言った。


「全軍、ただちに砦の包囲を解き北に陣を敷け! これはこの戦いの決戦となる。残る力の全てを振り絞り、我々はこれを討ち破る!」


 想像を超えた総司令官の姿とその気迫に、兵士たちを始め全ての者たちが言葉を失う。ロイはそれら兵士を見回しながら言葉を続ける。


「諸君が腹を空かせ、満足に休む場所も与えられず満身創痍なのはわかっている。だがこの戦いの意義を思い出せ。セラステレナの圧政に苦しむ者たちを救うことが我らの大義だ」


 ロイが飛ばす檄は、もしグレーナーがこの場にいたのであれば鼻で笑ったであろう。


 しかし疲れ果て、敗北の不安に駆られ始めている兵士たちにとっては、言葉の意味は重要ではない。


 自分たちの指揮官がみなぎるようなその活力を以て檄を飛ばす姿は、疲労でその思考が鈍っている状態であるほど頭に浸透してくる。


「そしてその結末は次の戦いで決まる。負けて惨めに屈服するか、勝ってこの国の英雄となるか、諸君が選択せよ!」


 英雄。多くの人間がその誘惑に駆られる憧れの存在。


 しかし多くの兵士たちは、始めからそのように大それた願望を描くようなことをしない。


 兵士となって、ある程度の年数を無事に勤め上げて金を貯め、その後の年金をもって田畑を買い、裕福とは言えないまでも穏やかに過ごすことができる生活を送りたい。


 そして故郷で周りの男や女たちから少しばかりの尊敬を得たい。ほら、彼だよ、村に帰ってきた奴は。やっぱ戦に行くような男は違うね、鍛えられた男って気がして。村のあの娘も、その娘もみんなあいつに惚れてるんだ。悔しいけど、羨ましいね。


 一人の男が兵士になる動機は、大抵がそういった生命を賭けるにしては慎ましいともいえる願望から始まる。


 だが人は行動に対しての対価を求め続ける。


 そのわずかばかりの慎ましい要求と願いは、兵士として過酷な訓練を課せられ、戦場に身を投じて死が何度もその身をかすめ、飢えや不潔と過ごすうちに変化を見せ始める。


 こんな地獄のような日々、田畑を買うくらいでは割に合わない。村の女の一人や二人に惚れられるためにここまでする必要があるんだろうか?


 平民ばかりではない。貴族の息子たちも同様である。


 家名を保つため父に命じられて軍に入った。それがこうまで辛い目にあって、父に認められるだけでは何の慰めにもならないではないかと。


 しかしそう気づいたとき、彼らに逃げ場はどこにもない。軍隊という組織がそれを許さない。


 だから彼らの意識は変容していく。


 これまでの人生では考えられなかったような成功を掴まねばならない。富を得て、美女を得て、地位を得て自分を卑下した人間を見返す。それは賭け事に負けこんだ人間が抱く一発逆転の思考にも似ている。


 そうでなければこんなに苦しい思いをした自分が報われないではないか。そういう思いを抱き、固執し、あたかもそれが使命であるかのように囚われてしまうのである。


 その疑念と新たな願望が兵士たちの元来素朴だった人格を変えていく。全ての不安や鬱憤をねじ伏せるようにして敵の頭を砕く兵士へと変わっていく。


 そうやって行き着く果てが、かつての自身では想像もしなかったほどの高みの存在。英雄という偶像への憧れであった。


 やがていつの日かそれが分不相応な望みであったと気づき、それが本当に望んでいたものなのか、そしてなぜそんなことを望んだのだろうと我に返ったとき、彼らはその生命を散らすのである。


 ロイは意識していたのかそれとも無意識なのか確かではないが、彼らのその心理を見事に煽ってみせたのだった。


 ロイが言葉を終えると、砦の守将であった男がやってきてその場に跪いた。そして彼は自らの名を名乗った。


「ブラッドフォード卿、私はこの砦の兵を束ねるフランク・ド・カルティエと申します。我らの降伏を容れてくださり感謝いたします。どうか我らの力をアミアン解放のために使わせてください」


 しかしロイはカルティエの顔を一瞥しただけで返事をしなかった。


 そして自分を注目する将軍たちを眺め回すと、一人ひとりに指示を飛ばし始めた。


「バルディーニ大公。フィアット軍は左翼に展開していただきたい」


「……いいだろう」


「ジュリアン! ホランド殿と共に我軍右翼に布陣せよ。委細はホランド殿の指示に従え」


「は、はい!」


「……承知しました」


 ジュリアンとホランドがその命を受ける。


「そして敵正面は、ランドルフ!」


 ランドルフはこの摂政に初めて呼び捨てにされたことに少しばかり驚いた。ロイという男は他者に対して特にその呼び方に配慮を見せるのが今までであったから。


 しかしそれを上回るような驚きをロイの次の言葉で受けた。


「──頼む」


 頼む。あの摂政が、初めて顔を見せた王の前でただ威圧と冷徹さのみを臣下に振るったあの男が、今自分を正面から見据えてそう言った。


 それがランドルフの心に、自分が予想もしなかった変化をもたらした。


 そして、かつて先王が自身にそう投げかけたことを思い出した。先王に抱いたほどの情をこの男に対して持ったからではない。あのときの忠義が蘇ることは二度とない。


 だがそれでも胸の中に宿るこの熱い思い。

 自分が武人であると認識できるこの心地の良い熱。それが沸き起こったことを実感したランドルフは、考えるよりも早く口を開いてその言葉を返した。


「……承知!」


 気がつけばランドルフは、左手の腹に右手の拳をあてて前に突き出す臣下の礼をロイにとっていた。


 次にロイは目の前で唖然としているアミアン人の将、カルティエを見据えて言った。


「カルティエ、あなたは私の直隷兵と共に本陣に加わってくれ」


「……なんと、今しがた降伏したばかりの我々を側に置くと?」


「裏切れば共に死ぬだけだ。そうだろう?」


 その言葉を聞いたカルティエは、面白いとでも思ったかのように顔を微笑ませた。


 そしてロイは最後にライルを見て、こう言った。


「ライル、私に何か言うべきことはあるか?」


 ライルはそれまで少しばかり驚いた顔を見せていたが、それを聞くなりゆっくりと不敵に微笑んだ。


「……この期に至っては、閣下のその熱が最上の策です」


 その言葉を聞いたロイが、少しだけ表情を緩ませた。


「あの、俺たちはどうしたら」


 さああとは戦に臨むだけだ、そういう雰囲気になった場に、気まずそうな様子でグレボルトが顔を出した。


 ロイはグレボルトを見ると、少し考えた様子だった。

 やがて口を開くと、こう言った。


「会敵が予想される場所の左方には深い森が広がっている。血鳥団はそこを通り、敵の本陣の横で伏せろ」


「まさか」


「そう、機がやってくれば敵の本陣を突け」


「馬鹿な、冗談じゃねえ。そんなの死ににいくようなもんじゃねえか」


「だから”機がやってくれば”、だ」


「……もし来なければどうする?」


「好きにしろ」


 グレボルトはふぅとため息を吐いて「承知しました」とふてぶてしく言った。


「さて、これで指示は行き渡ったな」


 ロイは改めて一同を見回すと、再び大きな声で言った。


「全軍、北へ向かうぞ。決戦の地は、ダカン平原!」


 一同は各々に返事をすると、率いる部隊の方へ散っていった。


 その様子を見ながらロイは考えた。


 アビゲイルを救出できなければ、それは敗北と同じだ。

 彼女が敵の本陣にまだ留められている間に、何としてでも助け出さなくては。


 ──アビゲイル。


 ロイは空を見上げ、口を噛み締めながらその顔を想った。

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