第145話 ルシフィは見舞う、跳ねる、悄気る

『まったくもう、ヤムナークたら』


 魔王軍の王都ゼノキアはその日は心地よい青空に覆われ、ルシフィは執事のヤムナークへの見舞いのため病院へ足を運んでいたのだのだが、病室に入るなり眉をひそめた。

 上半身裸で、右腕に包帯を巻いたままのヤムナークが、身体中から大量の汗を流しながら床でスクワットをしている。

 まだ医者には安静と言われているはずなのに、いったい何千回行ったのか、床はぐっしょり濡れて水溜まりができている。


『お医者さんから安静と言われてるはずでしょ』


 ルシフィが見舞いにくるのはこれで三度目で、前回の二度目の時はまだ意識を取り戻したばかりで、ベッドで横になっている状態だったから、ルシフィとしては医者の肩を持ってしまう。


『いやいや、医者など当てにはなりませんからな』


 主に咎められて流石に運動をやめはしたものの、老執事は汗を拭いながら快活に笑った。いつも厚いタキシード姿だからわかりにくいが、退役してからかなりの年月が経っているはずなのに、鋼のようにたくましい肉体をしている。


『奴らは無難なことしか言いませんぞ。ルシフィ様が来られた次の日には歩けるようにはなりましたが、私がどのくらいの強度の運動や負荷をかければよいか聞いても、“とにかく安静”“とにかく完治するまで”とろくな返答がありませんからな』

『……』

『しかし、ほれ、今はこの通り五千回は楽にできます。まったく、医者はあてにならん』


 最後は憤然とした様子で、ヤムナークは入院患者用のパジャマを羽織った。王子の執事は護衛を兼ねている。一刻も早く復帰したいと願っているヤムナークには、医者の診断や指示が不満でならないようだった。


『……まあ、その調子なら、もうすぐ退院だね』


 ルシフィは苦笑いして、見舞い用に持ってきた果物の詰まった籠を棚に置いた。

 無人島に流れ着いたルシフィは、ヌイイと呼ばれる動物たちの力を借りて、海に漂流していたヤムナークたちを探しだした。

 ヤムナークの怪我が一番酷く、包帯を巻いた右腕は落下した衝撃で右腕が複雑骨折し、意識も完全に失っていた。

 ルシフィが魔法で治療してからゼノキアまでヌイイに運びでもらい、そのまま国立病院に入院することになった。

 三日ほどして意識を取り戻したのだが、長く海に浸かっていたために神経が麻痺している恐れがあるということで、二週間経った今もまだ入院していた。


『せっかくだし、何か食べようか』


 ルシフィはリンゴを取り出し、食べるかと尋ねるとヤムナークは恐縮して首を振った。


『ルシフィ様にお手をわずらわすわけには……』

『僕は見舞いに来たんだよ。このくらいさせてよ。それに右腕はまだ完治していないんでしょ』

『あ、いやいや、リンゴなど、そのままかじって食せば済みますので』

『せっかくなんだから、そんな野蛮な食べ方やめてよ』


 ルシフィが悲しげに顔をしかめると、ヤムナークも遠慮しすぎたと思い直し、では、いただきますと神妙な面持ちで頭を下げた。


『……町はだいぶ賑やかになりましたな。あの騒ぎが嘘のようです』


 ヤムナークが窓の外から病院の敷地の先に映る、通りの往来を眺めながら言った。

 丸椅子に腰掛けるルシフィは、リンゴの皮をナイフで剥きながら、うんとうなずき、ウサギの形にしながらひとつずつ皿に並べていく。シャリシャリと、小気味の良い音が病室に響いていた。

 一時は略奪や暴動も発生し、町のあちこちで規制が敷かれて憲兵隊の警笛がよく響いていたものだった。

 ルシフィも帰還してから、町を荒らす盗賊や悪漢退治に奔走したものだが、今、町から聞こえてくるのは音楽隊が鳴らす勇壮な楽曲に、人々の歓声ばかりである。


『タギル宰相がよくやってくれたからね。あれだけの騒動だったのに、大した混も無くて済んだ。それに……』


 微笑を浮かべているものの、ルシフィの表情には幾分、暗い影が差している。


『なにより、父上と母上が戻って来たのが、何より大きいかな』

『ゼノキア様とはお話になられてないのですか』


 ゼノキアのルシフィに対する冷淡さは、ヤムナークもよく知っている。

 ルシフィの表情から素早く察してヤムナークが訊ねると、ルシフィは肩をすくめて寂しそうに笑った。


『一言くらいかな。忙しそうだしね』

『……』


 終わったよとリンゴを盛った皿を飯台に置くと、ヤムナークはベッドに腰掛けて、恐縮しながらひとつずつ摘まんだ。


『やはり、汗をかいた後には、このみずみずしさがたまりませんな。病院の飯には飽きました』


 ヤムナークは話題をそらそうとしたが、やはりルシフィの表情は暗く、話はそこで途切れてしまう。

 昨日、ゼノキアが行方不明となっていた王妃エリシュナととも帰還したばかりか、ムルドゥバの大隊長を討ち、停戦合意の知らせを聞いて町は祝賀ムードに包まれていた。

 何より停戦とはいえ、長い戦争が終わったことに人々は安堵し、魔族も人間も関係なく騒ぎ、平和の到来を祝っていた。


『ごめんね。せっかくお見舞いにきたのに』

『いえ、嬉しゅうございます。私も、一刻も早く退院いたしますからな』

『お医者さんの言うことは聞かなきゃダメだよ』

『一応、聞きはいたしましょう』


 苦笑して、そろそろ行くねとルシフィは立ち上がって言った。

 病室の見送りまできたヤムナークに手を振って、給湯室に借りた果物ナイフやまな板を返し、その後ルシフィが病院の受付で挨拶すると、看護婦から『おじいちゃん、早く退院できるといいわね』と励まされた。


『こんな可愛い女の子が来たら、ヤムナークさんも寝込んでいる暇ないわよね』

『あの、僕は男なんですけど……』

『そうね。私も若い頃はそんな気持ちだったわよ』

『……』

『看病て大変だから、私は男、負けないわよ!て、それくらいの気構えでいかないとね。体力勝負の仕事だし』

『……』


 これ以上言っても無駄だと思い、ルシフィは口をつぐんだ。

 病院に訪れるのはこれで三回目になる。身分を明かしているわけでもないのに、看護婦たちのやけに労るような接し方が妙だと思っていたのだが、これでようやくはっきりした。


『じゃあ、これで……』

『うん、あなたみたいな子が、ウチの娘だったら良かったのにねえ』

『あはは……』


 お忍びなためひとり。

 士官服ではなく、気楽に動ける旅装でいる。

 その旅装もふっくらとしたズボンに、肩まで露出した服である。ルシフィ本人の選択だが、自身はカッコイイと思いながらも周りの使用人は可愛いと思うような服装。

 似合うという点では共通しているから、使用人も変と思わないし言わないから、ルシフィも気がついていなかった。

 看護婦もルシフィという王子の名は知っていても、同じ名前くらいの認識で、目の前にいるのが魔王ゼノキアの嫡子とは想像もしていなかった。


『とにかく、頑張ってね』

『あ、はあ……』


 ルシフィは乾いた笑いをあげると、ともかく深々とお辞儀して病院の出入口へと歩いていった。

 薄暗い建物から敷地を出ると、目映い陽の光にルシフィは思わず顔をしかめた。秋とはいえそれほど強い陽射しでもなかったのだが、顔をしかめたのは、耳をかき回すような軍楽のやかましさも影響している他、看護婦の言葉が多分にある。

 

 ――どうして、そんなに女の子と思うのかな。


 こんなに堂々と歩いているのにと、ルシフィは不思議でならない。

 もっとも、堂々とというのはルシフィ本人が思っているだけで、今も細い両腕を前手にして、若干内股気味にしなりと歩く姿は、堂々というイメージからはほど遠い。


『あの子、可憐だなあ……』

『天使か』


 通りすがる患者や看護婦、見舞い客がちらちらと、或いはうっとり、もしくはため息つきながらルシフィを見送っていた。

 途中、ルシフィに見とれていた入院患者らしき男が、その恋人の女にはたかれたのも、自分のせいとは知らないで、ルシフィは騒ぎを訝しげに振り返りながら門へ歩いていく。

 門の外に出ると、人の歓声や軍楽が一際大きくなった気がした。

 分厚い人だかりが出来、人々の頭の向こうから軍楽が響いた。歓声が更に大きくなったので見ると、奏しながら通りすぎる音楽隊の後から人を乗せた荷馬車が何台も続き、紙にくるまれた小さなおひねりを投げている。

 中には銅銭一枚とあめ玉が入っていて、祝いにと会議で決まったものだ。飛び交うおひねりに向かって、群衆は無数の手を空に掲げて振っている。


 ――やっぱり、貰えれば嬉しいんだな。


 群衆に銀髪が多く目立つ。

 魔族は人間より経済的に豊かなはずだが、それでもわずかな小銭が入った紙袋に嬉々として手を伸ばしていた。

 楽しそうだなあ、と眺めているうちに、飛んでくるものがなにかとても価値があり、有難いもののように思えてきた。自然、足は群衆に向き、いつの間にかルシフィもおひねりに向かって手を伸ばしながら、ぴょんぴょん跳ねていた。

 その内のひとつがルシフィの手に届き、紙を開けると中に銅銭一枚にあめ玉一個が入っているのを見ていると、その正体は不明だが言葉にし難い嬉しさが湧いてくるのを感じていた。

 

『ルシフィ様』


 あめ玉を口にしてほくほく顔をしていると、背後から厳かな低い声がし、振り返ると地味な出で立ちをした初老の男が苦い顔をして立っている。


『あ……』


 一般庶民のような姿なので気がつくのが遅れたが、声を掛けてきたのはタギル宰相だった。


『タギル宰相、こんなとこでどうも……』


 タギルは宰相就任以前から、“スケサルス”と“カクサム”という屈強な側近を二人ほど連れてお忍びで市中を見て廻り、不穏な事件に遭遇すれば直ちに取り締まる。

 庶民にはルシフィより顔が知られているはずだが、イメージが変わればわかりにくいものらしく、タギルと気がつく者はいなかった。


『病院にいると使用人に話は聞きましたが、何をしておられます』

『……おひねりが欲しくて』

『あれは庶民を祝うためのもの。あなたは王子でしょう。それを横取りとは』

『……はい』


 我ながら軽率だったとルシフィは、顔を真っ赤にさせてうなだれた。付き人二人が笑いを噛み殺しているのが見えて、余計に恥ずかしくなった。


『ちょうど良い機会です。一緒に宮廷へ戻りましょう』

『……うん』


 ルシフィは肩を落として帰ろうとすると、道の端でぼんやりと人垣を眺めて佇む、人間の少女の姿が目に飛び込んできた。

 つぎはぎだらけのみすぼらしい衣服で、見るからに気弱そうな女の子だった。騒ぐ人の群れに圧倒されて、入る度胸がないのだろう。

 ルシフィは少女に近づき、小銭が入った紙袋を渡した。


『はい、これ』

「え、でも、お姉ちゃんの……」


 お姉ちゃんと言われ、幾分がっかりしながら、ルシフィは言葉を続けた。


『いいんだよ。本当は君が持っておくものだから』

「でも……」


 ためらう少女の声には、怯えの色がある。

 人間を食料とする魔族に声を掛けられ、お金の代わりに自分を食べるつもりと思っているのかもしれないと、ルシフィは察した。


『いいから取っときな』

「う、うん……」

『それと、僕は“お兄ちゃん”だからね』


 えっと少女が言葉の意味が呑み込めず呆然としている間に、ルシフィは少女に小銭を握らせて、その場を離れていった。


『お優しいですな』

『横取りした僕が、優しいわけないでしょ』

『皮肉とよくお気づきで』

『タギル宰相て、意外にひどいよね』

『その二面性があるから宰相が務まるんですよ』


 離れて様子を見ていたタギルに、ルシフィが苦笑いした。


『さあ、急ぎましょう。午後から朝議の間に集まるようゼノキア様から指示があったはず』

『まだ時間は充分あるでしょ』


 ルシフィは空の太陽を見上げながら言った。まだ正午を知らせる鐘も鳴っていない。風も心地よくしばらく外にいたかった。


『また、おひねり貰いに行かれては困りますからな』

『……』


 ルシフィとタギルの後方で、付き人二人がうつむいている。肩の震えから、笑いを堪えているのはルシフィにもわかっていた。

 憮然として口を尖らせるルシフィとタギル一行は人々が賑わう中央の大通りから、十字路から曲がってひとつ道をずらし、六番街に入って宮廷の西門へと向かって歩いた。

 大通りなら南の正門まで道なりだが、タギルがお忍びでいつも使っている西門の方が話が早い。


 六番街は人間の職人たちが多く住む区域で、工房が多く建ち並ぶ。石畳の薄暗い路地は静かで、ひとつ道をずらしただけなのに人気は急に少なくなった。家屋に遮られたせいなのか、音楽隊の楽曲や人々の喧騒が急に遠退いていった。

 違う世界に迷い込んだような感覚で、その感覚はルシフィにもたらされた報告を思い出させた。


『異世界と異世界の魔法か……』

『アイーシャ・ラングにそんな力があるとは、思いもよりませなんだな』

『そうだね』


 タギルも似たようなことを考えていたらしく、すんなりと話が繋がった。

 異世界の存在と、そこから持ち込まれた核ミサイルの脅威は、前線から帰還した兵士たちによって瞬く間に広まっていた。核の威力は遠方のゼノキアまでには届いていなかったが、凄まじさは兵士たちの口から死の嵐、地獄の花など様々な形容され伝えられた。

 何より、人質だったアイーシャ・ラングが異世界に転移させ、その核ミサイルという魔法を操ったという誤った情報が、一層、魔王軍の将官を驚かせた。


『朝議もその件ですかな』

『タギル宰相も聞いてないの』

『ルシフィ様もですか?』

『……うん』


 ルシフィとタギルは立ち止まって互いの顔を見合わせていたが、結局は答えが出ずに再び並んで歩き始めた。


 ――異世界かあ。


 アイーシャや核ミサイルも気になるが、異世界という存在がルシフィの心をとらえていた。

 みんなはどんな世界に行ってきたんだろうと、宙を見据えながらルシフィは考える。

“異世界”という言葉には、ルシフィの心を躍らせる響きがある。大まかな内容は耳にしたが、ルシフィには報告というよりも何か冒険譚を聞いているようで、心が弾んでくるものがあった。


 ――僕も行ってみたいな。


 様々な想像を巡らすルシフィたちの耳に、コツコツとどこからか木槌らしい音が聞こえてくた。

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