第197話 それでも、その名を呼び続ける

 闇に覆われたグリュンヒルデの地には、闇より濃い煙が立ち込め、静まり返っていた砲声が再び大地を揺らして鳴り響いた。

 魔空艦を浮かべるための無数の魔法陣と爆華が暗闇の空に咲き誇り、爆光に照らされプリエネルと思しき影が黒煙の奥から浮かんだ。影の胸部から、ぎょろりと紅い球体が覗くのをルシフィは目撃すると、握った杖に力が思わずこもった。手のひらにじっとりと汗が滲んでいる。


『あれは……』


 紅の不気味な光とその周囲に生じるする稲光を見て、ルシフィの顔色がみるみるうちに青ざめていった。隣ではリュウヤも激しく舌打ちをしている。


『アルド将軍、トゥールハンマーを使うつもりだ……!』


 プリエネルの機体の損傷が激しく、システムにまで異常をきたしていたのか、エネルギーの滞留速度はかなり遅い。これまでのものと比べれば微量といった段階であるが、それだけの量でも街ひとつを消せるだけの威力を感じていた。


「テトラ隊長!」


 後方から兵士が、絶叫するような怒鳴り声を発した。

 白虎隊の無線係で、携帯型無線機で前線の状況を探っていたのだが、血相を変えた無線係に、リュウヤをはじめ他の兵士たちの目が一斉に彼に注がれる。


「只今、敵方の魔空艦“レオナルド”の無線を傍受しましたが、魔王軍軍団長アズライル、ミスリード及びエリンギア長官シシバル殿がアデミーヴによって一蹴されたとのことです!」

「一蹴だって……?」


 無線係の報告に、兵士の誰かが唸るような声を出し、ざわめきは波となって白虎隊の面々に広がっていく。

 砲火による爆煙と土煙で、リュウヤたちがいる岩山の位置からでは状況が判然としなかったのだが、もたらされた情報に兵士たちは動揺していた。

 ただ一人、隊長のテトラ・カイムだけは剣杖に手に添えたまま、爆煙で影となっているプリエネルにまっすぐ視線を向けて立っている。プリエネルの紅い瞳と球体の光だけが、はっきりとリュウヤにも映る。


「あれ、かなりやばいわよね」


 テトラが唇を噛み締めるようにして、プリエネルの方角に目を据えていた。

 大気からエネルギーが一点に集められ、膨大な力を生み出そうとしている。かなりの距離があるはずなのに、ヒリヒリと肌を刺してくるような殺意の塊がテトラに伝わってくる。


『早くプリエネルを止めないと……』


 アデミーヴことアイーシャ・ラングをどうするかという迷いが、ルシフィの足を止めさせていた。

 短い間にアデミーヴは飛躍的に力を伸ばしている。軍の猛攻を凌ぎ、アズライルらを一蹴したアデミーヴが、プリエネルまでの大いなる壁になることは疑いようもない。

 アイーシャを討つにはためらいがあったが、もう迷っている場合ではないと、杖を握る手に力をこめた。

 だがその前に、やっておかなければならないことがある。

 不治の病を告げる医師はこんな気持ちなんだろうかと、暗い気分がルシフィの痩せた肩に重くのし掛かってきた。


『……リュウヤさん』


 と、ルシフィが口を開いた時、重ねるようにテトラが「ティア君……、だっけ?」と言ってティアマス・リンドブルムを呼んだ。


「あ、はい」

「君、竜族なんでしょ?私をアイーシャちゃんのところまで、連れていってくれない」


 テトラの綺麗な瞳に見つめられ、ティアは思わず気をつけをするようにきちんと背を伸ばした。


「えと、あの、でも、何をするつもりなんですか」

「私がアイーシャ・ラングを斬るから」


 近所に買い物にでも行ってくるような、あっさりとした口調でテトラが言った。

 あまりにあっさりとした言い方に、リュウヤもティアも言葉を失ってテトラを凝視していた。同じことを考えていたルシフィだけが、そっと沈痛な面持ちでうつむいている。

 テトラはリュウヤとセリナに、厳しい顔つきで見渡していた。


「……リュウヤ君、セリナさん。覚悟を決めて」

「でも、テトラさん。さっきみたいに僕たちが頑張れば、アイーシャちゃんを斬らなくても……」

「何を頑張るの」


 ティアが強張ったぎこちない笑みを浮かべて反論したが、突き放すというより叱咤に近いテトラ口ぶりに、ティアはそれ以上言葉が続かなかった。


「もうそんなこと言っている場合じゃないのよ。ティア君、あの子から感じる力は尋常じゃない。さっきの報告聞いたでしょ。シシバル君や魔王軍の軍団長たちが一蹴されたのよ」

「……」

『僕も、テトラさんの考えと同じです』


 ルシフィが横から口を挟んだ。


『プリエネルを倒せば解決すると思ったけれど、アイーシャちゃんの能力が強すぎて倒しきれない。やっぱり、先にアイーシャちゃんをどうにかしないと……』


 ――やっぱり。


 その言葉が頭の中で何度も反芻され、ルシフィは後悔に近い気持ちを抱いていた。

 これまで、プリエネルは何度か倒せる直前までいっていたはずだった。しかし、その度にアデミーヴが主を護り、危機を救ってきた。プリエネルにも確かに恐ろしい力はあるが、その力は“機神オーディン”の域を出ず、ルシフィの感覚で言えばただの兵器でしかない。マスターと呼ぶなら、アデミーヴの方が相応しいとルシフィは思える。

 当初厄介だと感じた通り、先に倒すべきはアデミーヴであったが、かといって、アイーシャを思えばそんなことはできなかったというのも、ルシフィもわかっている。

 だが、足枷をはめたままの戦いは、もう限界に来ていた。

 苦渋とも言えるルシフィの瞳には哀しみの色に満ち、見ているティアの方が心を締め付けられるほどの悲痛な光を帯びていた。

 リュウヤにも言葉を挟む余地が無く、重苦しい沈黙が辺りを包み、白虎隊の男たちは息を詰めるようにして見守っていた。


「……わかりました」


 重い沈黙の間を破ったのはセリナだった。思わぬ一言に、リュウヤが正気を疑い、セリナに向き直ったがその瞳には強い力がある。

「あの子のとてつもない力、あの恐ろしい光。このままじゃいけないていうのはわかります。だけど……」


 セリナは辛そうに口をつぐんで俯いた。溢れる涙大地を濡らし、肩が小刻みに震えている。しかし、それもわずかの間だった。呼吸を整えると、涙を溜めたまま顔を上げテトラを鋭く見据えた。


「だけど、だけどその前にお願いがあるんです」

「お願い?」

「私を、アイーシャのところに連れていって下さい」「行って何するつもりだ」

 リュウヤが言った。


「あの子の名を呼んで……、抱き締めてあげたいんです」

「バカ、何を言っているんだ。死にに行くようなもんだぞ」

「わかってますよ!」


 あまりに無謀な申し出にリュウヤが大声を張り上げると、セリナも負けじと絶叫するように怒鳴り返してきた。


「私に何にも力は無いくらい知ってますよ!でも、私はそのためにここに来たんです。あそこにいるのは私たちの子なんですよ!?」

「……」


 セリナの鬼のような凄まじい形相と見幕に圧され、リュウヤは口を閉じる他無かった。セリナのような無力な女でも必死に抗おうとしている。俺は何をしているのか。


 ――イコウヨ。

 ――アイーシャニアワナキャ。


 風に鳴り、誰かが呼び掛けた気がした。声がしたと思われる方向に振り向くとルシフィと目が合い、訝しげに眉をひそめた。

 声はルシフィのものではない。複数に重なって聞こえたように思う。


 ――気のせいか。


 だが、空耳にせよ、その声はリュウヤの心を強く突き動かしていた。リュウヤにアイーシャを斬ることはできない。しかし、名を呼び、その手に触れることはできるのではないか。あの小さな手のひらを、もう一度握りしめたい。


「わかったよ」


 リュウヤはセリナの肩に優しく手を置いた。

 セリナは目に涙を浮かべてはいたものの、瞳には強い光が宿り、揺るがない意志が全身から伝わってくる。これが母親と強さというものなのだろうかと驚嘆するものがある。

 セリナを見つめたまま、リュウヤが口を開いた。


「テトラ、ルシフィ。一度だけ、俺にチャンスをくれないか」

「何をするつもり」

「アイーシャを呼ぶんだ。あいつの傍で」

『傍で?』

「リュウヤ君、あなた死ぬわよ」


 驚愕するルシフィの隣で、厳しい表情をして腕組みするテトラに、リュウヤは微笑を浮かべて首を振った。


「アイーシャが死んだら、俺たちも死んだようなもんだ。もし駄目なら……、後を頼めるか」

「わかったわ」


 テトラはうなずいて即答した。


「ムルドゥバ軍第三特殊作戦部隊白虎隊隊長テトラ・カイム。リュウヤ・ラングの志が潰えた時には、ムルドゥバ軍の戦士の名誉と誇りに懸けて、私がアデミーヴを倒します」


 そこまで言うと、テトラは踵を返して、白虎隊の男たちを集めて指示を送り始めた。堂々と毅然とした態度で、リュウヤから見ても頼もしい隊長の後ろ姿だった。


「テトラもわかってくれた。だけど、いいかセリナ。こんな状況でも皆が与えてくれたチャンスなんだ。何が起きても後悔するなよ」

「はい、絶対に……」


 見つめ合う二人の傍で、「リュウヤさん」とティアが震える声がした。見ると、ティアは目を真っ赤してむせび泣いていた。


「なんだよ。泣くなティア君」

「でも、こんなの……あんまりですよ」

「あんまりな事は、世界にたくさんあるはずだよ。チャンスを貰えただけでも、感謝するだけさ」

「でも……」

「泣いている場合じゃない。君はバルハムントを復興させるんだろ。君は“あんまりな事”を無くすことを考えなきゃ」

「……」

「ま、クリューネを頼むな」


 しばらく俯いていたが、はいと言って涙を拭うと、背を伸ばしてリュウヤを見上げていた。明らかに涙を堪えて身体が震えている。隠せぬ強がりが何とも少年らしいと思えた。

 人は誰もが強がっている。

 痛みを感じるのは子どもも大人も同じ。違いのは子どもは痛みに慣れていないから泣くだけで、大人は慣れてちょっとだけ我慢強くなっているだけに過ぎない。

 自分もそうだとリュウヤは思う。泣いたところでどうにもならず、それでもやるべきことがあるから強がってみせ、弱さを押し隠し前に進むしかない。

 誰に教えられたわけでもないだろうが、この少年はそれを本能で感じているのだろう。自分がティアの頃はどうだっただろうか。


「強いな、ティア君は」

「からかわないでくださいよ……」

「いや、俺が君の歳だった時はどうってことない、ただの子供だったよ。強いよ、ティア君は」

「……」


 懐かしさもまざって当時を思い出しながら、本心からリュウヤが言うと、ティアは笑おうとしたのだろう。歪めた口や顔がくしゃくしゃになってしまい、慌てて顔を伏せてテトラのところへ駆け出していってしまった。

 リュウヤはティアの後ろ姿を見送っていたが、やがて傍に佇むルシフィへと視線を移した。


「色々と世話になったな。お前がいてくれて助かったよ」


 ルシフィは固い表情のまま視線を落としていたが、やがて意を決したように顔をあげるとリュウヤたちに歩み寄ってきた。


『リュウヤさん、セリナさん……。頑張って』


 生きていて。

 奇跡を信じます。

 リュウヤさんならできます。

 ご武運を等々……。

 そんな励ましが幾つも浮かんだが、どれも今のリュウヤたちに相応しいとは思えず、ようやく口に出来たのは最も陳腐と言われる励ましの言葉だった。


「頑張るよ」


 リュウヤとセリナが頷くと、リュウヤはルシフィと目を合わせたまま、おもむろに口を開いた。


「お前とは、決着つけられそうもないな」

『僕は、リュウヤさんとなんか戦いたくないですよ』


 ふっとルシフィは軽く笑った。


「……」

『こういうこと口に出したくないんですけど、リュウヤさんとの戦い。キツいし、しんどい』

「俺もだよ」


 ルシフィが肩をすくめて苦笑いするのに対し、リュウヤは破顔した。

 これまで何度か命を懸けたやり取りをしたはずなのに、姫王子と呼ばれるこの男に、不思議と憎しみを抱いたことはなく、短い間とはいえ共に戦ったことで、友情と呼べるものが芽生えていた。ルシフィもまた同様で、最後かもしれないという気持ちから、ルシフィは自然と手を差し出していた。

 表情を引き締め、互いに視線をぶつけたまま、リュウヤとルシフィは固い握手をかわした。

 やがて互いの手が離れると、リュウヤの様子を見守っていた白虎隊の副長が剣を携えて近づいてきた。

 最近試作品として白虎隊に配られた長剣で、一般の兵士が使う剣とは異なり、ミスリルと鉄を合成して鍛えた剣である。

 安い割に軽くて斬れ味には良く、白虎隊の兵士の間でも評判が良かった。


「リュウヤ殿、剣を」

「ありがとう。でも、俺にはいりません」

「……しかし」

「俺は戦いに行くんじゃない。娘に会いに行くんですよ」


 リュウヤは剣を受け取るどころか、脇差がわりに差していた腰の短剣を副長に渡してきた。困惑する副長とは対照的にリュウヤの浮かべた笑顔は穏やかで、副長の目には死地に赴く人間の表情とは思えなかった。その穏やかさが逆に凄みとなり、副長は息を呑んで言葉が続かなかった。リュウヤは副長に一礼すると、セリナに向き直り短く言った。


「さあ、行こう、セリナ」

「はい!」


 リュウヤはセリナの肩に手を回すと、セリナもしがみつくようにリュウヤの身体に両手をまわしてきた。リュウヤの胸元のペンダントが激しい光を放ち、鎧衣紡プロメティア・ヴァイスのミスリルプレート群が二人を囲んだ。背中を護るプレートから七色をした蝶の羽根が燦然と輝きを放つ。

 膨大な推進エネルギーは蝶の羽ばたきとなってリュウヤの足下から砂塵を巻き起こし、瞬く間に二人の姿は闇の彼方へと遠ざかっていく。その後を七色の鱗粉がキラキラと雪のように舞い落ちる。


「さあ、私たちも準備をしましょう」


 テトラが白虎隊を指示を送って男たちがそれぞれの支度を始める中、ルシフィとティアは無言のまま、虚空を翔る蝶をただじっと見送っていた。

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