第202話 奇跡を望むなら
ホーリーブレスによる衝撃波とトゥールハンマー暴発した余波は堅い岩盤を深く抉り、上空三千キロほども土砂や砕けた岩の破片を吹き上げさせた。
砕けた岩は流星群となってリュウヤたちにも降り注いでいくが、アイーシャの力とリュウヤの全魔力を使ったバリアは微塵も揺るぎもしない。
だが、降り注ぎ砕ける音は身を震わす力を持っていて、セリナとアイーシャは
どれほどの時間が過ぎたのか。
唸る轟音や身を凍らす激震も消え、急に辺りがシンと静かになった。
空から淡い光を感じ、リュウヤが見上げると黒い雲間が割れ一条の光が射し込んできた。みるみる内に雲が去っていき、わずかな間に頭上には澄み切った青い空が広がっていた。無人と思われた荒野のあちこちからどよめきが起こり、魔空艦などの残骸や岩場の陰から、兵士たちがよろめくようにして表に現れた。
「終わったのか……」
自身も青い空を見上げながら、自分で口にしてみてリュウヤはバハムートを思い出し、その姿を求めると、立ち上る煙とプリエネルの破片らしきものがキラキラと宙を舞う中、バハムートが静かに佇んでいた。
やがて竜の身体から金色の光が発し、バハムートの身体を覆い始めるとバハムートは重心を失い、音もなく仰向け様に倒れていった。
「お姉ちゃん!」
「リュウヤさん、行きましょう」
リュウヤはセリナとアイーシャを抱えると、
※ ※ ※
『……終わったのかしら』
『カタはついたようだな』
地面の土が盛り上がり、土中からミスリードが顔を出すと、続いてアズライルがのっそりと這い出てきた。リュウヤとアデミーヴの戦闘で飛ばされた二人は、地面の深い窪みに落とされ戦いの様子を眺めていたのだが、それからバハムートによるホーリーブレスの余波で降り注いだ土砂に埋もれていたのだった。
『仲間割れでアルド将軍も倒してくれたし、うちらの勝利てことで良いのかしら』
『そんなわけないだろう』
アズライルはにべもなく言った。
『これだけの被害だ。ゼノキア様とエリシュナ様の行方も知れん。タギル宰相の方の戦況もどうなっているか。とりあえず、兵をまとめなければ』
身体についた土埃を払いながら、アズライルは周囲を見渡していた。荒れ果てたグリュンヒルデの荒野に転がる無数の屍と兵器の残骸。生き残った両軍の兵士も、程度の差はあれ、怪我をしていない者などいない。今度は長い休戦になりそうだとアズライルは予感しながら、ルシフィの姿を探していた。
歩む足が重い。鉛をつけているような気分だった。
そこで初めて、アズライルは自分が疲れていることに驚いていた。
これまで歴戦を重ねて疲労など感じたことない身体だったが、失うものばかりが多く、徒労に終わった戦に心が疲れを訴えている。
――これも歳のせいかな。
気弱く考える自分を情けないと思いつつも、安堵している気持ちを否定できないでいた。
苦虫を噛み潰すような顔で歩むアズライルの隣では、あーあとミスリードがため息をつきながら、懐からコンパクトを取り出して自分の顔を眺めている。
『今回、なあんも良いことなかったわね。左腕まだ上がらないし。疲れたから、早くお風呂入りたいわあ』
『……』
『私の部下に可愛い
『……』
『まあ、彼も生きていればだけどね。ああもう、それだけ気がかり』
何を想像しているのか、ミスリードはうふうふと不気味な笑みを洩らしている。そんなミスリードをアズライルは横目でじっと見ていた。
『……お前の生き方は、正直で良いな』
『何よ、いきなり』
『何でもない』
いぶかしむミスリードに、アズライルは苦笑いして肩をすくめた。
享楽主義、軽薄で理解不能な生き物としか思えないミスリードだが、お気楽な極楽トンボとも言える生き方がこの時だけはちょっぴり羨ましく思えた。
※ ※ ※
『クリューネさん、しっかりしてください!』
リュウヤたちが向かったその頃、ルシフィが先にクリューネのもとに到着していた。
クリューネは大の字に仰向けになって、赤茶けた大地に倒れていた。竜化の際、衣服や装備品は粒子に変質するらしく綺麗なままだったが、美しい豊かな金色の髪は縮れてごわごわになり、衣服から覗く肌は煤と傷だらけで、衣服のあちこちに血の染みが小さく滲んでくる。
打ち捨てられたぼろ雑巾といった無惨な有り様だったが、ルシフィが傍らで膝をつくと、どうじゃとクリューネが掠れた声が漏れた。
「どうじゃルシフィ。私が……、私がプリエネルを倒してやったぞ」
『無茶なことをしますねえ』
「みんな活躍しとるのに、あんま良いとこ見せられんかったでな。神竜の意地じゃ。おかげで……最後はおいしいとこを持っていけたわ」
『それだけ喋られれば、大丈夫みたいですね』
治癒魔法をかけながらルシフィが言った。
治癒魔法を使うと、負傷程度に応じて魔力の波動は変化して光の強さが増すのだが、それほどの反応がない。擦過傷が目立つものの、見た目ほど怪我は酷くないらしい。
――あれだけの爆発でよくもまあ。
タフな人だとルシフィは半ば呆れ顔をすると、クリューネはルシフィの気持ちを見透かしたように、ニヤリと口の端を歪めた。
「これでも、神竜バハムートじゃぞ」
クリューネがそれでも笑ってみせると、ルシフィは再びため息をついた。今度は呆れではなく、確かに神竜に相応しい人だと心の底から感心していた。
『まあ、ホントに無事で何よりですよ』
「お互いにな」
クリューネとルシフィは視線を合わせると、互いにふっと軽く笑った。そこまで言ってしまうと、閉じた貝のように口を結んで互いに沈黙が続いた。クリューネは晴天の空を見つめ、ルシフィは治療に専念している。ふと、どこからか鳥のさえずりが聞こえてくるのをクリューネは耳に留めた。
「ルシフィ、鳥が何て言っとるかわかるか」
クリューネに訊ねられ、ルシフィは耳を澄ませる仕草をした。
『何も無いと、泣いているですよ』
「泣いている?」
『ええと……“帰る森もない。友達もいない。どこに帰ればいいの”て』
「ウチラは一応あるだけマシなんかな」
『……ですね』
ルシフィは寂しげに笑っていた。
流刑地を勝手に離れたルシフィに帰る場所などないのだが、クリューネは気がつかないでいる。
戦いは終わったという安堵が、クリューネの胸の内を支配していた。
これまでのこと、これからのこと。話すべきことが山ほどあるような気がする。国の代表的な立場の者同士がここにいるのだ。しかし、政治的な話は生々し過ぎる気分だったし、今はようやく終わったという安堵感が胸を浸して、次の言葉がなかなか見つからないでいた。
「お姉ちゃーーん!」
遠くからアイーシャの声がして、ルシフィとクリューネが目を向けると、
リンドブルムだと見る者が思った時、竜の背にまたがるテトラが高い悲鳴を虚空に響かせている。
「ちょ、ちょっと、ティア君!そんな飛び方したら危ないじゃないの!」
“あそこに姫様がいるんですよ。我慢してください!”
「こ、こら……!」
テトラはリンドブルムの首にしがみつき、顔はリンドブルムの表皮のように蒼白にさせている。
喚くテトラを無視してリンドブルムは大きく旋回しながら地上に降りると、リンドブルムは人化し、腰を抜かしたテトラを置いてきぼりにして疾駆してきた。
「姫様、しっかりして下さい!」
「おうティア、お主も元気そうでなりよりだの」
「あんな至近距離で、ホーリーブレスなんて撃つからこんなことになるんですよ!」
「さっそくやかましいな……。そんな痛くないわ。それに勝ったから良いじゃろが」
「でも、僕は……僕は……」
それ以上は言葉にならず、ティアは顔を伏せてむせび泣いていた。クリューネはイチチと痛む身体を起こすと、優しくポンとティアの頭に手を置いた。
「私はこうして生きておる。リンドブルム家の嫡男たる者がこんなことで泣くな。お前をこれからどれだけ泣かすことになるか」
「姫、そのようなことはおっしゃらないで下さい」
「なら、もう泣くな」
「は、はあ……」
ティアは頷くと唇を噛み締めるようにかたく結んで、真っ赤な目を見開いてクリューネを見つめている。そんなティアに微笑をもって酬いてやると、クリューネは視線を隣に移した。
「アイーシャ。お前も帰ってこられて良かったの」
「……うん」
後から来たアイーシャが、ティアの隣でちょこんと正座して座っている。
クリューネを見つめる瞳が潤んではいたが泣いてはいなかった。気丈に振る舞ったわけではない。
思ったよりクリューネが元気だったこともあったが、隣のティアがあまりにも泣きじゃくっているので、アイーシャとしては自分が泣いている場合ではないような気がして、タイミングを失ったに過ぎない。
「……テトラさん、立てますか?」
アイーシャたちの少し後ろでは、腰を抜かしているテトラにセリナが差し伸べていた。
ティアに振り回された挙げ句、急降下で尻餅ついた格好で下ろされ、テトラはひどく喘いでいた。しかし、隊長としての見栄があるのか、「大丈夫よ」と努めて明るく振る舞いながらセリナの手を断って、
だが、額にはかなりの大汗をかいている。
「ちょっとビックリしちゃったなあ」
「ちょっとどころじゃないように見えましたけど」
「いいのよ、ちょっとで」
口を尖らせて憮然とするテトラが変に可愛らしく、クスクスとセリナは笑いを噛み殺すのに必死だった。こういう晴れやかな気分になれたのも久しぶりのような気がしていた。
辛く悲しいことも多く、苦しみを抱えていかなければならないが、これで戦いは終わったのだ。生きている喜びを噛み締め、笑える時にはきちんと笑っていなければ。
リュウヤがどこかを見つめている。セリナが視線を追うと、太陽を背にして複数の人影がこちらに向かって歩いてくる。一人は小柄な女、その傍らで歩く男は誰かを背負っていた。
目を凝らしてその正体が判明すると、セリナは愕然とした。
「ジル……?」
リュウヤの言葉よりも先に、足が自然と前に駆け出していた。
『ジルは俺が運ぶから、リリシアの方を頼む』
黒髪に戻っていたリリシアは憔悴しきった表情でシシバルの服の裾を掴んでいる。瞳には生気がなく、涙の痕で顔が汚れていた。リリシアはぼんやりと視線を宙にさ迷わせていたが、リュウヤの姿にはじめて気がついたようにリュウヤの名を呼んだ。洞穴に小石を投げ込んだような虚ろな声だった。
「リュウヤ様……兄さんが、何も話してくれないんです。返事も。小さな息しているばかりで……。顔も真っ白で骸骨みたい」
シシバルが慎重にジルを下ろす横で、リリシアはうわ言のように呟いていた。右手右足を失い、身体は
「ジルがいるの……?どこに?」
テトラは気配を探ろうとするが、力を感じられず戸惑っている。暗闇の中、シシバルリュウヤとの間に芒洋とした光のゆらめきを感じるが、あまりに薄くて弱く、命が発する力とは思えなかった。
リリシアがジルの傍らに踞り、ジルの顔を覗きこんでいる。
「傷は塞いだんです。身体は衰弱していくばかりで……」
いつしかジルとリリシアの周りには仲間たちが集まっていた。皆、沈痛の面持ちのまま一様に無口で、重苦しい空気が場を支配していた。アイーシャもクリューネと手を繋ぎ、じっとジルを見下ろしている。ふと、アイーシャは空に佇むに何かに気がついた。見上げるとジルがアイーシャたちを見下ろしている。しかしそのジルの身体は白く透明で、青い空が透けて見えた。
「ジル……?」
ジルと思われる人影は、悲しそうな面持ちで地上を見下ろしていた。
――生きたい。
ジルと思われる声が、アイーシャの頭の中に響いた。普段は気さくで明るいジルの悲しく切ない声は、アイーシャの胸を強く締め付けてきた。
訴えかけるような声はジルだけではなかった。グリュンヒルデの荒野のあちこちから、合唱するようにアイーシャに聞こえてくる。見渡すとジルと同じように、白く透明な影が無数に空に佇んでいた。間もなく死を迎えようとする戦士たちとその声なのだろうか。
「……どうした、アイーシャ?」
落ち着きのないアイーシャの様子を不審に思い、リュウヤが尋ねた。
「お父さん、この声聞こえる?」
「……なんのことだ」
アイーシャはすがるような瞳でリュウヤを見上げたが、いぶかしむリュウヤにがっかりして視線を落とし、横たわっているジルに真っ直ぐ目を向けた。
友達の声が聞こえていたはずのリュウヤにも、ジルの声は届いていない。自分だけに聞こえる声。自分の力がさらに増したのだと思うと、胸がどよめきを起こすのを知覚していた。
死を目前に彼らは生きたいと願っている。自分ひとりの力では無理でも、
「お父さん、お父さんのペンダント貸して」
「
「前にやったことが出来るかも」
「前に?」
「覚えてる?わたしが聖霊の神殿で、初めて力を使った時のこと」
リュウヤの脳裏にはサナダによって敵方にまわったリリシアを取り戻し、荒れ果てた荒野と化した平野を元に戻した時のことが浮かんでいた。
それに口には出せないが、アデミーヴだった頃にはプリエネルの機体も修復してみせた。アイーシャの言う通り、ただの治癒魔法とは異なる力がある。
「ジルや他の人も生きたいと願ってる。今ならまだ間に合うかも」
「それは……、ジルを生き返らすということか?」
「ジルはまだ生きてるよ!」
クリューネの一言に、アイーシャが語気鋭く返した。
「ジルだけじゃない。たくさんの、たくさんの人たちが“生きていたい”て言っているの!わたしはそのお手伝いをしたいだけ……!」
言葉の意味よりも鬼気迫るような雰囲気に、クリューネだけでなく、周りの大人たちもアイーシャに圧倒されていた。
居並ぶ誰もが沈黙する中、しかしと口を出せたのはリュウヤだけだった。
「聖霊の神殿とは状況が全然違う。お前の優しい気持ちは大切にしたいけど、負担が大きすぎる」
「でも、このままジルとお別れなんてイヤだよ」
「……」
「大丈夫。もう、お父さんたちを悲しませるようなことはしない」
「……」
「お願い」
ひたりとリュウヤに据えるアイーシャの瞳をリュウヤも無言で見つめていた。使命感と自信に満ち、頼もしさを感じさせる良い表情だと思った。あまりに頼もしく、六歳の子どもが見せる表情なのかという気がかりもあったが、これが成長というものなのかもしれない。
ある種感慨深いものがあったが、リュウヤはアイーシャからリリシア、そしてジルへと視線を移すと、腕を組んで押し黙った。
涙で腫らすリリシアの救いを求める視線が、リュウヤの胸に鋭く刺してくる。ジルを助けたいのはリュウヤも同じ気持ちだったが、アイーシャはジルの他にグリュンヒルデにいる瀕死の兵士全員を救おうとしている。
身体の負担が頭にもたげ決断がつかず、リュウヤは天を仰ぐように空を見上げていた。
「私は、アイーシャを信じているから」
セリナの声が、リュウヤを思案の世界から引き戻した。見るとセリナは明るい笑みを浮かべている。
「リュウヤさん。アイーシャが大丈夫と言っているから大丈夫ですよ」
「しかし……」
「だって、アイーシャですよ?」
説明にもならないひどく簡単な説明だったが、苦難があればすぐ泣いていたセリナとは別人のような明るさがある。
普段の生活ではよく見せる明るい笑顔だったが、その笑顔がリュウヤにそうかもしれないという不思議な説得力を持たせていた。
アイーシャはジルたちを救うために力を尽くそうとしている。こんな小さな子が。忸怩たるものがあったが、力を使えるのはアイーシャしかいない。セリナの言う通り、大丈夫とアイーシャを信じるしか無さそうだった。
ふっとリュウヤは軽いため息をついた。
――ホントに大きくなったんだな。
リュウヤはそう言い掛けたが、今のアイーシャには相応しくないような気がした。リュウヤは直前で言葉を変えた。
「頼む」
「はい」
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