第216話 君を待っている

 竜族の男たちは悄然しょうぜんと肩を落とし、ティアはクリューネの遺体の傍らで、目を見開き溢れる涙そのままに正座して座っている。

 アイーシャはティアの隣に座ると、黙ってティアの手に添えた。すすり泣く声が野に満ち、セリナやシシバルたちは、クリューネを取り囲む竜族を少し離れた場所で見守っていた。

 リュウヤはティアの向かい側に座って、クリューネの死に顔を眺めた。

 リュウヤさんと震える声でティアが言った。


「僕に力が無かったばかりに……」

「自分を責めるな。ティア君は充分にやっただろ。俺だってクリューネに助けられなかったのは同じだ」

「でも、でも僕は、もっと姫の力になりたかったんです」


 うなだれ、すすり泣く竜族の男たちの中から、「バルハムントはこれで滅びた」という声がした。国が滅びただけで、竜族が滅びたわけではない。しかし、行き先を無くした彼らには、照らし道しるべとなる太陽のような存在が必要なのだ。その太陽が失われた。


「ティア、悲しいのはわかる。けど……」


 リリシアがティアの傍に寄ったが、他に掛ける言葉がなかった。

 シシバルに介添えされているジルを一瞥した。兄のジルが生きていたから、自分はまだ精神を保っていられる。しかし、あのまま死んでいたらどうなっていたか。

 所詮はコインの裏表の違いでしかないと思うと、自分が傲慢なような気がした。リリシアはそのまま口を閉ざすと、眠るクリューネに目を落とした。人形のように綺麗な顔立ちをしていると思った。

 喧嘩して争っていたのに、いつの間にか大切な仲間になっていた。父と母が死んだときと同じ、ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。


「……クリューネはきっとみんなの心の中に」


 陳腐な台詞だとリリシアは自分を呪った。

 重く沈んだ空気が、リュウヤたちを覆っていた。大切な仲間を失う。この世界では誰もが経験していることだった。珍しいことではなく、想いを抱えて明日に生きる。だが、このやりきれない気持ち。

 反芻しても拭えない。

 クリューネは心の中に生きている。


「心の中に……」


 ふと、リュウヤは闇の中に、ほのかな光を目にした思いがした。

 クリューネは心の中に生きている。


「そうだ、クリューネは生きている」


 力強い言葉に、周りの目がリュウヤに集まった。あまりに断ずるような言い方に、正気を疑ったのも少なからずいた。


「“聖魂寄生(ハレルヤ)”だ」


 と、リュウヤが一言言うと、リリシアとルシフィがハッと何かに気づいた顔をした。リュウヤは頷いて周りを見渡しながら話を続けた。


「ヴァルタスもゼノキアの魂も、依り代となる召喚者の中にいたんだ。きっとクリューネだって、俺の中で生きているはず。ゼノキアが復活したように、クリューネを連れ戻すことだってできるはず」

「連れ戻すて、そんなことできるんですか」

「わからんけど、やってみるしかない」


 リリシアの疑問にもリュウヤは自ら言い聞かすように呟くと、しゃがみこんでアイーシャと視線を重ねた。


「アイーシャ、手伝ってくれないか」

「どうしたらいいの」

「クリューネを連れて帰るには、身体を綺麗に治しあげなくちゃいけない。それには高位程度の魔法では無理だ」

「……」

「できるか」

「任せて」


 アイーシャはリュウヤをじっと見据えたまま言った。その瞳には迷いも疑いもない。見た目は綺麗だが、すでに体の壊死が始まっている。クリューネの魂を戻すには、生きている時と同じ状態まで肉体を戻さなければならない。それにはアイーシャの力が必要だった。


「わたしもお姉ちゃんにまた会いたいもの」


 アイーシャが手をかざすと、金色の光が暮れ色のグリュンヒルデに満ちた。青い光の風がクリューネとリュウヤを包んでいく。リュウヤはクリューネの胸に手をあてると、静かに目を閉じて精神を集中させた。

 ティアたちは固唾を呑んでリュウヤを見守っている。


「……行くぞ、クリューネ。待っていろよ」


  ※  ※  ※


 ほの暗い意識の底から遠くから呼び掛ける声に、リュウヤは意識を引き戻されていくような感覚を覚え、うっすらと目を開けると古い木目の天井があった。

 見覚えがある天井だと思ったがすぐには思い出せず、ぼんやり天井を見上げていると、再びリュウヤの名を呼ぶ声がした。


「ほらあ、リュウヤ。飯の用意が出来たんだぞ。早く起きんかあ」


 耳にした声にリュウヤの意識は一気に覚醒し、慌てて跳ね起きた。鍋を前にして、金色の髪をした小柄な女――クリューネ――が驚いた様子でリュウヤを見ている。


「どうした、そんなに慌てて」

「いや……」

「もうすぐ飯ができるからな」


 クリューネは鍋に向き直った。懐かしい匂いがする。リュウヤの母親がつくってくれた味噌汁の匂いで、たしか日本ではクリューネのお気に入りだったと記憶している。何杯もおかわりをし作り方まで習って、異世界に戻ってからもつくってくれた覚えがある。

 多少、塩辛かったが。


「夜勤明けじゃからな。疲れておるのも無理ないが」

「夜勤?」

「まだ寝ぼけとるのか、メキアの警備隊長殿は」


 クリューネは鍋に視線を落としながら、カラカラと笑い声をあげた。リュウヤはクリューネの薄い背中から室内に目を移した。部屋の隅にムルドゥバの士官服が掛けられていた。見覚えがあるつくりだと見渡していたが、やがて、その室内には心当たりがあった。


 ――メキアのオンボロ小屋か。


 上げ床六畳一間の真ん中に小さな円い座卓。花を生けた花瓶が立てられているのも、メキアのオンボロ小屋と同じつくりだった。

 しかし、所々が異なっている。

 清潔なのは共通しているが、新聞が敷いてあった床は畳になっているし、クリューネが立っている土間は綺麗にフローリングされ、コンロや冷蔵庫まで置いてある。片山家にあったものと同じ型だ。部屋の隅に小さな化粧台が置かれてあって、鏡に映る自分の髪は黒く、ここが現実の世界ではないとリュウヤに感じさせた。


「もうすぐアイーシャが帰ってくる。父親らしくシャンとせんか」

「アイーシャが?どこから」

「学校に決まっとるだろ」


 不意の言葉に意味を判じかねてクリューネの後ろ姿を眺めていたが、これがクリューネが住んでいる世界なのかということはおぼろ気ながら理解できた。

 リュウヤの様子を不審に思ったらしく、クリューネが訝しげに振り向いた。


「さっきから変じゃぞ」

「クリューネ。俺はお前を連れ戻しにきた」

「……」

「帰ろう」


 アイーシャはじっとリュウヤを見詰めていたが、そうかと嘆息してコンロの火を消した。鍋に蓋をしてから、クリューネは部屋に上がると座卓を挟んでリュウヤの向かいに座った。


「どうりでいつもと様子がおかしいと思ったが……。そうか、お主は“本物”のリュウヤだったか」


 本物という言い方が引っ掛かったが、構わっていられないのでリュウヤはうなずいただけだった。


「みんなが帰ってくるのを待っているんだ。な、帰ろう」

「私は死んだ身だぞ。そう簡単に言うな。お前にバハムートの力を託したはずじゃ」

「だから、そのバハムートの力を返しにきた」

「……」

「“聖魂寄生ハレルヤ”は力と魂を相手に託す魔法。バハムートの力を戻せば、お前だって帰ってこられるはずだ。ゼノキアやヴァルタスだってそうだったろう」

「せっかく、バハムートの力を得たのにか?神竜バハムートの力にお主の技。お主に勝てる奴は、最早この世におらんのだぞ」

「力よりも、お前が帰ってきてくれる方が大切なんだ」

「……」


 だがクリューネは沈痛な面持ちをし、目を伏せたままでいる。静かに開いた口から言葉にリュウヤは耳を疑った。


「……私はこの世界でいい」

「何を言ってんだよ。ティア君や泣かせる気か。アイーシャだって待っている」

「ティアには悪いが、アイーシャはここにもおる」

「え?」


 ただいまあと表から明るい声がした。すると、家に入ってきたのはアイーシャだった。小学生が使うような赤いリュック鞄を背負い、黄色い帽子を被っている。ひよこのようだった。


「お父さんお母さん、ただいま」

「お母さん?」


 愕然とするリュウヤを、アイーシャは不思議そうな顔で眺めていた。


「お母さん、お父さんどうしたの?」

「夜勤明けで疲れとるんじゃ。ご飯はもうちょっとで出来るから、それまではちくと外で遊んどれ」


 クリューネは鞄と帽子を受け取ると、急き立てるようにアイーシャを外に出した。アイーシャの足音が遠ざかるのを耳にしながら、クリューネは鞄と帽子を部屋の隅に置いた。


「……どういうことだ」

「見ればわかるだろ。アイーシャは私たちの娘じゃ。この世界ではな」

「だからどうして、俺とクリューネが夫婦なんだよ」

「私の口から言わせる気か。いじわるじゃな」


 照れた時の癖で、クリューネは鼻の脇を掻いた。そしてリュウヤの隣まで来ると、寄り添うようにちょこんと体育座りをした。

 頬を赤らめながら、馴れた仕草がリュウヤには衝撃で続く言葉が最早ない。


「リュウヤがいてアイーシャがいて、ささやかでも賑やかに暮らせるこの世界で、私は充分満足しておる。精神を乗っ取ったりせんから心配するな」

「でも……、幻想だろ」

「わすれたのか。私は死んでおるんだぞ。幻想というなら私自身も幻想。言うならここは天国。天国をとやかく言うな」

「……」

「それにな、この世界に来て、ある真実を知ることができた」

「真実?」

「お主の想いだ」


 クリューネはそっとリュウヤの胸に手を当てた。小さな光が生じたかと思うと、そこから温かなものが広がっていく。心が激しく揺さぶられ、締めつけられるような感覚にも襲われていた。

 目の前のクリューネは魂という幻想。

“天国”という幻想の世界。

 改めて認識すると、リュウヤの心の奥底からわき上がってくる感情が、涙となって溢れ出てきた。

 大切なものを失った辛さや悲しみ、苦しみ。リュウヤ自身も気がつかずに封印してきたこれらの感情の基にあるのは、間違いなく愛情と呼ぶものだった。


「な、わかるか?だから、私はここが良いんじゃ」


 クリューネが手を離した時には、リュウヤの顔は涙と涎でべとべとになっていた。クリューネは優しい手つきで、リュウヤの顔をハンカチで拭いながら微笑んでいた。


「お主現実の世界でみんなと暮らせ。私はリュウヤの真心に触れられるんだ。こんな幸せなことがあるか」

「だけど……だけど……!」

「そろそろ飯の時間じゃ。アイーシャを呼んでこんと」

「ダメだ、クリューネ!」


 立ち上がるクリューネの手を掴んで、リュウヤが叫んだ。


「みんなが待っている。お前の魂が俺の中にあっても、みんなにはクリューネの姿も見えないし、声も聞こえない。俺も……」

「……」

「俺もお前がいない世界なんて嫌だ」


 振り絞るように言い切ってしまうと、リュウヤはクリューネが正視できないでいた。うなだれるリュウヤに、ふわりとやわらかな風が覆い、顔をあげるとクリューネの唇がすぐそばにある。やわらかな唇がリュウヤの頬に触れ、流れる涙をそっと吸った。


「いい大人が泣くな、バカタレ」


 口では叱りながらも、クリューネは微笑みながらリュウヤが握る手に重ねてきた。


「アイーシャ!」


 やにわにクリューネが表に向かってアイーシャを呼ぶと、ドッヂボールを手にしたアイーシャがトコトコ駆け込んできた。


「どしたの、お母さん」

「これからな、お父さんと出掛けてくる」

「ふうん。いつ頃帰ってくるの」


 そうだのとクリューネは天井を見上げて考え込む仕草をした。


「八十年くらいしたから帰ってくるかな」

「なんだ、すぐだね」


 八十年と聞いても、アイーシャには動揺した様子もない。屈託のない明るい表情をったままだった。


「それじゃ急がんとな。向こうのアイーシャに、力を長いこと使わせてたら可哀想じゃ」

「気をつけてね」


 台所から手を振るアイーシャに、クリューネも振り返した。


「ほれ、リュウヤも手を振らんか」

「あ、ああ……」


 リュウヤが手を振る中、白い光が周りに広がり、部屋も円卓も窓も冷蔵庫も光の中に埋もれていく。笑顔で見送るアイーシャを最後にすべてが光の中に消えていった。


 ――いってらっしゃい。


 光の中で、アイーシャの声が聞こえた気がした。


「……ちゃん、お姉ちゃん!」


 叫ぶアイーシャの声で目が覚めたように、リュウヤの意識が引き戻されると、クリューネの手を握りしめるアイーシャの姿があった。


「……リュウヤよ、そんな顔するな」


 かすれた声に反応して目を向けると、うっすらと笑みを浮かべるクリューネがそこにいた。頬にはほんのりと赤味がさしている。確かな生命と温もりを感じさせるものがそこにあった。


「姫!」


 ティアが叫ぶと同時に、竜族の男たちからどよめきと歓声がどっとわき起こった。奇跡だと諸手を挙げ、抱擁し、或いは歓喜のあまりに号泣している。セリナもテトラの胸元に顔を伏せ、肩を震わせていた。リリシアは安堵した面持ちで、クリューネにやわらかな視線を送っている。ルシフィは微笑を湛えたまま、佇んでいた。ジルとシシバルは固い握手をかわしている。


『これはハッピーエンドなのかしらね』


 ミスリードがぼそりと呟くと、隣でアズライルがひとまずなと、腕組みしながら言った。


『奴らはな。だが、そうでないものも多い。これからのこともある。一刻も早くゼノキアに戻らないと』

『アズにゃん、ホントはリディアちゃんが心配なんでしょ?』


 図星を突かれギロリとアズライルが睨むと、ミスリードはいたずらっぽい笑みで肩をすくめた。アズライルはますます顔をしかめながら、歓喜にわく光景に目を注いでいた。

 敵とはいえ、悪くはない光景だとアズライルは思った。


「リュウヤさん、ありがとうございます……!」


 ティアがリュウヤにしがみついてきたが、後は言葉にならず嗚咽を漏らしている。少年の熱い涙がリュウヤの肩を濡らしたが、リュウヤはティアの泣かせるままにし、そのままクリューネに視線を向けていた。


「リュウヤよ。……やはり、お主は黒髪が似合うな」


 息を吐くような細い声でクリューネが言った。

 夕陽の残光に反射して、クリューネの潤んだ瞳がリュウヤを見つめている。


「よく、帰ってきてくれた」


 抱き締めたい衝動を必死に抑えながら、ようやく言うと、クリューネはニヤリと口の端を歪めた。


「お主を放っておけんからな」


 強がる時の癖で、口の端をちょっと歪めて見せるクリューネは、やはりいつものクリューネだった。

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