第162話 救いなどいらない

 消えた。

 ベオルバが消えた。

 熱心に本を読み進めていたら、ぷっつりと次のページだけ抜き取られ、場面が変わっていたような感覚に陥り、何が起きたのかとリリベルは戸惑っていた。


『ベオルバ殿……』


 仲間として、それ以上に男としても頼もしさを感じて始めていたベオルバの秀麗な顔が、リリベルの前から忽然と消えた。

 ごっそりと頭部だけが消え、残った下顎には剥き出しになったピンク色の舌や歯が綺麗に並んでいた。残った首元からは、思い出したようにぴゅうぴゅうと鮮血が溢れだしていた。


『ベオルバ!』


 リリベルが絶叫して名を呼ぶと、アデミーヴの銀色の身体がゆっくりとリリベルに向き直った。


〈アデ、ミーーヴ〉


 アデミーヴの身体を、紫色の炎に似たものが包み込んだ。溢れる魔力が強力すぎて、可視化できるほどになっている。触れれば火傷しそうだった。圧倒的な力に恐ろしさで身体が震えた。いつの間にか涙で頬が濡れている。

 抵抗すれば、自分もベオルバと同じ運命を辿ると、リリベルは直感していた。血で濡れたアデミーヴの拳がによって粉砕され、無惨な死体を野にさらしている自分の姿が脳裏に浮かんでいる。

 アデ、ミーヴと無機質な声とともに右手がユラリと持ち上がりかけた。兜の下から、丸い目がひとつ、リリベルを睨み据える。嗚呼、あの拳で殺されるのかと観念した時、グラリとベオルバの死体がアデミーヴに倒れかかってきた。アデミーヴ自身も予測していなかったらしく、しがみつかれた格好になって動きが止まった。


 ――ぼんやりするな。俺ごと撃て!


 どこからか、ベオルバの叱咤する声が聞こえたような気がした。

 瞬間、リリベルは弾けるように背を伸ばし、両手をアデミーヴに掲げていた。

 恐怖も悔いも霧散している。

 蓄えたこの力をただ一点。目の前の敵に放つのみ。

 消失しかけた手の内の火球が、再び強さを取り戻し、激しく瞬きだした。


『どうだあぁぁぁ!!』

〈アデ……〉


 超至近距離で放出された猛火烈掌テヘペロの業火はアデミーヴに避ける隙をも与えず、怒濤の勢いで一気に呑み込んでいった。

 直近なために、全魔力はアデミーヴに集中し、周囲に四散することなく激突した。爆光とともに爆風が嵐のように吹き荒れ、砂塵が辺りに立ち込めて階上にいるアルドたちの視界をも覆っていた。


「わ、私のアデミーヴが!」


 激突した衝撃によって部屋の隅まで転がったアルドや将校らが埃や煙にむせる中、ケインだけは真っ黒な顔をしたまま、這って執務室の外を覗き込んだ。

 根性だけは大したものだと、呻きながらアルドは立ち上がってケインの後を追った。


「“我々の”だ。アデミーヴは国の宝。勘違いするな」

「も、もも、申し訳ありません!しかし、あんな超至近距離で魔法など受けて、アデミーヴも無事とは思えません」

「そうだな」

「それにしても、じれったい。この煙では何も見えません」

「……計測器の反応を探れば良いだろう」


 アルドに言われて、ケインは慌てて自分の手元を見ると、どこで押し潰したのかメーターは割れて針は曲がり、器材の中からバネが飛び出していた。


「……」


 失望して肩を落とすケインの耳に、鼓膜を刺すような高い音が聞こえた。その声は煙の中からする。


〈アデ、ミーーヴ〉

『ば、馬鹿な……』


 リリベルの強張った声が煙に紛れて消えた。

 煙が晴れ、その下から現れたのは、魔力を放出しきって両手を構えたままのリリベルと、魔法陣を前に生じて悠然と佇むアデミーヴ、そしてアデミーヴに炭化して寄りかかるベオルバの姿がそこにあった。


〈アデ、ミーーヴ〉


 アデミーヴが呟き、手を振り払う仕草をすると、爆風のような衝撃が起こり、ベオルバだった炭は砕けて散って、リリベルは地面に叩きつけられていた。


『おのれっ……!』


 急いで上体を起こし、リリベルが雷槍ザンライドを放とうと左手を掲げたが、アデミーヴは瞬時に間合いを詰めていた。鉄拳がリリベルの左腕を殴りつけると、リリベルの左腕は巻紙をひねり潰したように滅茶苦茶にひしゃげてしまっていた。

 ぎゃっと悲鳴をあげてのたうち回るリリベルに、アデミーヴはゆっくりと近づいてきた。リリベルは背を向けて逃げようとしたが、その途端、右足に激痛がはしってリリベルは倒れ込んだ。


『右足が……くそ、私の足が!』


 喘ぎながら自分の足を見ると、リリベルの右足が膝から下が無くなっている。焼けた肉から白い煙が立ち上ぼり、その向こうに右手を掲げたアデミーヴが立っている。

 アデミーヴの撃った光弾はリリベルの右足を粉砕していた。耐え難い激痛に耐えながら荒い呼吸で見詰める先に、アデミーヴが音もなく尾を引きながら寄ってくる。その姿は亡霊そのものだった。


「すごい。凄まじい反応速度とパワーだ」

「女相手にな」


 興奮するケインと対照的に、アルドは冷淡だった。

 ケインの事前説明によれば、人型兵器ホムンクルスは特に感情など抱かないはずだった。一息に始末せずに今の行動も、敵を捕まえるための最善の選択なのだろうが、アルドにはいたぶることを楽しんでいるようにしか見えなかった。


「アデミーヴには殺さず、生かして捕えさせろ。聞きたいことがある」


 アルドの改めて伝えた指示は、風に乗ってリリベルまで届いた。無論、聞かずとも、リリベルには今の攻撃で、戦闘不能に陥らせて捕まえるというアデミーヴの意図はわかっていた。


 ――そうはさせない。


 毒を仕込んだ奥歯は、アデミーヴに砕かれて既にない。舌を噛むなど自裁行為も察して阻もうとするだろう。生き残ったところで情報を聞き出すため、拷問と薬物による尋問が待っている。ただの噂ではなく、見せしめのために廃人となって送られてきた者を、“深淵の森”でリリベルも目にしている。


 ――どうせ死ぬなら。

 

 リリベルの意思に共鳴するかのように、胸元のペンダントが煌々と輝きを放ちだした。本来、結界を解除するためにケスモスが遺した力だが、魔法陣を操るのは変わらないから、契約者としてのケスモスの力を使えれば、別の目的にも使用できる。

 ケスモスの力と、リリベルの力と魂。

 力が結集し、最深層への扉を開いていく。眠っているらしい、漆黒の闇に身体を丸めて横たわる魔物の像をリリベルの心に浮かび上がらせた。


〈アデ、ミーーヴ〉


 未知の力を感知したアデミーヴに、迷いもためらいはなかった。捕獲から抹殺することに考えを切り替え、手のひらに光球を生じさせると、あっという間にリリベルの眼前まで迫っていた。


『……!』


 青白い光が広がり、押し寄せる灼熱の炎がリリベルの全てを焼いていく。


 ――もう、遅いよ。


 来い、闇の王よ。

 突然の事態に周囲が呆然と見つめる中、アデミーヴの熱波に焼かれながら、意識だけでリリベルはニヤリと笑った。最深層の扉が開かれ、自分の魂と引き換えに、さらなる化け物が地上に召喚される。

 救いなどいらない。

 魔王軍に栄光を。

 それだけを願いながら、リリベルの肉体は消滅し魂は闇に喰われていった。


  ※  ※  ※


 アイーシャの力で、アーク・デーモンの数が三分の一以下に減ったおかげで戦いにも随分と負担が減ったが、予断を許さない状況はまだ続いていた。

 アイーシャを抱えながら戦うバハムートは、上空から砲声と爆発音を耳にし、空を見上げると魔空艦が再び攻撃を始めていた。静観しているよりは、という判断なのだろうが、具体的な打開策がないという証明でもある。今度はバハムートも止める気にはならず、向こうのさせたいようにさせていた。

 お姉ちゃんと懐からアイーシャの声がした。


“どうしたアイーシャ。息苦しいか”


 落とさないよう、赤ん坊を抱えように戦っていたが、力が入りすぎていたかもしれない。そう思ってバハムートが訊ねると、アイーシャは疲れきった表情のまま、違うのと首を振った。

 疲労困憊といった様子で、首を振るのも億劫そうに見えた。

 核ミサイルを封じようとした時にも見せなかったアイーシャの様子から、“力を吸われた”という表現は間違いでは無さそうだった。


「感じるの。くらい闇の底からなにか来るって」

“新手のアーク・デーモンか?”

「ううん、一体だけ。その王様みたいな……」


 アイーシャがそこまで言った時、魔法陣は新たな召喚者を招くために、強い輝きを帯びた。アーク・デーモンも戦いの手を休めて光り輝く魔法陣を見上げている。その光はこれまでの中で最も強く、無数の光軸を放ち地上を照らす光景は、ある種神々しくさえ思えた。


「来る……」

“まだ何か来るのか”

「うん。私の力があれば、悪魔さんと同じように浄化できたんだけど……、ごめんなさい」

“だから謝るな。お前はよくやった。あまり謝ると、謝る価値がさがるぞ”

「う、うん……。ごめ」


 言い掛けて、アイーシャは慌てて口をつぐんだ。そっと見上げると、バハムートの獣の目とぶつかった。姿かたちはまるで変わっているのに、その瞳の柔らかさはいつものクリューネで、ひどく優しい。


“構わんさ。それより次に来る奴とやらだ”


 バハムートは魔法陣に視線を移した。

 アルドも生き延びた人々も、外にいるムルドゥバの兵士たちが見守る中、腹の底にまで響くような不快な音が人々の耳を捉えた。聞き慣れた音だが、汚ならしく穢れた音。便所やゴミ捨て場、バハムートはスラム街の酔っぱらいのヘドを思い出していた。


“……この音、羽音?”


 リンドブルムが近づく音の正体に、見当をつけた時だった。

 魔法陣の中から、四本の白く長い手がにょっきりと伸びてアーク・デーモンの巨体を握りしめた。一本一本異なり、或いは筋骨隆々或いは女の手、或いは老いて細く或いは幼子のように丸い手をしていた。

 やがて、魔法陣に影が浮かびのそりと現した姿に人々は唖然とした。頭の半分以上を占める赤く丸い目。口からは二本の長い牙が生えている。丸い身体から伸ばした四枚の羽根には、それぞれドクロに似た模様が描かれている。魔法陣から現れた魔物は、手にしたアーク・デーモンも頭から喰らい始めた。真っ黒な血や体液が口元を汚しているが、魔物は奇声をあげて咆哮している。喜んでいるらしかった。


“仲間を喰ってる……”


 異様な光景に、リンドブルムが小さく息を呑んだ。

“あれは蝿……ですか?”

“なるほど、あの姿は肥溜めの主、吹きだまりの長、糞王。最深層に棲み着く最底辺の王に相応しいな”


 バハムートは鼻で笑って見せたが無論強がりでしかない。

 アーク・デーモン同様、伝承でしか目にしたことがなかった。普段は最深層に潜み、眠り続けている。しかし、地上に喚び出されれば、無理矢理起こされた怒りと貪乱な食欲を満たすために暴れ続けるという。

 穢れた魂であるアーク・デーモンを狂喜して食しているところに、歪みきった闇の王の性格を見た気がして、バハムートは自分の肌が不意に粟立つのを感じていた。


“あれがベルゼバブという奴か”

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